5月6日

7日午前が「言葉と物」の締め切りで、夜通し書いていたのだが間に合わなかったのでもう1日だけもらうことにした。とはいえ今回はそれっぽい枠組みを作らずにタイトに、直截に書いていて、また新しい書き方ができているという実感があって、嫌な焦燥感はない。

『非美学』の再校ゲラと連載の原稿の作業のあいだにばちっと静電気のようなものが走って、ドゥルーズの「他者」概念が何をしているのか、やっと心の底から理解できた。たとえばこういうことだ。あなたはいま、とにかくぼおっとしている。交差点に並ぶ車のランプの明滅に自分が吸い込まれていくように、あなたは知覚に溶け込んでいく。それは他者がない世界であり、椅子と尻の接面、舌と口蓋の接面、遠くの声や音のすべてに等価にあなたの存在が張り付いていく。そのときふと、「カギの110番」という看板の文字が目に入る。それが他者だ。さっきまで世界は私と溶け合うひとつの気分で満たされていたのに、その文字はカギのトラブルがありうる世界を表現する。だから他者は「世界を過ぎ去らせる」のであり、「過ぎ去った世界に置き去りにすることによって私を作る」のだ。いまや世界は、カギのトラブルがありうる世界になり、私は文字通り「我に返り」、さっきまでの、カギのトラブルの可能性もなく、他者から隔てられる限りでの私もいなかった世界から遅れてやってきたものとして、その遅さにおいてのみ私という資格を与えられる。他者が「可能世界の表現」であるというのはそういうことで、それが看板の文字であれ他人の顔であれ、あなたを我に返らせるものが他者であり、他者はある遅さにおいて我に返らせると同時に、世界をここにはないもので裏張りする。

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カテゴリー: 日記