3月25日

丸1年、全17回(予定より2回延びた)神保町のPARAでやってきた『存在論的、郵便的』講読の最終回だった。こういう本は放っておくとあっという間に読めないものになるのだろうと最近、『非美学』を書き終えてなおさら強く思うようになった。デリダ論としては読まれるだろうし、日本の批評・哲学の歴史のなかでの東浩紀研究としても読まれるだろう。でもそれでは、なんと言えばいいのか、たとえばこの本で語られる「転移」の複数性と、それをこの本自体に埋め込むためのパフォーマンスとしての中断がどういう切迫感のもとでなされているのか、その「動機」のようなものは復元不可能になるだろうと思う。それが復元されるのは、精読や方法論的なレベルも含めた構造分析によってではなく、分析する側が自分自身の存在を払い出すことによって、つまりこの本がそうしたのと同じだけのチップを賭けたうえで、ある細部から別の全体性に跳ね返るような批判をすることによってだ。読み替えることと復元することの切り離せなさを引き受けることのできるような、自分なりのスタンスをもつこと、そういうことを「批判」と呼ぶのだと思う。今回はあらかじめ長めに時間を取ってもらったのだが、結局さらに30分ほど押して終わって、最後に、これだけ具体的な手触りとともに読んだ哲学書は忘れてしまっていい。「郵便」やら「誤配」やらを引用・活用するより、正しく誤配として各々の実践に跳ね返るはずなので、と言った。

投稿日:
カテゴリー: 日記