日記の続き#34

『日記〈私家版〉』の箱が宅急便で届いた。本体ももうすぐ届く。箱といっても折り目の入った型紙の状態で送られてきて、それをひとつひとつ組み立てないといけない。『パラサイト』みたいだなと思いながら組み立てる。僕が幼稚園に入る前、母も内職で段ボールに山ほど入ったボールペンを組み立てたり、スーパーファミコンのソフトにシールを貼ったりしていた。車で工場まで持っていくのによくついて行った。牛乳配達もしていて、巨大な冷蔵室の冷たいコンクリートの壁や致死的な重たい扉を憶えている。僕が小学校に入ると訪問看護を始めて、それがなんだか誇らしくて担任の先生にわざわざ報告した。組み立てを手伝ってくれる妻にそういう話をした。彼女のほうが僕より手早くて、50個ほど組み立て終わった。でもまだ365個には遠い。365日ぶんの日記の、365ページの本の箱をひとつひとつ組み立てる。何かの儀式みたいだ。ショップ(BOOTH)で注文受付を始めたのでぜひチェックしてみてください。

日記の続き#33

日記についての理論的考察§5
「友達と遊んだ」といったいかにもイベントめいたものはかえって書くのが難しいという話、それを順序立てて書くより周縁的な小さなことを書いたほうがかえって何かが保存されるという話をした。この二重の「かえって」に含まれている逆説についてもう少し考えよう。書くべきことはあるのにそれにどう手をつけたらいいかわからない、あるいは、どう書いてもそのイベントの楽しさなり嬉しさなりが伝わらない感じがする、というのは文章力の問題ではない。むしろ「文章力」というものへの過剰な期待が書く手をスタックさせていると考えたほうがいいだろう。僕もこれだけ毎日文章を書いているとたまに文章が上手いよねと言ってもらえることがあるのだけど、挿入句がちょっと多いくらいでおおよそ平凡な文を書いていると思うし、それが上手く見えるのは、そういう人が抱えている「文章力」に対する屈託が僕には少ないからだと思う。要するにこれはナルシシズムの問題なのだ。どこかで腰が引けていたら似合う服も似合わないのと一緒で、文章力を上げるために努力をすることは逆効果だとさえ思う。この形式面での屈託は内容面の屈託と背中合わせになっている。つまり、あるイベントの輪郭がまずあって、それを埋めるように書きたい、でも文章力がないから書けないという循環に嵌ってしまっている。でもイベントにはあらかじめ輪郭なんてないのだ。ハッシュタグやアットマークが与えてくれる流通可能な輪郭に文章を従属させる理由なんてぜんぜんない。書くことで生まれる輪郭のうちに本当のイベントはある。でもそれはそれである種の切なさをともなっているとも思う。

日記の続き#32

ここのところずっと博論本の第三章の執筆をしている。平均して1日2000字ほどずつ進んでいると思う。リライトにしてはずいぶんな遅さだとも思うが、リライトだと思わないようにしているのでしかたがない。博論は読み筋を通すのに手一杯で、細かい証拠と注釈の列挙に終始してしまったところがあったが、いまはそこから距離を取って文章そのものの大きな流れを組み立てている。これがいま取り組んでいることで、いつもそうなのだけどそれに加えて、書くことが決まっているがまだ取り掛かってはいないこと、書くことが決まっているわけでもないがいつか書くことになりそうなこと、思いついたけど書かなそうなこと、だいたいこの4つくらいの惑星軌道が頭の中にあって、その上をぐるぐると考えが回っている。何かひらめくというのは惑星直列みたいに近くのものと遠くのものを繋げる回路が見つかることで、いつもいま書いているものからいつか書くものを透かし見たり、その逆をしたりしている。この場はそういう往還のあいだにどんどん溜まっていく澱のようなものを吐き出す場でもあり、星の比喩を引っ張るなら思いがけない彗星を書き留めたりする場でもある。つまるところ全部書くわけだが、気前がいいとも言えるが貧乏たらしいとも言える。どっちなのかわからないけど、もうそうやって生きていくしかないなというこれも諦めなのか立志なのかわからない気持ちに最近なっている。

