1月3日

今年はまず『非美学』が出て、論集が出て、共著が出て、共訳書も出る。日記も本にしたいが、自分で出すのかどこか版元に持ち込むかまだ決めていない。あと『眼がスクリーンになるとき』の中国語訳と、まだ決まっていないもうひとつのことがある。でもこれらはどちらかというともう僕の仕事は終わっているもので、あとは収穫してパッケージして販売するだけなので、また別の種を撒かないといけない。連載がその主だった場所になるが、それも数年前から考えてきたことを卸しつつ書いているので、さらにその次を用意しないといけない。しかしよくよく考えてみると、僕がここ4年くらい何を考えて何を書いてきたか、そこにどういう方向性があるか、数人の友達以外はほとんど知らないのだと思う。これだけ日記を書いているのに。それでまた4, 5年後にやっと、いま考えていることを世に問えるのだ。現在にも悠久にも寄りかかれない。そういうラグに対する耐性がないとこういう仕事は難しいのかもしれない。

夜中、『非美学』の最後の節の続きに取りかかるが、文章は進まず、というか、2時間ほどそこまでのところを読み返したり文献に当たったりして、前回書いた最後の2000字ほどがまるごと要らないのだということに気がついた。書けるときに書くしかないが、書けるときに書いただけのもの、とりわけその最後の数段落は、自分が書いたものではないというくらい疑ってかからないといけない。いや、紛れもなく自分が書いたものだから難しいのだけど。

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カテゴリー: 日記