6月19日

 クリーニングに出した冬物を取りに行くのを思い出すたびに忘れていたので、玄関のドアにポストイットでメモを貼っておいた。雨が止んだ夕方に取りに行く。夕飯は昨日の残りの鯵の南蛮漬けと、キャベツの味噌汁と、大きな椎茸(どんこと言うらしい)とネギを焼いて塩を振っただけのもの。今日も風呂上がりにアイスを食べた。10本入りで200円くらいの安っぽいラクトアイスがいちばん好きだ。今日も寝るときに雨が降っていた。起きたら晴れていて、シーツやカバーはいつでも洗えるしと思って布団をそのままベランダに掛けた。

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6月18日

 日中は横浜に出て髪を切って、帰ってきて昨日買っておいた鯵で南蛮漬けを作って食べた。ゲラをひと通りなおしてお風呂に入ってアイスを食べた。寝付きが悪かったので、開けているベランダの窓から聞こえてくる雨の音を聞きながらこれは夢の中に降っている雨なんだと思い込むことにした。

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6月17日

 1時に寝て朝起きて、しばらくはこのままでいこうと思う。夜更かしの良さがぜんぜんなくなってしまった。そういう状況に迎合してしまっているようでとても悔しい。クソのような世の中だ。ファミレスが禁煙になって24時間営業をやめたのはコロナより前だ。これについては何度だって言う。ファミレスが禁煙になって24時間営業をやめたのはコロナの前だったのだ。もうオンライン飲み会という言葉すら聞かなくなって、「オンライン」は有標の言葉ではなくなった。恐ろしい順応の速度だ。「こういう状況なので」と言えば誰だって視界の外に追いやれる。感染予防の観点から、とすら、言うのは公共的な場所だけになった。プライベートでは「こういう状況」と言えばそれでいい。ぜんぶ知らんぷりしてしまいたくなる。ウィルスについて明示的に語ることすらなしで済ませる回路がもう出来上がってしまっている。ファミレスが禁煙になって24時間営業をやめたのはコロナの前だった。僕はそのことを忘れないだろう。

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6月16日

 終わりまでいちど書いたのだけどなんだかなあと思って消した。いやはや。喫煙ブースに行くとPとDがどうとか言っていて、何かと思ったら「ピック」と「ドロップ」のことで、ウーバーイーツの配達員どうしの話だった。これから厳しくなる夏をどう乗り切るかという話をしている。熱中症のリスクもあるし、スマホが熱暴走してしまったら仕事にならない。まあでもこれもいちおうCしたけどR、キャッチしたけどリリースするべきネタだなと思って吸い殻を落とした。こうして日記を書いていると毎日締め切りなので恒常的なネタ切れで、頭のなかの推敲と目の前で起こっていることの切り取りがつねに並走している感じがあって、どっちかにしてくれと思うのだけどなかなかそうもいかない。SNSは個人的なことにせよ社会的なことにせよアンケートみたいにフォーマット化された書くべきことに溢れているので、書くべきことの稀少さを感じられるのはヘルシーな感じがするのだけど、やはりそれなりのキツさがある。

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6月15日

 サンダルもあるし、決してきれいではないのはわかっているのだけど、裸足のままベランダに出ることがある。2ヶ月にいちどくらいやってくる、ちょっとだけ寝て無理して起きて生活時間を朝型に戻す日だった。朝6時くらいに寝て3時くらいに起きるリズムにずれ込んでいて、これはあんまりだと思っていた。コーヒーも飲まないようにして、一日中ぼんやりしていた。時差ボケは英語でジェットラグというらしいけど、仮に24時間半を平均的なサイクルとして少しずつ生活時間がずれ込んでいくのは、毎日少しずつ西に移動して寝起きする緩慢なジェットラグに対応するんだろうか。今日は横浜で、明日は福岡で、明後日は台湾で。横浜で12時に寝て7時に起きるのを基準だとすれば、3時に寝て10時に起きたので、パリから香港くらいまで戻ってきたのかもしれない。

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6月14日

 煙草を吸いにベランダに出ると目の前に不思議な形の雲があった。目の前ではないのだが、それくらい低いところに浮かんでいて、仰ぎ見られた大きい雲を縮小して地平線の上に乗っけたみたいだった。こないだマックに行ったとき、前に並んだおじさんの着ているTシャツの背中いっぱいに牙を剥き出しにしたリアルな虎の絵が描かれていて、なんで背中なんだろうと思った。ちょうど後ろで組んだ手が虎を抱えるような形になっていて、多重にちぐはぐな感じがした。萩原朔太郎の『猫街』という小説がある。近所を歩いていて見知らぬところに入り込んで迷ってしまったと思ったらいつもの道を逆から歩いていただけだったという短い話で、ふたつはフラッシュ猫街みたいな感じだった。せっかく写真も撮ったので載せておこう。

