7月11日

 翻訳することになった本の共訳者ふたりとzoomで最初の打ち合わせ。とりあえずのスケジュールとして今年中に30ページ弱の章を3つ訳すことになった。ちょうどフランス語の勉強もやりなおしたいと思っていたし、博論でも取り上げた大事な本だし、いいタイミングで声をかけてもらえたと思う。メインの訳者は小倉さんで、彼とまた一緒に仕事ができるのも嬉しいし、たくさん翻訳を出している人なので頼もしい。2年ぶりくらいにちゃんと話したけど元気そうでよかった。これから半年はこの翻訳と博論本の執筆を並行してやることになる。博論本の序論をここ数週間ずっと書いているのだけどなかなか進まず、ケリをつけてから寝たかったのだけどダメだった。本当にもう少しなので今日(12日)で終わらせて編集者に渡そう。出かける準備をしてコメダに行こう……

投稿日:
カテゴリー: 日記

7月10日

 ほとんど義務感で読んでいる『刃牙』シリーズの最新刊をKindleで買って読んだ。シリーズ第三タイトルの『範馬刃牙』以降の定番で、刃牙の父であり「地上最強の生物」である範馬勇次郎とその時々のアメリカ大統領が友好条約を結ぶ場面が描かれる。極限まで鍛えられた個人の戦闘能力は一国の軍事力に匹敵するわけだ。もちろん機銃で撃たれれば勇次郎だって死ぬだろうが、作者の板垣が周到なのは「強さ」を肉体的な強度がどのように社会的権威に結びつくかという観点で描いているところ、つまり両者の「直接対決」が強さによって避けられるところで、テーブルに足を投げ出してソファに座る勇次郎と直立不動で震えている大統領が差し向かいで話す友好宣言の場面にはそれが最も如実に表れている。とはいえブッシュ、オバマ、トランプと折に触れて物語に挿入されてきたこの関係も、10年以上経ってさすがにマンネリ化してきている。今回出てくるバイデンのエピソードだけでなく主人公の刃牙が相撲取りと対戦する場面も使い古されたモチーフばかりだ。終わっているのに続いている。読まないと落ち着かないのはそれが確認できないからだろうか。

投稿日:
カテゴリー: 日記

7月9日

 ここのところぜんぜんゲームをしなくなったのだけど、相変わらずAPEXのプレイ動画は毎日のように見ている。首塚でくろそーがよく格ゲーの動画を開きっぱなしにしていた感覚がよくわかる。僕が知っているeスポーツプレイヤーは国内外問わずみんな芸名(?)でやっている。snipe3downとかsweetdreamsとかrasとか、みんなラッパーみたいな名前だ。もしeスポーツがオリンピック競技になったりしたら、彼らは本名で参加するのだろうか。それに彼らにとって北米やヨーロッパという単位はサーバーの環境とそことの距離による遅延であって、それをナショナリティによってまとめ上げることが果たしてできるんだろうか。eスポーツはゲーム自体の流行り廃りも激しいしひとつのタイトルも数ヶ月単位でアップデートが入るし、これをスポーツとして捉えるには「スポーツ」そのものの枠組みの大きな変容が必要だろう。大歓迎だけど実際問題としてメジャースポーツはまだしばらくメジャースポーツ然としているだろう。

投稿日:
カテゴリー: 日記

7月8日

 ちゃんと朝起きて、なんとなくみなとみらい方面に向かいながら喫茶店を3軒渡り歩いて作業をした。脱衣所に濡れた木を焼いたような匂いが立ち込めていて、これはサウナの匂いだと気づいた。リュックを開けると服屋の匂いがするし、雨が上がると川と海が混ざった匂いがする。ここ2日くらいで怒鳴っているおじさんを3人見た。何かが兆しているのか。たんにそれはそれ、これはこれなのか。ここまでの感じは今までなかったのだけどネズミが至るところでゴミを荒らしていて、雨の影と雲の区別がつかないほど一様にどんよりした背景にシャッターが閉まった横浜美術館は半端にレンダリングされた国会議事堂みたいに見える。戻ってくると横浜橋商店街はもう暗くなっていて、各店が床を流した塩素の匂いがした。いつもそこで寝ているおじさんが今日も寝ていた。

投稿日:
カテゴリー: 日記

7月7日

 絵画論を書いた『美術手帖』が出て、まだ手元に本誌は届いていないが上半期も終わってひと区切りついた感じ。今年に入って大和田俊論と今回の文章と秋頃に出る学会誌に載る書評、どれも6000字くらいの文章を三つ書いた。ぜんぜん多くはないがまあまあがんばったんじゃないかと思う。後半はとにかく博論の改稿を進めることになるだろう。出して半年たってドゥルーズ論からいかに開くかという道筋も見えてきた。あとドゥルーズの研究書を3人で共訳する仕事も始まる。あと友達とだらだら旅行とか行きたい。

