2月23日

 まぶしくて目が覚めた。まだ窓にカーテンが付いていない。昨日はアマゾンで買っておいた台車に生活に最低限必要なものを載せて新しい部屋に持ってきた。こっちの部屋の契約が始まったのが1月末で、あっちの部屋の契約が終わるのが2月末なので、今月はつねに少しずつ一方で家具を買い組み立て、他方で物を捨て箱に詰め、という感じでとても緩慢な引っ越しをしている。今ちょうどあっちの欠け具合とこっちの揃い具合が釣り合っているくらいのところだ。どっちにも住めるが、こっちにはまだ本がないし、あっちにはもう椅子がない。半分ずつの部屋。昨夜は久しぶりに大前粟生さんと話した。半分ずつの部屋。彼の掌編のタイトルみたいだ。

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2月22日

 日記を書かずに寝て9時に起きて朝ご飯を食べてコーヒーを入れて10時。久々に夜寝て朝起きた。ここのところしばらく晩ご飯を食べると急激に眠たくなり、2時間くらい寝て朝まで起きて日記を書いて寝て昼過ぎに起きるというのが続いていた。

 昨日は手書きの書類を書いたりした。字が汚いのでペンで字を書くのはあまり好きではない。昔から好きではなかった。原稿用紙に書いて編集者に送るような時代だったら絶対物書きにはなっていないと思う。何より手書きは時間がかかるし、急いて書いていると余計に汚くなってそれでさらに捨て鉢な気持ちになって内容すらどうでもよくなりと、どこまでも悪循環がドライブしてしまう。そこには学校教育にまつわるいろいろへの嫌悪が染み付いてもいる。

 そういえば4,5年前に「紙ツイッター」というのをやっていて、それは手書き嫌いを癒してくれるものだったかもしれない。B5のノートに水性のサインペンで書いたつぶやきの写真をツイッターに上げていた(画像は2016年6月7日のつぶやき)。太いペンでスペースを大きく取って書くと多少汚くても気にならない。最近は文章の構成を考えたりするのに使うノートもA4にしている。

 紙ツイッターを始めたときの、ツイッターをやりすぎて自分のための言葉が干上がってしまう感じへの危機感はこの日記にも引き継がれているかもしれない。でも今は、自分のための言葉もそういうものとして楽しんで読んでくれる人がいるから書けるのだなと思っている。それにこの日記の文章は絶対に手書きでは書けない。

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2月21日

 読み返していてこの日記の大和田俊の登場率の高さ——夢にまで出てきた——が気になった。もちろん友達だからというのもあるが、1月21日の日記を読んだ編集者から今月の初めに彼の個展のレビューを依頼されたからだろう。依頼から執筆に本格的に取り掛かるまでのあいだはそのことが無意識でぐるぐる回っていて、ときおり浮かぶアイデアをワードレベルで貯めておく。それはたいてい論述対象に直接関わるものというより、それを外に引っ張り出すために着けるグリップの候補のようなもので、細部に降りるのはある程度周りをふらふらしてからだ。まだぜんぜんまとまってはいないが、彼の《unearth》はもう4つのバージョンを見ているので、そのバリエーションをとっかかりにしつつ今回の個展で提示されていることを考えたい。

 使えるかもなと思って買った『思想』2月号の「採掘−採取 ロジスティクス」特集が面白い。60-70年代にベトナム戦争を背景としながら起きたコンテナ革命は、港から荷役の労働者を一掃し、陸と海という異なるモードのあいだに連続性を打ち立てることで、賃金が安い国への生産過程のアウトソース、いわゆるサプライチェーンを容易にする。たんなる規格化されたデカい箱とそれを運び管理するための機械的−情報的なシステムが、国内の失業者と国外の低賃金労働者を同時に生み出す。そういえばイギリスの港で、コンテナに入って密入国を試みた難民たちが中で亡くなっているのが発見されたというニュースをしばらく前に見かけた。大和田俊の作品をコンテナ的なるものへの抵抗として見ることができたら面白いなと思うけど、まったく確信はない。

