1月15日

部屋に置く低い椅子がほしいなと思って調べていたら中古のよさそうなイージーチェアがヤフオクに出品されていて、10000円だったので10500円で入札して、昼寝して起きると14000円で誰かが落札していた。トンガで起こった噴火が引き起こした波が、12時間ほどかけて日本の夜中に届いた。旅客機よりは遅そうだが、かなり速いのだろう。火山の名前はフンガトンガというらしい。

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1月14日

勝手に自分のなかで「背広族」と呼んでいるのだが、まいばすけっとに行くとよくスーツを着た社員がちょっと見にきましたみたいな感じで店内にいるのを見る。コンビニとかとは組織形態がぜんぜん違うのだろうか。生粋の左翼なのかバイト気質なのかわからないが棚を整理するわけでもなく接客するわけでもなく店内を歩いている背広族を見るとうっすらと腹が立つ。なんというか、背広族が店にいると「購買者」を演じて「店員」になった店員と一緒に何かのシミュレーションをしているような気がしてしまうのだ。その場にいない者としてその場を監視し、その場を統治すること。スーツがあればパノプティコンなんて必要ない。演劇のチケットは「いないことにしてもらえる券」だ。気づけば誰かにそれを渡している。豚肉を買って帰って茄子とピーマンと一緒に炒めて食べた。

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1月13日

夕方、珈琲館を出るときに、財布がないことに気づいた。鞄をひっくり返したり上着のポケットを何度も確認するがどこにもない。その前にカフェドクリエで作業していて、そこの支払いで使ってからどこかで失くしたのだ。でもどこで? 気が動転してぜんぜん頭が回らない。間の悪いことに珈琲館は現金でしか支払えない。店員に申し訳ないが財布を忘れたので家に取ってくる、家はすぐそこなので10分もかからないと言って店を出た。カフェドクリエに電話しながらお金を取りに帰る。そっちにもないようだ。もう見つかりようがない。珈琲館の支払いを済ませて交番に向かいながら、クレジットカードの使用停止の申請をした。

変な話だが、僕は物を失くすことにたいへん弱く、というのは、失くしやすいということではなく「失くした」と思うことにとても激しく混乱してしまう。大阪にいたときはしょっちゅう、財布を失くしたと思ってほうぼうに電話をかけ警察に行って家に戻ってきたら、レンジの上とか洗濯機の上とか、ふだんそんなところに絶対に置かない場所にあって、安心していいのかなんなのかよくわからなくなるということがあった。それはいつも財布で、意識のエアポケットみたいなところに滑り込むのだが、そこには絶対精神分析されたくない何かがある(分析するまでもない。お金が怖かったのだ)。最近はそういうこともなくなっていた。

しかし今回は確実に失くしていて、しかもそれは彼女にもらった財布で、しかもそのなかには外していた結婚指輪が入っているのだ。結婚したのは夏で、前々からそんな感じのことを言われていたのだが結婚全般が嫌いなんだと言って断っていた。われわれふたりのことと結婚に何の関係があるのかと。しかしよくよく考えてみると、僕のほうは結婚しようがしまいが誰も気にしないが、彼女は結婚したらしたでいろいろ面倒だし、職業柄なんというか迎合的に見られなくもないかもしれないし、しなかったらしなかったでもっといろいろ言われるのだ。それで指輪を買って、婚姻届を出して、式はコロナを口実に(と言ったら悪いが)せず、彼女の両親がお金を出してくれてなんだか豪華なところで借りた服を着て写真を撮って、いろんなことが進んでいった。はてはうちの親にお歳暮を送ると言って、すでにクラ交易みたいに贈り物が飛び交っていたので、それだけはやめてくれ、これは消耗戦だと言ったが何か送ったらしい。

直接会った友達に報告する(なんで「報告」なんて言うのか)くらいで周りの状況もこれといって変わらないし、自分のなかにそういうこととは関係ない場所を確保したかったのだと思う。この日記だってそうだ。歩いた道を行ったり来たりして、何度も鞄を確認してどこかに落ちていないかと探した。不安で口がカラカラになって嫌な匂いがしてくる。柄にもなくいやーとかマジかとか言いながら、現金だけ抜かれてどこかに捨てられているんじゃないかと潅木の下とかを見ていた。憔悴しきって家に帰って、仕事を終えた彼女に謝って、ふたりとも黙ってご飯を食べていると電話が鳴って、交番からで、財布が届いたということだった。取るものもとりあえず受け取りに行く。警官が茶封筒から財布を出す。中身も欠けていなくて、指輪も入っている。僕が歩いていない道に落ちていたのを宅急便か何かの人が拾って、仕事終わりに届けてくれたらしい。