日記の続き#31

夜に、また寝て起きたら日記を書くのかと思うと暗い気持ちになった。決まった内容があるわけでもない、とうぜんお金にもならない、1年と決めていなければおよそ続かなかった、しかし逆に言えば続いているのはそう決めたからということにすぎない、この日記が、ほとんど自罰とか自傷とかなのではないかと思えてきてしまう。私家版の刊行だって、これだけ書いて赤字で終わることをどこかで望んでいるんじゃないかという気がして怖い。セルフケアと自傷は紙一重だと思う。先日ネットの記事で、整体の祖である野口晴哉があるとき夜尿症の子供に手を当てて治療をしたらそれ以降その子供に盗癖が出るようになって、治療とは何かと悩んだという話を読んだ。精神分析家が舌舐めずりするのが聞こえてくるような話だ。僕はその子供のことがわかるような気がした。優雅な生活は最高の復讐であるという言葉があるが、なんということのない、それは生活への憎悪からの子供じみた敗走であり、憎悪のほうはそのスピードを燃料にしているのだ。(2021年12月14日

日記の続き#30

日記についての理論的考察§4
飛び飛びで書いているのでどうしても話が冗長になってしまうのだが、ふだんの文章では僕はむしろ冗長性を確保するのが苦手なのでかえってこれでいいのかもしれない。ということで前回の途中の話に戻るのだが、「イベント」めいたものとして友達と遊ぶことと映画を見に行くことを例に挙げた。こうしたことを日記に書くのが難しいのは、あらかじめイベントとしての輪郭が与えられていて、それ塗り絵のように埋めなくてはならないと思ってしまうからだろう。でも友達と遊んで楽しかったということは、こんなことがあってこんな話をしてということを書くより、たとえば帰りに携帯灰皿を見ると一本だけ友達のフィルターがそこに混ざっていたとか、そういう非本質的な小さなことを書くほうがいい気がする。詳しく書くほど毀損されてしまうようなタイプの出来事はあって、ある種のシネクドキに託すほうがかえって何かが保存されるということがある。難しいのはそれをもったいないと思う気持ちをいかに振り切るかということなのだけど、そこでもったいないと思ってしまうことがすでに、友達と遊ぶということをいいねがもらえそうな流通可能な「イベント」として捉えてしまっているのだという自己チェック能力を働かせるよりほかないとも思う。でも他方でそこまでメタ認知を働かせずとも、より坦懐に今日の何が私の心を震わせたのか、記憶に引っかかったのかと問いさえすれば、勝手にそういう便利な小さいものが出てくると思う。それが難しいのだと言われればそうかもしれないけど、それに勝てなくても日記は日記なのでいいと思う。そればっかりだと楽しくなくなってきちゃうよねという話。

日記の続き#29

僕もかれこれ5、6年くらい批評を書いているのでこういう印象論も許されるかなと思うのだが、「建築には批評がない」とか「現代美術は批評が機能していない」とか「文学批評は壊滅的である」とか、2年くらい前まではそういう言い方がよくされていた気がする。その後状況がよくなったわけでもなく、もはやそういうことすらあんまり言われなくなってきたというのが現状だと思う。当時は「そうか、建築に批評がないというのはたしかによくないことだな」と思って他所から何か言うと「お前は実務がわかっていない」とか「お前が建築に貢献することは一生ない」とか、こんな心無いことってあるのかという言葉を浴びせられたりして、結局批評なんて欲してないのだと気づいた。「〇〇には批評がない・足りていない」的な言説も業界人的な身振りの良心的なだけに厄介なレパートリーだと考えたほうがいい。それはつまるところ当該ジャンルをカルチャーとして涵養するということで、それに水を差すようなことを言うとジャンル内に生息している人は誰も乗ってくれないのだ(それは昨年末に参加した美術批評の座談会でも感じた)。そういうのは本当にくだらないと思うし、文化をひっくり返さなくて何が批評なんだと思う。開かれとか横断性という言葉でも足りない。ある表現ジャンルを突き詰めることとそのカルチャーが好きなことはじつはぜんぜん違うことだ。批評はその隙間に滑り込んでクライテリアを作る。

日記の続き#28

日記についての理論的考察§3
(*各回を以下のタグから一覧できるようにしました)
イベントフルネスという罠が、日記と日々のウロボロス的な循環にわれわれを閉じ込める。これは極論に始まる抽象的な推論の帰結でもあるが、とてもプラクティカルな話でもあると思う。たとえば友達と遊んだとか映画を見に行ったとか、そういう「イベント」めいたものがある日ほど日記を書くのが難しい。というのもそういうとき否応もなく、そういうイベントのある私を見せたいという自意識(への猜疑)がくっついてきて、詳しく書くほどに実際起こったことを毀損しているような気がしてしまうからだ。あるいはそれらしいことがなくても、起きて朝食を食べてどこに行って帰ってきて何をしてというふうに、1日を小さなイベントの連続としてまんべんなく書くことは、困難ではないにしても端的につまらない。アテンションエコノミー的な自意識も罠だし、自分を機械的にイベントフルな日々に還元したいという苦味走ったセルフ・ディシプリンも罠だ。日記に固有の可能性はインスタグラムや日誌とは別のところにある。それを「イベントレスネス」と呼ぼう。和風の味付けで「寂び」とか言ってもいいのかもしれないが、もっとだらしないこと、ありていに言えば暇だということなのでイベントレスネスがちょうどいいと思う。

