日記の続き#363

どうにも「書類」だと思うと書く気が出ないので昨日の続きをここに書いていこう。

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……こうした問題意識のなかで、私は早い段階から、狭義の哲学研究に収まらない、批評というフィールドでも活動してきました。私はそれを研究の「アウトリーチ」とは呼びたくありません。なぜならアウトリーチには、啓蒙という口実のもとでの専門家と非専門家の分断とともに、応用という口実のもとでの非哲学的領域の哲学への包摂が含意されているように思われるからです。もちろん哲学には専門性があり、それを用いて他領域のことを説明することが必要な場合もあるでしょうが、私が批判的に見ているのは、専門性・必要性が哲学とその外との関係のありかたを考えないで済ませるための理由にすり替わってしまうことで、「権威」とはそのすり替えのことなのだと思います。

美学への批判、哲学的理論の適用への批判、実践的・制度的なレベルでの哲学の自閉性への批判、これらは私の活動において、学術的な論文から文芸誌等での批評やエッセイまでを含めて一貫しています。そしてそれは「哲学の他者関係」を考えるためのものであると同時に、「他者関係一般」を考える実践でもあります。

柄谷行人の『探求』以降、他者論は日本の批評の中心的なテーマのひとつとなっています。それはもちろんレヴィナスに由来するフランス哲学における他者論の流行を受けてのことでもあるのですが、柄谷、そして彼を批判的に引き継ぐ東浩紀においてより顕著なように、彼らはたんに抽象的に他者を論じるだけでなく、出版や組織の立ち上げを通して、社会的・政治的なレベルでの「公共性」として他者関係を実験する活動を繰り広げています。たとえば東は『観光客の哲学』において、一見軽薄な観光というトピックから出発して、とりわけ現代思想においていきおい絶対化・神秘化されてしまうきらいのある他者論を批判しつつ、軽薄であることが可能にする開かれを論じました。そしてそれは、彼が自身の会社ゲンロンで企画しているチェルノブイリ原発ツアーなどの活動と不可分であり、それはおよそ学術的研究のアウトリーチとはかけ離れているものです。

研究の話に折り返すと、私がドゥルーズの哲学を芸術との関係という観点から考察しているのは、そもそもこうした、日本において「批評」と呼ばれている動向を受けてのことです。あらためてそのプロジェクトを要約すると、哲学と芸術の異質性を前提としつつ(つまり、両者のあいだに予定調和や共通の土台を想定せず)、いかにして哲学は芸術との出会いをおのれの変化の契機とするのか(これは具体的には新たな哲学的概念の創造に相当します)ということです。これをさらに一般的な問いとしてパラフレーズすると、自律的であるということを閉鎖的であるということにせず、他者に開かれているということを包摂の口実にしないということになります。

これは私のあらゆるジャンルの文章に一貫しているスタンスであり、かえって具体的にどこがどうだと示すのが難しいのですが、ここではそのうちでももっとも非学術的で、もっとも非社会的にも見える「日記」という形式で書きながら考えてきたこと、実践してきたことを通して説明してみようと思います。

私は自分のウェブサイトで毎日日記を書いていて、2022年には1年分の日記をまとめた『日記〈私家版〉』を自主制作して刊行しました。これはおよそ学術的な「業績」にはカウントされないような活動ですが、それについては「業績一覧」から判断していただくことにします……

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なんだか書いているうちに最近考えていることに引っ張られて話がねじれてきた。最近はどの文章もこういう感じになるが、これはこれでいいのだと思っている。それにしても公募書類で日記の話なんてしてどうするのか。まあそうなったのだからしょうがない。あとすこし書き足して形を整えて出そう。