夜、今回のことがあまりに情けなく、ショックでいろいろ考えて眠れなかった。僕は彼女に結婚を申し込むべきなのかもしれない。本当に悪いことをした。それに本当に結婚などどうでもよく、彼女のことが好きなんだと思う。だから僕が言うべきなんだ。彼女が起きるまで起きておくことにした。それにしても、見つからなかったらどうなっていたんだろう。

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1月12日

コンサートのレビューについていろいろ考えているうちにヒトの発声器官の進化が気になってきて、『ピダハン』で有名なエヴェレットの『言語の起源』を喉に手を当ててまーまーまーとかぱーぱーぱーとか言いながら読んだりして、母音のフォルマントの仕組みと聴覚のチューニングの循環関係とかは面白かったけど、彼は言語にとって現生人類の発達した発声機構は必要条件ではないという立場なのもあり、それはそれでわかるのだが、かゆいところに手が届かない感じだった。結局なんで二足歩行になったかわからないと咽頭が伸びた理由もわからないのだと思い、島泰三の『親指はなぜ太いのか——直立二足歩行の起源に迫る』をキンドルで買って、これが思いのほか面白くて一日かけて読んだ。

もともとマダガスカルでアイアイの調査をしていた著者は、アイアイの針金のように細長い中指は、ラミーという種の胚乳をほじくり出すための、パフェスプーンみたいなものだということを発見する。ネズミなみに鋭い前歯は、小ぶりなヤシの実のような硬いラミーの上部を割るのに役立っている。サルのなかでも際立った特徴をもつアイアイの形態は、その主食との関係から理解することができるということだ。ここから彼は「棲み分け」ならぬ「食べ分け」としてニッチの概念を再定義し——たとえば今西錦司は形態への着目がないと批判される——主食を中心に生態と形態をセットで考えることの重要性を指摘する。そしてそれはとりわけ霊長類学においては「手と口連合仮説」として具体化され、彼はメガネザルからニホンザルからゴリラまで、さまざまなサルの手と口の形態をニッチとしての主食との関係で説明する。

ニッチを見つけるということは、他の誰も食べないが安定的に供給されるものを見つけるということであり、一般的に手が器用なサルのニッチは手と口の形態と生態から説明される。したがって絶滅した類人猿の形態からその主食としてのニッチを特定できればその生態をも類推することができる。しかし直立二足歩行という特殊な形態は、いったいどんなニッチに対応していたのか。この問いへの回答が驚くべきもので、ほんとにびっくりした。それが何なのかは読んでもらうとして、とにかく手と口連合仮説が面白いのは、ひとつには生態−環境という棲み分け仮説的な、点としての個体と広がりとしての場の組み合わせに替えて、主食−形態(−生態)という対物的な関係を優位に置いていることだと思う。そしてそれはとりわけヒトの進化において、手が地面から解放されて道具を使えるようになり頭をゴツい頚椎で支える必要もなくなり脳の容積が増え賢くなった、というような、結果論的で脳中心主義的な説明に対するカウンターになる。手は解放されたのではない。地面や樹の枝とは違うもので塞がっていたのだ。

とはいえ本書の分析はアウストラロピテクスまでなので、裸になって言葉を喋るところまでいっていない。著者の出自も含めて興味深いので他の本も読んでみよう。どんどんレビューと関係なくなってしまうが。

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1月11日

気づいたら忙しくなってきているが、抜歯後の痛みが収まらないまま三日ぶんもらった薬を飲み切ってしまい、治りかけのまま風邪も長引いていて、雨まで降ってきた。調子が出ない。

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1月10日

レギンスに腹巻きがくっついている末期的な下着をズボンの下に履いて出かけたのだが、そんなに寒くなかった。丸亀製麺でうどんを食べて、コメダで作業をした。祝日だからか人が多くて小さいテーブルしか空いていない。11インチのモニターに原書のPDFとWordの画面を並べると狭苦しかったが、かといって紙を広げるスペースもないので、行幅が可変のstoneに切り替えてとりあえずプレーンテクストで進めた。ボールドもインデントも脚注も見出しもない。「進める」以外に進めようがないのがいい。2ページほど訳して出る。

帰ってアンチョビ入りのポテトサラダと、牡蠣と舞茸をバターとニンニクと日本酒で炒めたものを作って食べた。コンサートのレビューのファイルを作ったが一文も書けず、本を読んで寝た。横になるといろいろ思いついた。

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1月9日

あと10日でこの日記も終わりだ。私家版の制作も進んでいて、印刷所から見積もりが来た。まさかこれまででいちばん高い買い物が自費制作の本365部になるとは思わなかった。ちゃんと売れてほしい。お金のこととは別に、もはやいままで書いたことをほとんど忘れていて、筆者も覚えていないものを本にしていいのだろうかと思うし、覚えていないので自信のもちようがない。ゲラができれば校正で読み返すのだけど、その時点でもうポイントオブノーリターンは過ぎているし。無茶と言えば無茶だが、この一年の日記を本にするとして、ちゃんと自分の生活に明白なリスク込みで跳ね返るかたちにするのは誠実と言えば誠実なのかもしれない。