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6月13日

 引っかかる引っかからないで言えばぜんぶ引っかかるのだ。あるコラムが「フェミ系」の人に向けての揶揄であるということで誌面の写真がツイッターで拡散され批判されていた。その内容と同じくらいどの雑誌のものかも言わず誌面の写真を貼ることが引っかかる。引っかかる引っかからないで言えばぜんぶ引っかかるけど、ツイッターは素材の投下とそれへの反応のセットが怖いくらい効率化されていて、制裁を加えてよい引っかかりももう写真やハッシュタグや語彙のレベルで圧縮されてパターン化されている。でも文章なんてもともと引っかかりの塊だ。他人の書いたものを400字読めば絶対自分はこういう言い方はしない・できないという箇所が出てくるだろう。それは潜在的、一次的には不快だが、憧れに転ぶこともあるし、怒りに転ぶこともある。引っかかりには書き手と自分の体の距離が表れていて、表面化した感情にはすでに第三者からの目線が入り込んでいる。サッカー選手が大袈裟に転んで見せるように。それは「シミュレーション」と呼ばれる。ぜんぶが審判へのパフォーマンスになるとゲームは崩壊する。問題は一方でコンタクトの技術が蒸発すること、そして他方で、世界に審判などいないということだ。逆に言えば引っかかりへの解像度を上げることと、自分がいったい誰を・何を審判だと思っているのかと考えることはいつもセットであるということだ。

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6月12日

 気づいたらいろいろやった日だった。起きて日記を書いて、洗濯物を干して掃除機をかけて床拭きのロボットをセットして、ひとまわり大きい冷蔵庫を見に歩いてすぐのリサイクルショップに行った。ちょうどいいのがあって、すぐに運んで今使っているほうも引き取ってくれるということだったのでお願いする。家に戻って中のものを全部出して棚を拭く。すぐにチャイムが鳴って頭にタオルを巻いた大柄の人が来た。とても腰が低くて、指に血豆の跡がある。数時間は電源を入れないでほしいと言われた。コンプレッサーに液が溜まった状態で通電すると壊れてしまうらしい。珈琲館に行って原稿を進めた。帰って晩ご飯を作った。電源を入れてしばらくしても異常はなかった。冷蔵庫が広くなって嬉しい。

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6月11日

 めずらしく12時過ぎには眠たくなって、今寝れば朝に起きられるかもしれないと思って寝たのだけど、体が昼寝と勘違いしたのか1時間ほどで眼が覚めた。手持ち無沙汰になって日記を書いている。夢を見た。大昔に住んでいた団地——われわれはそれを「住宅」と呼んでいた——にいる。夜で、低いところに星がたくさん見える。部屋のドアを開けると入れ違いに兄が出かけるところで、こんな夜中にどこに行くんだろうと思う。寝ているのと喋っているのとが重ね合わされたようなかたちで両親が寝室にいる。居間のこたつで彼女がサラダ味のサッポロポテトをつまんでいて、リクライニングを倒した座椅子に寝そべって狭いこたつに足を突っ込む。みすず書房からフロイトとウィトゲンシュタインの中間の人の新刊が出ていて、「その日の仕事を別のかたちで保存して食べるために毎日料理を作る」と書いてある。それは彼がしていた子供向けの授業を本にしたもので、こんなものがあったのかと思う。

 とりあえず書いてみたけどこれはほとんどボツだなと思って寝なおした。別の話をしよう。街には悪そうな人がたくさんいる。というか、昔悪かったけど今はもうくたびれている感じの人がたくさんいる。悪というとどうしてか一様に悪い人が集まっているのを想像してしまうので、悪のあとでばらばらと様々に人がくたびれているのを見るとなんだか元気になる。連れの東南アジア系の女性にやり込められている人もいれば、Tシャツの袖から和彫りをのぞかせて道端に座っている人もいる。そこには生活の匂いがあって、そういうレベルでの悪の多様性に触れることは陰謀論への免疫になるのかもしれないと思った。

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6月10日

 動物に必死に人間の似姿を探そうとするのは、人間が動物になってしまうのが怖いからだ。ドゥルーズは動物は死ぬことを知っていると言ったが、それは動物の死は死を最小にする死だからだ。人間は墓を建て弔い死を最大にする。そのとき死は非物体的なものになり、死体の物体性は滅却される。動物は死ぬときたんに死体になる。人間性にせよ人権にせよ、それを動物に拡張するときに人間の側で何が確保されようとしているのかとつねに問う必要がある。しかし例えばペット葬なんて馬鹿らしいと言いたいのではない。たしかに半分はそう思う。でももう半分は、人とともにあることを彼らなりに解釈し生き、人に喜びや安らぎを与えてくれたということに対して、弔うこと以外でどう応答すればいいのかと思う。これは社会の問いであり文明の問いだ。その時点でやはり半分はもう興味を失ってしまう。動物に出くわすたびにわれわれは半分に割れる。その割れるということ自体から何かポジティブなものを取り出すことはできるだろうか。

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