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2月20日

 そういえば最近くろそーとぜんぜん連絡を取っていない。最後に話したのは去年末だった。今村さんの日記で元気そうにしてるのはわかるから心配はないのだけど。去年も冬はほとんど話さなくて、もっと書いたほうがいいですよとか言っちゃったからかなと思っていたが、春に元気になって夏には1週間くらいうちに泊まりにきていた。おととしもそんな感じだったかもしれない。引っ越しが片付いたら遊びに行っていいか聞いてみよう。京都に最後に行ったのはたぶんおととしなんだけど、何をしに行って誰に会ったのかまったく思い出せない。どうせ昼過ぎに起きてずっとぶらぶらしながら喋ってるだけで大したことはしていないのだけど。それにしてもおととしの記憶にぜんぜん実感みたいなものがない。2019年。どんな感じだったか。なぜか歌舞伎町のバッティングセンターで遊んだりしたあとで、新大久保のドンキの2階にあるコメダで、彼と大和田俊とひふみさんと朝まで喋ったりしたような気がする。始発に乗るために外に出ると恐ろしく寒いうえに雨まで降っていて、途中にあるなか卯で食べたカツ丼がとてもおいしかった。そう、そういう感じだった。

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2月19日

 今日で日記を初めて丸1ヶ月だ。恐ろしく飽き性なのでこれはとても珍しいことだ。1ヶ月毎日何か決めた、あるいは決められたことを続けるなんて中学で学校にあんまり行かなくなって以来初めてかもしれない。今日は書くことを他に思いつかないし、せっかくキリもいいので、この日記にまつわる数字の話をする。サイトに閲覧数を数えたりグラフを作ったりしてくれるプラグインを付けている。まず現時点でトータルの閲覧数が13,445回で、訪問者数が5447人。1日あたりの平均閲覧数は433回で、訪問者数は175人。Twitterからのアクセスが圧倒的に多い。フォロワーが今見たら3688人なので、だいたいそのうち21人にひとりが日記を開いて、ひとりあたり2, 3個の別の記事に飛んでくれている概算になる。

 そりゃ続くよなといういい規模感と、いい濃度だと感じる。暇な筆者と無言の読者がいるだけでお金も絡んでいないので物事はとてもシンプルだ。何より嬉しいのはこの日記を読んで自分でも日記を始めたという人を3人ほど見かけたことだ。常連が100人くらいだとして、そのうち3人が自分でもやろうと思ってくれるなんて、これがラーメン屋だとしたらものすごいことだし、いかにハードルの低い日記と言えどもなかなかだと思う。

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2月18日

 博論の公聴会だった。3時間超。知恵熱でも出るんじゃないかという風邪の引き始めみたいな疲れが押し寄せて昼寝をした。審査員の先生方の、それぞれ自分のスタンスとスタイルに基づいた厳しい批判と、明確にできていなかった論文のポテンシャルを掬い取ってくれる手つきには、学的な共同体の最良の部分に触れることができたなと思った。あんまりこういうことは言わなかったし実際あんまり思ってもいなかったのだけど、予備審査と今回の本審査を通して、初めて学問や学者というものは本当にすごいんだなと思った。

 そういえばいつもこういう、発表とかレクチャーとか、ひとりで喋る量が多いことをすると普段と違う声の出し方になるからか決まって喉が枯れるのだけど、今回はならなかった。自分の部屋からオンラインでやったからか。どういう喋り方をしていたのかあまり覚えていない。知らない人が多い飲み会もだいたい声が枯れる。お酒は飲まないけど、ノイズもあるしちゃんと聞こえるように喋らなきゃと思うからだろう。親しい人だけの飲み会だと枯れない。声じゃなくて間でお互いなんとかすることができるからだろう。あるいは聞こえなかったらそれはそれでまあいいやと思っているのかもしれない。

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2月17日

 明日、というか今日は博論の審査だ。さすがに気が重い。さっき煙草を買いに出たら久しぶりにとても寒かった。明日も寒いみたいだ。オンライン開催なので寒いなか出かけずに済むのが救いだ。