なんとなくカキフライを作ろうと思ったのだが、水の詰まったパックを開けて塩水を張ったボウルで牡蠣をひとつずつ洗っているとむなしくなってきた。汚れが浮いて磯臭くなった水を捨てて、牡蠣をキッチンペーパーで拭いて、小麦粉をつけて、溶き卵に潜らせて、パン粉を振って。揚げてソースをかけて食べるだけ。出てくるぶんには嬉しいが、作って食べるのには悲しい料理だ。工夫らしい工夫と言えば磯臭さを落とすことくらいで、それはしばらくシンクに残り続けるわけで。バットやボウルの銀色がよそよそしかった。

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1月8日

朝から歯医者に行った。親知らずの抜歯。寝椅子に座ってうがいをして、横になる。歯茎に麻酔の注射を2本ほど打たれた。起きてまたうがいをする。動悸がしてきて、緊張しているのかと思ったが、あとで調べてみたら麻酔にはアドレナリンが入っていて、それで血管が収縮して動悸がすることがあるらしい。寝かされて何かで突っつかれて麻酔が効いているか聞かれる。はい(あい)と言うと先の鈍い器具に持ち替えて抜き始めた。痛みはないが、歯に乗せられる体重が顎の骨に響き、歯の上でガリガリと滑る器具の音が聞こえる。器具がすっぽ抜けてあらぬところに突き刺さったりしないのだろうかと考えていたら起こされた。歯茎が少しかぶさっているところだったのでてっきり切開したり、中で歯を割ったりしてから抜くのだと思っていたら、彼女が上手だからかそのまま抜けたらしい。根元が1センチほどもありそうな長い歯がトレイに転がっている。いるかと聞かれたのでいらないと言った。受付でお金を払うとまたクリーニングをしに来ることになっていて、再来週の土曜日に予約を入れた。帰り道に、でももうそれは日記には書けないんだと思うと、とても寂しい気持ちになった。夜、シャワーを浴びているときに口の中に何かがあるなと思って手に出してみると、トマトの果肉のような血の滲んだ歯茎のかけらで、お湯ですすぐと透明になった。

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1月7日

正月が明けて世間が動き出したのか、連絡がふたつ来て、締め切りがふたつできた。誰かが働くと自分も働くことになる。翻訳をしていて気づいたら夜の10時前で、これからスーパーに行ってご飯を作るのも面倒だなと思ってウーバーイーツを開いた。ピザ屋以外のどのお店にも「近くに配達パートナーがいません」という表示があって、どうやらあれだけいた配達員はみんないなくなってしまったようだ。それにしても配達パートナーとか、ディズニーランドのキャストとか、マックのクルーとか、ネスカフェアンバサダーとか、なんなんだと思いながら近所の焼肉屋に行って焼肉を食べた。

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1月6日

風邪と言っても喉が痛くて鼻水が出るくらいで、キムチ鍋を作って食べてゆっくりお風呂に浸かってたくさん寝たら治った。でも日中はどうにも頭がぼおっとしてここのところ毎日進めていた翻訳に取りかかる気が起きないので『存在と時間』を読み進めた。現存在は要するに、〈可能的なものとして世界に放り込まれて在る他ない存在者〉なのだが、この可能的であること=他でありうることと在る他ないことのあいだのブリッジはどうなっているのか。可能性についてハイデガーは、(1)現存在に固有の範疇としての可能性は、トンカチで釘を打つことが「できる」というような知的に見出される対象化された可能性とは異なると述べ、(2)現存在にとって可能性は、まず何らかの基体が据えられそのうえに可能性が付与されるというようなものではなく、現存在は「根源的に」可能的なのだと述べる。ここから〈可能的に在る他ない〉、つまり現存在には可能性以外の可能性がないという規定が出てくる。だからこそ寄る辺ない「在る」ことは重荷であり、その重荷への直面としての「気分」は世界を開きつつ、当の気分に世界は閉じ込められることになる。気になるのは(1)と(2)の循環関係だ。現存在の可能性が対象的な可能性と異なるのは前者が根源的だからであり、可能性が根源的に備わっているのは現存在が他の存在者と違うからだ、という循環がある。くしくもハイデガーはいわゆる「解釈学的循環」について、「肝心なのは、循環から抜け出すことではなく、当を得た仕方でその中に入っていくことである」(高田珠樹訳229頁)と述べている。「存在するとは別のしかたで」(レヴィナス)ではなく「当を得たしかたで存在へ」ということなのだが、それにしてもなぜこの場合「当を得る」ために可能性が賭け金にならなければならないのか。

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