12月14日

夜に、また寝て起きたら日記を書くのかと思うと暗い気持ちになった。決まった内容があるわけでもない、とうぜんお金にもならない、1年と決めていなければおよそ続かなかった、しかし逆に言えば続いているのはそう決めたからということにすぎない、この日記が、ほとんど自罰とか自傷とかなのではないかと思えてきてしまう。私家版の刊行だって、これだけ書いて赤字で終わることをどこかで望んでいるんじゃないかという気がして怖い。セルフケアと自傷は紙一重だと思う。先日ネットの記事で、整体の祖である野口晴哉があるとき夜尿症の子供に手を当てて治療をしたらそれ以降その子供に盗癖が出るようになって、治療とは何かと悩んだという話を読んだ。精神分析家が舌舐めずりするのが聞こえてくるような話だ。僕はその子供のことがわかるような気がした。優雅な生活は最高の復讐であるという言葉があるが、なんということのない、それは生活への憎悪からの子供じみた敗走であり、憎悪のほうはそのスピードを燃料にしているのだ。

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12月13日

洗濯を回して、干しっぱなしになっていたものを畳んで、また干して、部屋を片付けているともう夕方だった。普段作らない煮物を作ってみようと思って、YouTubeで野永喜三夫の筑前煮のレシピ動画を見て、スーパーに行った。人参、里芋、筍、蓮根、牛蒡、鶏。絹さやはいらないだろう。レジでお金を払って袋詰めの島に行くと、会社員ふうの男が大きな指輪をしているのが目についた。右手の中指に、大きな菱形の台座に「13」と書かれたシルバーの指輪を嵌めている。まさか日にちに合わせているわけでもないだろうし、落ち着いた服装とオカルティックな数字のギャップに戸惑いながら家に帰った。

煮物を作るのにはとても時間がかかる。かかりきりでないと作れないわけでもないが、なんだか家事ばかりして一日が終わったようだった。野永シェフのレシピでは、3倍濃縮の麺つゆを10倍に薄めた出汁をフライパンに入れて、火にかける前に切った端から具材を入れて、冷たいところから火を入れていく。初めて煮物をちゃんと作って、「煮含める」というのがどういうことなのかなんとなくわかった。たとえば人参のエッジが残っていることとか、牛蒡の香りがしっかり閉じ込められていることとか、具材の固体性を保ったまま一方的に出汁を染み込ませることが大事なんだと思う。エントロピーのなすに任せる西洋的なスープとか、あるいはおでんとかモツ煮とかともぜんぜん考え方が違う。「煮る」が「炒る」になってしまう直前のところ、植物的に静かな料理。

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12月12日

数日前座談会に参加してほしいという依頼があって、しかも週明けにはもう収録だという話だったが、今年の現代美術の動向を振り返るという企画で、そういう状況論的な話題で呼ばれることってこれまでなかったなと思い引き受けることにした。とはいえ喋り仕事はとうぶんやっていないし、ふだんそういう真面目な話をすることもないので、リハビリ兼ブレストにと思って昨夜ツイキャスで1時間半ほど喋ってみた。朝それを聞き返しながらメモを取ってアイデアを整理して、あとは別の原稿を進めた。

YouTubeを回遊していると、コメント欄で文末に(伝われ)とか(語彙力)とか書かれているのが目についた。ここ最近よく見るようになった表現だと思う。恥も外聞もない。というか、恥も外聞もなさを、わかってやってますよと先取りせざるをえない、それ自体恥ずかしい挫折にこそ共感を求めているみたいだ。というか、そうした屈託としてしか自分の内面の存在を確保できないのかもしれない。文面を超えたものが私のうちにある、しかしそれは文面を貶めてみせることでしか仄めかすことができない、みんなもそうでしょう、と。気の利いたことを言えたら蒸発してしまうような内面にどんな意味があるんだろう。僕は単純に文字数の問題だと思う。2万字書いて最後に(伝われ)と書く人はいないだろうから。そうなったら意味が内面にあるか文面にあるかなんて誰も気にしない。でも彼らが求めているのはそういうことではないんだろう。コメントじゃなくても握力計とか血圧計とかでいいのだ。それでも(握力)とか言うのだろうが。

