日記掲示板2

日記掲示板の投稿数が999件に達し、新規投稿ができなくなっていることに気づいたので新たに作りました(もしその間投稿できなかった人がいたらすみませんでした)。

ルールは同じで以下の通りです。
(1)以下のコメント欄に名前と内容だけを書く(アドレスは不要)
(2)名前は本名やどこかで使っているアカウント名ではなく、このサイトだけの通称を使用すること
(3)日記以外のものは雑談掲示板に投稿すること

ちょうど僕も1年続けた日記が終わって、新たに日記の続きを書き始めたところなので、みなさんもそれに並走するかたちで気軽に書き込んでいただければと思います。

2022/04/08 福尾

487件のコメント

  1. 今日は外に出た。ガレージバンド触ってたら4時間経ってた。でも曲は全然できる気がしない。楽しいからいいのか?全身鏡の前で好きな曲を聴きながら踊る。気づいたら1時間経ってた。楽しいからいいのか。足先が異様に冷たくて、でもヒーターをつけると上半身ばかり熱くなって、頭が痛くなる。毛布をかけても足だけ温まらない。朝は珍しく布団をきっちり整えて、出かける前に出来かけの曲を一度確認しようと思い、ガレージバンドを開いた。今はミシェルンデゲオチェロを聴きながら夜の散歩に繰り出すところ。昨日の夜耳が痒くてかいてたら、耳から血が出た。Never google your symptomsを思い出した。ボーも思い出した。

  2. サイトを整理する
    楽曲のアーカイブのリリースを始める
    ドラッグストアで買い物
    弁当屋で弁当を買う
    イオンへ行き百均でスポンジを買う

  3. ビールを飲んで寝床。掲示板の投稿が急に増えて胸が躍る。大学のゼミで「愛妻弁当」の60年代の流行には天皇(制)が絡んでいるという話を聴いたと妹が話す。ラーメンに乗せる野菜を切って炒め、ふろ自動運転が鳴ったので僕だけ先に入る。その間に妹がラーメンを茹でる。湯船のなかでタイマーの音が鳴るのをニ度聞く。できたラーメンをローテーブルまで持っていって、今夜は『アンナチュラル』をふたりで観る。1話の見事な構成に驚く。劇中でビールを飲むシーンに感化されて、自分も缶をあけた。

  4. 今日は事実に注目してみようと思った。
    気分がいいのも悪いのも飽きてきたような気もする。電動自転車が普通に漕いでいても早いので少し判断を早くしないと人を轢いてしまうと思った。
    日記はなんかいい感じの高い日記帳がいいかな?と思ったけど、それだとどこでもかけないし書けなかったらガッカリしそう。かけなくてもいいようにはじめてみた。
    発表が上手くいかなかった。ごめんなさいという気持ちは首からやってきているような気がする。黒いモヤモヤが首から。
    人に分かりやすく伝えるのが苦手だ。なんか難しい方がかっこいいと思ってしまっているのかもしれない。難しいことを考える俺…!が好きなのかもしれない。
    難しいことはまぁいいかもしれないけど、工夫したらダメなのかも。

  5. 1日中家にいる。最近絵を描くのはやめてガレージバンドで曲を作りはじめた。初めてにしてはなかなかいいじゃんと思ったけど、お気に入りの音楽を聴くとやっぱり全然違った。工程を思い浮かべて音楽の聴き方が一瞬変わるけど、いつも通りの聴き方にすぐ戻る。冷凍カットパプリカとお出汁と醤油と卵でスープを作る。変な組み合わせだなと思ったけど意外と美味しい。部屋が暗くなってきて、もう夕方だなと窓を開けて顔を出すと、室内より外の方が乾燥しているのか唇がへばりつく。寒かったけど頭がスッキリする。湯船が直ぐに冷めるから、44度でお湯をためて、変な時間にお風呂に入る。

  6. 物凄く寒い。世の中のひとびとも同じ体感気温だろうと言うくらい寒い。珍しく港南台に出勤する2日間。相鉄のボックス席は暖かくて冬の旅のようだった。まだ幕の内なので、持参しているのは餅と蜜柑。『ナラティヴの被害学』を炬燵で読んでいたら、『ねじまき鳥〜』の「井戸」は単に自己の精神世界への瞑想の場であるだけではなく、他者たちのトラウマにアクセスする文学的な場でもあるとの記述に行き当たる。これは大江健三郎の『個人的な体験』(バード!)への春樹による応答であり、(戦中の)加害性を後の世代が引き受けようとするときに起きる困難と文学的な回路を書いた作品なのだと論じられていた。『平和と愚かさ』も含め、どれも読んでいる最中の本だったので眼が零れそうに…、というか、自分自身と符合しうる切り口を教わった気がして奮い立った。しかし、ここから11時間くらいは仕事に取りさらわれる。

