3月29日

『非美学』のあとがきの断片がふと降りてきて、ここに書き留めておいたほうがいいだろうと思ったので書いておく。

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博士論文を出してからの3年間は、この本を書く(書きなおす)3年間であり、毎日自分のサイト(https://tfukuo.com)で日記を書いて公開していた3年間だった。

それは私にとって、2011年の春に大学入学とともに岡山の片田舎から大阪に出てきて過ごした、まったく友達ができなかった4年間と同じくらい、暗く、静かな期間だった。不思議なことに当時の私は、誰とも仲良くなんかしてやるものかと思っており、その孤独を孤独とも思っていなかった。そのあいだにドゥルーズの本に出会い、読んだこともなかった哲学書を読むようになり、小説が好きだからという理由で文学部に入ったのに、ルイス・ブニュエルの映画についての卒論を書くことになった。

4年生になって、檜垣立哉ゼミの院生の方たちがやっていた『意味の論理学』の読書会に学部をまたいでお邪魔して、小倉拓也さんや米田翼さんら先輩方にとてもよくしてもらった。彼らは楽しそうだし、自分も彼らのように研究ができるのかもしれないと思った。そもそも就職活動をしていなかった。

ちょうどその頃に、ツイッターを介して同じ世代の書き手たちが自分の文章を自分たちで作った「批評誌」で発表しているのを知り、関係者からの手売りでしか買えない『アーギュメンツ』という雑誌を、著者のひとりである黒嵜想さんから京都の喫茶店で会って買った。そこから「首塚」と呼ばれる彼の家に入り浸るようになり、寄稿者として参加した『アーギュメンツ#2』が出たのは、2017年の春、修士を出て横浜に移ってきた直後だった。

大学院に進んでやっと、友達ができて、自分の書いた文章を学校の先生以外に読んでもらえるようになり、サナギのように硬く閉じこもっていた時間を抜け出すことができた。『アーギュメンツ#2』とその翌年に出た『眼がスクリーンになるとき』は、私にとってその脱出のしるしのような本だ。

思いのほか思い出パートが長くなってしまったが、書きたかったのは、学部4年間の第一サナギ期(と呼ぶことにしよう)を脱した勢いそのままに『眼がスクリーンになるとき』から2年で書いた博士論文のあとにやってきた、第二サナギ期についてだ。

ひとことで言って私は、いろんなところに呼ばれて書いたり喋ったりするようになって調子に乗っており、博論を出すまでは、ちょっとなおせばすぐ書籍化できるだろう、30歳になる前に単著が2冊あればその後の仕事もおのずと転がるだろうし、と考えていた。しかし出来上がった論文は読み返せば読み返すほど、書きなおせば書きなおすほど、世に問えるものではないように感じられ、しかしその疑念に向き合えずにいた。その違和感をひとことで言うのは難しいが、いま思えばそれは、なにか自分が見出したものを、非常に人工的なしかたで取り扱った文章だった。そこにはなにかがあるが、自分はそれにふさわしくない。日記を書くようになったのは、その距離を小手先で埋めるのではない書き方を一から育てないと取り返しのつかないことになるとどこかで感じていたからだった。

日記に書いていたのはおおよそ、近所をぶらぶらしながら喫茶店を渡り歩いてこの本を書き進める日々のことで、つまり、私と私が住んでいる街についてのことだった。早くこの本を仕上げなければならないという切迫感もあって「批評」っぽい仕事の依頼を断ることが増え、コロナ禍が重なって友達と朝まで話すようなことは少なくなった。またサナギになったのだ。

私が住んでいるのは横浜の黄金町−伊勢佐木町あたりで、それは港がある「関内」に対して内陸に引っ込んだ、「関外」と呼ばれていた地域だ(いずれも江戸時代に開発されるまでは海だった)。黄金町はかつていわゆる赤線地帯で、しかし「浄化」の実際は通り数本分ズレただけであり、移民も多く、関内に向かってまっすぐエリアを貫く「イセザキモール」という商店街で聞こえてくる半分くらいの会話は様々な外国語だ。

珈琲館、ドトール、カフェ・ド・クリエ。その日の気分で入った店のテーブルにパソコンを開いて日記を書いて、本を進める(昼頃に前日の日記を書いて、仕事に入るのが習慣になった)。日記は書けば毎日終わるが、本は毎日書いても一向に終わらない。あとちょっと書きなおせばと思っているうちに3年が経ち、30代に入っていた。知り合いは誰もいないが、この街のこと、その小さな変化が手に取るようにわかるようになってきた。そして彼らもそうなのだろう。思えば最初のサナギ期のときもそうだったが、自らに閉じこもっているというより、ひとつの街のなかに溶け込みながら閉じこもっているのだ。イセザキモールの全長に一致する大きな殻の中で私は、私と言葉、私の言葉と世界の距離を再編していった。そして2024年の2月に初稿を書き終わると、腰痛や肩凝り、毎日夕方になるとやってきていた頭痛がウソのようになくなった。やはりキツかったのだ。この街での日々を通して私は、人として成長できたと感じている。

少なくとももう博論本は一生書かなくていいのだと思うと、それだけで元気が湧いてくる。この本を口実にしてまた友達といろんなところに行ったり、なにか作ったりすることができるといいなと思う。もともと友達がいたから書こうと思ったのだ。

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思いのほか長くなり、内容的にもダレているようにも思うのでこのまま組み込むことはないかもしれないが、ここに書いておいてよかったと思う。

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カテゴリー: 日記