投稿日:
カテゴリー: 日記

7月6日

 ここ3日くらい同じ段落で文章がスタックしていてつらい。こういうときに何をしているかというと、点滅するカーソルとにらめっこしながら頭をくしゃくしゃと掻いているわけではなく、ありとあらゆる手を尽くして原稿から逃げようとしていて、そうしてそわそわするほどに時間は無為に過ぎていき、過ぎていくほどに焦燥が推敲を食い破る。たんに怠惰なのか、ここまでの筋がよくないのか、引き受けるべき立場の深度を測りかねているのか、何かもっとすごいものを期待しているのか、ぜんぶ本当だしぜんぶ嘘だという感じがする。なんだかんだで放り投げることはなかったが、これまでも何度も同じことようなことはあった。こうして諦められた文章が無数にあるんだろうなと思う。本人にも何が原因かもわからず書き継がれなくなってしまった文章が。でも書ききられた文章も似たようなものかもしれない。そのとき書き手は何をしていて、読み手は何を読んでいるのか。

投稿日:
カテゴリー: 日記

7月5日

 もう学校にも通っていないし、1ヶ月ほど友達とも喋っていないし、あいかわらず店も8時には閉まるし、いろいろ踏ん張りが効かなくなってきたと感じる。かつてあった踏ん張りって何だったんだろうという醒めた感慨とともに。毎週のように何かしら自分の関心と関係のあるオンラインのイベントがあるけど、どうにも聞く気になれない。粛々と自分の仕事を進めればよいということなのだろうけど、自分の仕事が粛々と進んでいいようなものなのか決めかねている感じもある。書いている原稿を読み返して、続きが読みたいと他人事のように思ってしまう。そういえば翻訳の仕事が始まりそうで、そういうやればやるだけ進むものがあれば他のことにも身が入りそうだ。

投稿日:
カテゴリー: 日記

7月4日

 同じ雨粒が舞い続けているだけなんじゃないかという霧雨で朝も昼も夜もないような暗さでまいってしまった。起きて何か口に入れて、作業を強いるために珈琲館に行ったら定休日でめげてしまい、布団に入って「低気圧 がんばる」と検索したら耳を揉めと出てきたので耳を揉んだらもう寝ていた。

投稿日:
カテゴリー: 日記

7月3日

 いつまで正直でいられるんだろう。5ヶ月と半分くらい、いまのところ正直に書いてこられたと思う。でも正直であることそのものには価値もないし、そういう義務があるわけでもない。たとえば研究であれば正直さというより研究対象や研究の規範への忠実さが公然と求められていて、それを支えにできるけど、日記の正直さにはその帰属先がない。というか、難しいのはそのなさを維持することだ。作業日誌みたいに対象とフォーマットを固定したり、自伝的に自分を中心として固定することを目的にしたり、小説みたいに書かれるものの統一性を目指したりして、正直さの拠り所を確保することはできるだろう。でもそういうことがしたいわけではないし、それはそれで面倒だし別種の辛さがある。中心を作らないことが日記的メタ正直なんだと言っても空疎な感じがする。それでも帰属先もなく証拠もなくそれでも正直に書くことに興味——最大限漠然とそう呼んでおく——があるのは確かだ。漠然としたものの確かさ。それが実感できているあいだは続くと思う。

投稿日:
カテゴリー: 日記

7月2日

 また一日雨。海野林太郎の個展「What You See Is What You Get」を見にいく。外苑前はぜんぜん煙草を吸うところがなくて、路地は路地であまりにプライベートな感じがするし、広いタイムズみたいな駐車場もないし、結局なんだか中途半端なところで吸う。傘を肘に引っ掛けて右手で煙草を、左手で携帯灰皿を持って。路上喫煙禁止とか明文化されたことより、プロクセミクス的な心理のほうがずっと強い(エドワード・ホールの『隠れた次元』はあらゆる古本屋で見かける気がする)。煙草が吸える/吸えない感じはルール上の喫煙可の区画の多寡とはあんまり関係ない。というか、プロクセミクス的な心理の強さ自体の否認の表れが現行の禁煙化なのだというのが「スモーキング・エリア」初回の主張だった。展示の感想はまた何か思いついたら書こう。夜中に雨が強くなって、サンダルでコンビニに行くと足がびしょ濡れになった。

投稿日:
カテゴリー: 日記