日記の続き#27

近所を歩いていると老犬がベビーカーに乗せられているのをよく見る。歩いて雑草を嗅ぎ回らなくても楽しいのだろうか。犬は乗り物が好きなのかもしれない。犬と人間以外の動物が車の窓から顔を出しているのを見たことがない。眼だけの存在になることは、いわゆる「眼差し」について散々言われてきたように、窃視症的な主体=精神=男性と対象=身体=女性の分割であって、それはとにかくけしからんとされている。でも身体性の恢復といっても車に乗ったりするわけで、じゃあ車−身体をサイボーグとして考えようと言われても、ベビーカーに乗せられた老犬を見るとこれをベビーカー−老犬のサイボーグなんだとは言ってはいけない気がしてくる。彼——と便宜的に言うが——も飼い主も、それを歩けるときから続いているいつもの散歩だと思っているだろう。散歩は移動によって景色が変わることと、いつもの景色が日によって変わることの二重の変化を楽しむものだ。それを彼はひょっとしたら10年ものあいだ続けてきて、それがたまたま今はベビーカーをともなったものになっている。彼にまつわる技術的−身体的な変化より、それが同じ散歩であることの方がずっと——彼にとっても、そして哲学的にも——大切なことのように思える。彼が散歩を眼だけで楽しんでいるとするなら、それを窃視的だと言うのは間違っているし、それは君がサイボーグだからだと言うのは酷いことだ。(2021年5月27日

日記の続き#26

日記についての理論的考察§2
ふたつの極限的なケースのいずれにおいても、書き手は日々と日記の循環関係に囚われてしまっている。たしかフリオ・コルタサルの短編に、男が部屋で小説を読んでいてそのなかで殺人鬼が部屋に侵入し、椅子に座っている男を後ろから刺すとそれはその小説を読んでいる当人だったという話があったが、この読書を執筆に入れ替えたような循環が日記には避け難くくっついてくる。ラカンは主体の構造を〈数えるものが数えられるもののなかに含まれること〉と説明した。その限りで日々のなかで日々について書く日記は主体化の実践だ。
もちろんわれわれは日記を書くためだけに日々にイベントを詰め込んだり、日記の執筆に1日を費やしたりということはなかなかしない。あくまでこの話はそういう空転から無関係でいられない——それはSNSでも同じことだろう——という感じを分析するために持ち出した極論だ。この「感じ」を分極してみてわかるのは、ひとつにはこれまで述べたような循環構造がそこにあること、そしてもうひとつは、そうした循環が「イベントフル」な状態への衝迫によって形作られていることだ。ここでようやくもとの話に戻れるのだが、毎日書くということは、「イベントフルネス」への希求を強制的に断念させされるということでもある。(次回へ続く)

日記の続き#25

雨。しばらく前に暑い日が続いたとき、彼女が冬服をしまっていてまた寒くなるよと言ったのだが聞かず、結局また冬の部屋着を出して着ている。

日記についての理論的考察
ひとくちに日記と言ってもそのかたちは様々なので、ここでは僕が書いてきた日記が従っている(1)毎日書く(2)書いたらそのつど公開するというふたつの条件を満たしているものを対象として想定する。これら以外にも僕の日記の規則はあるだろうし、これらを満たしていない日記にもこの考察が寄与するところもあると思うが、とりあえずこのふたつを大枠とする。実際僕の日記の輪郭を形式面から規定する要因としてはこのふたつがいちばん大きいと思う。毎日書くという縛りがなければ書かないようなことを書いているし、今日はよく書けなかったなと思うと投稿ボタンを押すのに気が重くなる。
まず毎日書くということについて。ふたつの極端なケースを想像してみよう。書くことを作るために1日を無理やりイベントで埋め尽くすというケースと、1日中日記を書く以外のことをしないというケースだ。いずれも病的な感じがするが、僕は1年間日記を書いていてこの狂気のリアリティをうっすらと感じていた。気づけば日記のことが頭の片隅にあるということ自体が、この狂気の片鱗に触れていることを示しているだろう。一方で僕は日記に書くことを探し続け、他方で頭のなかでは何かがつねに推敲されている。ともすれば日々から日記の外部がなくなってしまうのだ。(次回へ続く)