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12月11日

朝起きて歯医者に行った。やっぱり歯茎が痛くて、ウィダーインゼリーを飲みながら行った。歩いて5分くらいのところの、診察券を見たら2年ぶりの歯医者。部屋に通されて長椅子に座ると画面にレントゲンが映っていて、眺めていると後ろから女性の声がする。歯が痛むということですがと言われ、歯というか、奥歯の歯茎のところですねと言うと椅子を倒すボタンを押して顔にタオルをかけた。やはり親知らずが生えてきたところが腫れているらしい。ちょっと見てすぐレントゲンを撮ることになった。顔を固定する機械から伸びている棒を噛むと、音階練習みたいな作動音とともにぐるぐると機械が回る。診察室にると、また後ろから彼女の声がして、今日抜歯してもいいですが、腫れているときに抜くと痛みが長引くかもしれませんと言った。週明けに座談会があるから今日は抜かないほうがいいだろう。今日は抜かないでくださいと言うとひと通り歯石を取って薬を塗ることになった。高圧洗浄機みたいなものや歯磨き粉の味がするグラインダーみたいなものを次々突っ込まれ、スクランブル交差点に放り込まれたように舌が方向感覚を失い、唇がシリコンスチーマーみたいにびよびよになった気がした。麻酔と抜歯は年明け。麻酔と抜歯は好きなので楽しみ。

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12月10日

歯、というか、奥歯の歯茎が腫れて痛い。これは前にもあったことで、寒くなって乾燥してくると、まず喉仏の横のあたりに違和感が出てきて、そこから歯茎にかけて炎症する。前は親知らずに被さっているところが腫れたのだけど、どこを抜いてどこが残っているかわからないので今回も同じなのかはわからない。内科的な原因で歯科的な症状が出ているのだと思う。ともあれ口内が痛いのをなんとかしたいので歯医者を予約しようと思ったが、金曜日は休診で明日の午前になった。そのままだとものを食べるのも辛いので痛み止めを飲んで昼寝をして、そのままとくに何もせずに過ごした。

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12月9日

てっきりとても面倒なことだと思っていて、引っ越してから免許証の住所変更を先延ばしにしていた。数年前に更新に行った弘明寺の警察署まで行って、写真を撮ったりしないといけないと思っていたのだけど、ちょっと調べると近所の伊勢崎警察署でも更新できるらしい。先日発行した住民票を持って行って、紙に変更事項を書いて、免許証の裏面にそれを印字してもらう。そのままイセザキモールを歩いて、久々に外で作業をすることにした。交差点に分譲マンションの営業をしている人が立っていて、道行く人に声をかけている。誰も立ち止まらないので、しばらく一緒に歩きながら、温かいお茶も用意しておりますのでとか言ってなんとか足止めしようとしている。歩くスパム。ある意味とても贅沢な存在だ。ひとりの人間をこれほど無駄遣いできるとは。何が彼をすりつぶし、彼は何にすがるのか。ふたつはどこまで区別できるのか。

カフェドクリエの喫煙席で原稿を進めた。ひとり席が並ぶ大きなテーブルを挟んで正面に座っていた女性が綺麗な人で、久々に他人の顔を見てそこに何か可能性を投影したいような気持ちになった。見回すとみんなマスクを外していて、顔を出しているということがどこかわざとらしく見えて、なんだか騙されているような気持ちになった。帰りにコーヒー豆を買って、古本屋をのぞいた。立ち読みをしていると焙煎してもらった豆の香りが袋越しに漂ってくる。スーパーで鮭とブロッコリーとペンネを買って帰ってグラタンを作った。

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12月8日

博論本の改稿。いちばんの問題は節構造だと思う。博論の段階ではまず全体として、ドゥルーズの能力論の展開から、彼の哲学と芸術の関係の変遷も追うことができるという思いつきからスタートしていた。前期の能力論と、中期の言語/物質の二元論と、後期の芸術哲学を繋げば、芸術が哲学を変化させていること、そしてそうした変化が可能になるような条件が——当の変化のなかで——哲学に組み込まれていることを明らかにできるだろう、そしてこれは批評の哲学的条件の探究であろうと。これは面白いと思うし、博論を通してテクストベースで主張の正当化ができたと思う。

でも「テクストベース」であることが問題で、というのも博論の節の多くがここではこの本のこの章のこの概念を扱います、というような枠組みになっていて、通して読むとバラバラの講読レジュメを読んでいるような気分になってくる。書いているときはぜんぜん気づかなかったが、頭の中にある思いつきにテクストに基づいた根拠を与えることにいっぱいいっぱいになっていて、当の思いつきに文章のなかでストーリーを与えることまで頭が回っていないのだ。これはびっくりした。いや、審査のときにすでにナラティブがないという指摘をもらっていたのだが、それがどういうことなのか気づくまで一年もかかってしまった。

