日記の続き#344

博論本の執筆は客観的に見れば大詰めの時期で、まだ5章と6章の改稿がまるまる残っているのだが、なぜだかここ1週間ほどのあいだ、まともに作業に取りかかるつもりになれない。ほっといてもどうせ書き上がるという奇妙な楽観があって、それは逃避の裏返しなのだと言ってみることはできるのだが「本人」には響かない。

太くて粘度の高い油性ボールペンが欲しくて有隣堂でパワータンクといういかにもな名前の1.0mmのペンを買った。本を読んだり作業をしたりするときにただ机にノートを広げておくだけで、認知が跳ね返る面がひとつ増えて、SNSやブラウザに目が横滑りしていくことが妨げられる気がする。

本を読んでいてふと、ウォークマンを買ったらそれでオーディブルも聴けるのだろうかと思う。『門』を聴きながらジムでマシンを漕ぐ自分が思い浮かぶ。スマホを手に取りそうになってこんな時間にして1秒ほどの思いなしのためにわれわれは読んでいる本から目を離しているのだと思う。そうして無事にサファリの検索窓にたどり着ければいいものの、顔を向ければメールやSNSの通知バナーが降りてきて、そちらに気をとられればもう最初の目的を忘れてしまっている。忘れることが問題なのではない。忘れていいものの忘却が別の忘れていいものへの回付とセットになっていることが問題なのだ、と、本を読みながら机に開いたノートに、さっき買ったボールペンで書いた。

夜、帰るとアパートの階段に若い男が座っていてぎょっとした。

翌朝がゴミの日で、妻と一緒に冷蔵庫を整理した。ダメになったものがたくさんある。彼女が今度から気を付けなきゃと言う。

読み始めたドン・デリーロの『ホワイトノイズ』にちょうどこんな台詞があった。

「ママは買わないと自分を責め、買って食べないと自分を責め、冷蔵庫のなかで見て自分を責め、捨てながら自分を責める」

気持ちはよくわかる。