日記の続き#327

ダウンジャケットもコートも着ずに出かける。珈琲館。背後に座った男ふたりが投資の話をしている。しかし内容があまりに抽象的というか単調というか、ここにこう張ればこう儲かるというゲームのような内容で、しかもドル単位で話していたので投資じゃなくてオンラインカジノか何かだろうと見当をつけた。ようやく翻訳が出たデリダの『絵葉書』2巻を読む。フロイト『快原理の彼岸』を200ページくらい使って注釈している。それにしてもデリダを通読するというのはどういうことなのか。最初の数十ページでやりたいことはわかる。『快原理の彼岸』の著者としての、精神分析の父としての、そして糸巻き遊びをする孫エルンストの祖父としての、おおよそ三重の「フロイト」にレベル分けしたうえで、「PP」(フランス語読みで「ぺぺ」つまり「おじいちゃん」の意味になる)と表記される快原理そのものの権威的な振る舞いとそれを記述/創設するフロイトの振る舞いが絡まり合っていく。それ自体は短い『快原理の彼岸』を読んでさえいれば取りかかれるのでデリダを読み始めるのにはいいテクストだと思うが、それにしてもこれをわざわざ最初から最後まで読むとはどういうことなのか。彼が「これ」をやめないということは信頼なのか。男ふたりはひとしきり儲け方をシェアしたあと、仲間が酔っ払ってひき逃げをしたがあまりに酔っていて現場に戻ってきてしまい捕まって、金を渡して出たという話を楽しそうにしていて、やっぱりヤクザなのだと思った。いつかもこんなことがあった。回帰、負債、赦し。これもデリダ的な問題系だ。珈琲館、ヤクザ、オンラインカジノ。こちらはデリダ的ではない。