これは良くも悪くも『眼がスクリーンになるとき』の書き方に引っ張られていたのだと思う。この本を書いたおかげでテクストを区切って整理し、ワイルドカード的な語彙に着目して線を引き、自分なりの読み方として提示するということができるようになった。でもやはり『シネマ』だけで完結させるのとドゥルーズの全体を論じるのとでは、同じやり方は通用しないのだろう。まあやるべきことは大変だがシンプルではあって、節のタイトルを扱うテクストの範囲ではなくひとつの主張や仮説が込められたセンテンスにして、それに合わせて本文の流れを調節するだけのことだ。作業が大変かどうかより目的が明確かどうかのほうが重要。幸いいちばん大変な「こう読める」と言うための読解は博論でひととおり済んでいる。

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12月7日

不思議なもので、あれほど8時に飲食店が閉まってしまうことを窮屈に思っていたのに、感染者数が落ち着いて緊急事態宣言が解かれると家を出る気がなくなってしまった。しばらく買い物以外でほとんど外に出ていないし、作業も家でやって、髭も剃らなくなってしまった。それはそれで落ち着いていろいろ進められるからいいのだけど、気づかないうちに何か鬱屈が澱のように溜まってしまうのだと思う。SNSはそういうもののはけ口として怖いくらいよくできていて、見ていると世界がぎゅーっと狭まって、抽象的なものになって、それで不用意なことを言ってしまったりする。落ち着くために翻訳を進めた。風呂に入ってストレッチもした。どうして自分を維持するというだけでこんなに大変なんだろう。そういう過酷さへの憎悪さえ食い物にされている。でもこの憎悪が削がれてしまうことのほうが怖い。

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12月6日

『存在と時間』を読み返している。前に読んだときは中公クラシックス版だったのだけど——小倉さんが何かにつけて中公クラシックス推しだったので——せっかく読み返すならと思って高田珠樹訳の作品社版を買って読んでいる。いろんなところでハイデガーも大変だなあと思うのだけど、とくに自分の目指す存在論にはそれに見合う「文法」が存在しないので、いきおい表現がぎこちなくなったり、醜くなったりしてしまうかもしれないとエクスキューズしていて、これには考えさせられた。彼はそこで、プラトンの時代にすでにトゥキディデスらの「物語」的な語りと哲学的な用語法とのあいだには大きな開きがあったと述べている。でもそれは日常的な言語で捉えられないものを目指すからこそのことなのだと。同じようなことはドゥルーズも『哲学とは何か』のなかで言っている。哲学者はイデアとかコギトとか、当の言語のなかでは「かたち」とか「考える」とかのようにごく日常的に用いられる語に新たな意味を付与する一方で、ときにはギクシャクとした造語を作らざるをえないときもあると(たしか脱領土化déterritorialisationを例として挙げていた。デテリトリアリザシオン)。そもそもが明治以降の急拵えの翻訳のうえに成り立っているがゆえに、日本のほうがよっぽどそうした乖離は大きいと思う。印欧語族のなかでやって済むんだったら楽でしょうよと思ったりもしていたが、ハイデガーも大変そうなのでそもそもそういうものなのかと思った。意地を張って他の一般的な言葉を使わずわざわざ「現存在」と言っているのでは決してないと言っていてちょっと可笑しかったが、彼の真摯さと謙虚さを見習いたいと思った。

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12月5日

買ったカフェオレを飲みながら道端に立っていると小さなおばあさんが近づいて話しかけてきた。どうしてかわからないがおばあさんによく話しかけられる。何を言っているのかわからなかったが、スマホの画面を僕に向けている。どうしたんですかと聞くと、画面下部にある三つの物理ボタンのひとつの、メールのアイコンが点滅していて、それの止め方がわからないということらしかった。リウマチなのか指がこわばっていて、見慣れない画面で、何かしきりに話していて、終始画面に向かって俯いているので顔が見えず、突然夢の中に放り込まれたように意識がまとまらなかったが、それで困っているらしいということはわかった。僕も自分が何を言っているのかわからないままに彼女の側頭部に向かってとにかく何かをハキハキ喋りながら、点滅しているボタンを押して、未読になっているらしいメールを開いて、それもひらがなだらけで何が書いているかわからず、家のマークの物理ボタンを押してホーム画面に戻ると、点滅が消えて、彼女は歩き去って行った。

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