日記の続き#315

たとえば鬱っぽくなって家からぜんぜん出られなくなっても、一日ひとつ日記を書くことはできるという体を作っておくことはめちゃめちゃ助けになるのではないか、と、こないだツイートしたらたちどころに500近くいいねがついて、なんだか人を騙しているような気持ちになった。嘘をついているわけではない、というか少なくとも、僕がそう思っているということは本当なのだが、それは僕が僕のためにそう思っているのであって、それが誰かの役に立つかもしれないという当て込みも含めて僕の思考のひとつの取っ手として置いているのだが、べつにそれが帰責性を生むのではないとしてもそれがいつのまにか他人にとっての他人の言葉として寄りかかる手頃な対象になってしまうことに対して僕はまだ準備ができていない、あるいは同じことなのだが、これに「いいね」をするということに対して呆れてしまったのかもしれない。かれこれ100人以上日記を始めてはやめる人を見てきた。レコーディングダイエットでもなんでもいいが、自分の生活にひとつのインジケーターを埋め込むというのは破壊的なことだ。僕が鬱病になったら日記が書けるか? たぶん日記を書くことだけはできるだろう。でもたぶんそれ自体が病的なことだ。