8月19日

「言葉と物」はちょっとトピック先行で書きすぎている気もするので、ちょっと内容を整理してみよう。とはいえ、そういう書き方でもいいようにしている側面もあり、だからこそAとBをひとつの回のなかで行ったり来たりできるようにしているのだった。いきなり話が逸れるが、僕はもう、最終的には、僕がそう書いたということ自体が内容なのだと思っている。もちろんその外側(?)に、主張なり論理なり形式なり文体なりがあって、僕はそれに筋を通そうとするわけだが、その成否よりそれを僕がやっているということのほうが、本当は大きいはずなのだ。これは僕が偉いとか、「この人を見よ」ということではなく、歴史とはそういうものだと思い始めているということだ(「この人を見よ」って結局そういうことなのかもしれない)。たとえば昨日の日記にはマティスの作品について具体的な考察は一切書かなかったが、それは100年後から見て、一介の批評家が2023年に書くマティスについての思いつきより、昨日書いたような一日があったということのほうが歴史的に重要だろうと思っているからだ。一方でそれは「資料的価値」と同じではなく、なんというか、誰にも所有されないものの価値だ。他方でそれは、僕が考えていることより僕に起こっていることのほうが大きく、広いということだ。このふたつは同じことのように思う。ぜんぜん違う話になってしまった。「言葉と物」の整理は原稿のほうでやろう。

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カテゴリー: 日記