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2月16日

午前4時。眠れないのは昼寝をしたからだ。他人の夢の話ほどどうでもいい話題もないが、大和田俊が実家の墓のリサーチに来るという、ギリギリなくもない感じの夢を見た。今は誰も住んでいない父方の祖父母の家で知らないおばさんにたくさんのご飯を振る舞われている。親子丼の具だけ載った器の下にご飯を敷いた器があって、そこにケチャップで星が描いてあって、これは「輝きの米」なんだと言われた。すでに満腹だったのだが悪いので食べていると、奥から昔の叔父に似た感じの人が出てきて、挨拶をしながら食卓に裸の1万円札を置いて去っていった。迎えにきた父の車に乗って、そんな道はないのだが両側を牛舎に挟まれた狭い道を通って実家に帰る、という一連の出来事のあいだ、大和田俊がうちの墓のリサーチに来ているということが明示されないが文脈としてある感じがしていた。

 10年ほど前に祖母が亡くなって、その1年後に祖父も亡くなった。それぞれと最後に会ったときに、なぜか握手をしたのを覚えている。危篤というわけでもなくこれで最後だと思ってもいなかったので、手を握ったというよりたんに去り際に握手をしただけだった。その家には今は誰も住んでいない。小さい頃から手伝ったり周りで虫や蛙を探していた田んぼはまだ残っていて、実家では叔父が中心になって育てているそこの米を食べている。一人暮らしを始めて定期的に送ってもらっていたのだけど、炊いた米を冷凍するのが何か怖くて最近はパックのご飯を買って済ませることが増えた。

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2月15日

 寝癖もすごかったし、湿気で髪がうねっていた。昼寝をしたらやっとマシになった。

 ツイッターで「セブンティーンアイスの自販機はなぜスイミングスクールにあるのか?」というデイリーポータルZの記事を見かけて、ああ本当にセブンティーンアイスの自販機はスイミングスクールにあったなと思った。3歳から小3でサッカーを始めるまで福山市の神辺にあるスイミングスクールに通っていた。たぶんまだある。車で近づくと笑ったアシカの描かれた看板がだんだん大きくなってくる。練習が終わるとしばらく自由に遊べる時間だった。布団くらい大きいビート板にみんなで乗ったり、短く切ったホースを咥えて水鉄砲にしたりしていた。地元から少し離れていたのもあり友達ができなかったので、早く帰りたいなと思っていたと思う。ガラスで仕切られた観覧席に座っている母は目が合うとにっこり笑っていて、楽しそうにしなきゃと思うのが辛かったのを覚えている。定期的に「検定」が行われて、バタ足を習う赤帽子からクロールを習う青帽子へ、という感じで進級していく。そのたびにアイスを買ってもらった。でも嫌な思い出の方が多い。ホースで叩かれたり噛みつかれたりしたし、階段から落とされて顎を深く切っ縫ったりした。その傷はまだ残っている。ざらざらして硬い、濡れた階段の感じも覚えている。嫌なやつばかりだった。学校では自分もそういうやつだったと思う。子供の頃は嘘や暴力だらけだった。

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2月14日

 午後1時。今起きたばかり。「その日」の日記は翌日の正午までに書くと決めていたのだけど、日記を書かずに寝てしまった。まあしょうがないだろう。前にも似たようなことを書いた気がするけど1日であれ1年であれ単位時間で生活を区切るより、1週間後に小さい締め切りがあるとか、3ヶ月後に大きい締め切りがあるとか、そういうそのつどの大小のゲートみたいなものがあって、その手前の時間の緩急はこっちで完全に自由にできる、みたいなタイム感のほうが性に合っている。そうは言っても単位は数えるために必要だし、それは否応なく自分を数えられる側に組み入れる。ラカンは主体の構造を、数える者が数えられるもののなかに入り込むことと説明したけど、1日や朝昼晩、仕事とプライベートとかそういう相互に排他的な単位のセットに強く寄りかかった、いわゆる日誌的な要素が強いものには自分を数えられる側に還元する——ためにひたすら数えるという——欲求があると言えるかもしれない。まあこれは程度問題であって、同時に、たんなる思いつきの寝坊の言い訳なのだけど。

 

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