日記の続き#342

機械翻訳について、哲学研究者(それもデリダ研究者)が「サーベイ」には使えるが「一次文献」の翻訳では「関わるべきではない」とツイートしているのを見て、なぜだか深く落ち込んでしまった。文学部的なものはこうした文学部的な良心によって生きながらえるしかないのだろう。「一次文献」の翻訳は機械には任せられない。それはそうだ。文学部的にはそう言うしかない(しかし何が「一次文献」か誰が決めるのか)。しかし他方で、そう言う側も、それがかなりの程度まで進むことによって開ける場であらためてそう言うことに宿る価値を当て込み、先取りしている。どこまでも良心的に。機械、投機、良心あるいは意図、猜疑あるいは偽誓。しかしその循環を丸ごとエコノミーと名指したのがデリダではなかったか。いや、たぶん件の研究者も、それくらいは当然わかっているが、とりあえずそういう良心的なことを言っておくべきだと思ったのかもしれない。しかしこの「べき」、良心的に振る舞っておくべきという、デカルトの「暫定的道徳」のような二重化された良心は何を意味するのか。文学部的な良識とそこに加えられるデリダ的な捻りは、教育的な観点から初級/上級としてとりあえず切り離しておくべきだということだろうか。これならよくわかる。でもぜんぜん面白くない。