  7. 一眼で動画を撮ってみたが失敗
    ドラッグストアで買い物
    音楽動画をアップ
    Vlogをアップ

  8. 妹は21時まで冬期講習のバイトに出ているなか、こちらは休暇最終日。日も落ちて寒くなった帰り道を歩いているときに日記に何を書こうかとつらつら思いめぐらす。その道程で、マスターから「縁起ものですので」とお守りを渡され、みかんなどを買いに八百屋に寄り、習い事帰りの三人組の子が自転車置き場で陽気にさわぐのを見て、タカナシ乳業の大型トラックが次々に工場直付けの踏切を渡っていくのを見て、窓辺に飾られた象の青磁器を通りすぎ、小川を渡って、豪邸の庭に飾られた車のホイールを門前から眺め、階下に住む家族が自転車でどこかへ出てゆくところと一緒になって挨拶を受ける。そのいくつかは昨日のもので、いくつかは今日のものだ。家に着いても、干していた敷布団を取り込み、風呂を沸かすスイッチを押し、米を洗い、夕飯の素材をキッチンに並べて、NHKニュースを点ける。仕事初めのニュースに、被災した大分の住宅群の処分の決定や豊洲の初競りが取り上げられるのを見る。期限が切れそうなマカロニサラダを小腹に入れる。そうこうしているうちに風呂が沸いたアナウンスが鳴る。それで慌ててこの掲示板に向かう。一年前の日記には、仙台-丹沢-京都を行き来する年末と札幌-ホノルル-箱根を遍歴する『ダンス・ダンス・ダンス』の重なりに震えるさまが書かれていた。今年の冬期休暇にもまた、『野生の棕櫚』を読む公園に差す暖かい陽がミシシッピーに眩しく降り注ぎ囚人たちの肌を焼く陽として作中に描かれていたり、病院で恋人の手術を待つなか、見えない砂風の幻影を浴びるヘンリー・ウィルボーンの描写に差し掛かると辺りにも突風が吹きこんできたり、そういうシンクロめいた感覚が訪れていた。恐ろしい書物だった。最後はなぜか心臓から指先にかけての上半身全体を「歯ぎしり」させながら読み切った。自分の頭のなかの連想(昨夜の「雑談」番組より)がそういうシンクロが起きそうな場所に僕を導いているのかもしれない。己のなかにある連想(を軛として捉えるならhabitと呼んでもよいか)を自由にさせよという叱咤への応えは、追いかける書物たちのなかにもあれば、明日から戻る遊び場のなかにもあるだろう。自己への批判性を育てることと自分の文を産んで殖やすことのさじ加減に悩み続けるのは、今年の日記でも日誌でも変わらないだろう。ただ、「出版」(編集の目)の不在の問題だけは何とか見通しをつけたい。身も文もいまだ世に出るということを叶えられていない。

  9. 音源が売れる、感謝のメールを送る
    親戚が来る、寿司4人前6100円
    楽曲販売サイトの新しいアカウントを取る
    友達のゲーム配信を観る

  10. 中公文庫版の『野生の棕櫚』の表紙の絵と同じ黄金の光が差す保養公園。昔はたくさんいたという散歩仲間たちを懐かしむ老婦人の会話を隣に聴きながら、2時間もいると流石に体温も上がった。老人たちはここの日当たりは本当に「サイコー」だと言う。ミシシッピーの大河の上で頑と生きる囚人と赤子を抱いた女の物語も終盤に差し掛かるなか、彼らの叙事詩を読む時間ともそろそろ別れることが哀しい。はたして労働の日々は投げ込まれるような「悲劇的」な時間なのだろうか(垂直性)。あるいは、人々との関係の網目のなかでわけも分からなくなる頽落の時間なのだろうか(水平性)。パーティをとりなす女主人には自分だけの部屋が必要だった。でも、女主人であることを求められる職でも対価でもないならば…、と身の振り方を右往左往して考え続ける日々のなかに戻るのがイヤなんだろう。能登行きの話もまた入ってきた。セルフ・プロデュースとはよく言ったものだ。今は喫茶店に入って、煙草をスパスパ吸っている老人たちが席を立つのを待っている。こういう時間でいいのに。

  11. 写真印刷
    新作音源リリース
    親戚のおじさん来る、お菓子をもらう
    動画を作る
    インスタを辞めた

  12. 三賀日の幕切れ。昨日とまったく同じ道で万騎が原周辺にて半日過ごす。日光が寒気を押し返す時間帯があった。夜、妹がもうひと晩実家に泊まるとの連絡が入ってから、張っていた気を抜くことができずに眠れなくなった。
    『斜め論』第1章のノートを作り始める。50年代ラカンとハイデガーの「垂直方向」の引力に引きずり込まれてどうしようもない。著者の松本さん自身「おわりに」のなかで自分のなかの「垂直的な傾向」に本書を書いた動機があることを書いていて、引用文献を辿っていくだけでも底抜けに出会う超越/深淵の議論に手が震える。東さんの「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」などの別のハイデガーの引用に「横すべり」して体勢を整えようとする。「つまり、本論のような問いを立てるためには、まずは、収容所と団地を哲学的に区別できなければならないのだ。ハイデガーを参照するとそれは不可能になる。ハイデガーの哲学が、あまりに高度で洗練されているがゆえに」(『平和と愚かさ』、214頁)
    ふと見上げると、あちらにはホワイトヘッドの「ロマン主義的反動」、ベルクソンの『記憶理論講義』(≒平井講義)、こちらにはタウシグ-ベンヤミンの『模倣と他者性』(および人類学周辺の諸議論)…と入山を呼びかける峰々がどこまでも連なっていて途方もない気持ちになる。思想系の山でもこれだけある。かたや遊び場の理論は「利他」なんて儚い概念から取っ掛かりにして始めることになっていて、身を裂かれそうだ。読んで、考えて、つくる(なのか?)とは言っても、何から手をつけたらいいのか。乱読のなかでその日に手に届く分だけ積んでいくしかない。そのためのノートだ。

  13. YouTube2本アップ
    音源を買ってくれた人にニュースレターを送る
    インスタで写真葉書の販売を始める

  14. あの冷たく一瞬で過ぎ去る黄金時間(ゴールデン・タイム)が駅のなかに差し込むのが大窓から見える。2日だと言うのに大池公園の売店は威勢よくチュロスなどを売っていて、活気づいているのに感心していたら、駅の方ではほとんどの店が営業していて拍子抜けしてしまった。スタバでもいつもの店員たちが忙しく働いていて、店の中も満席。そう言えば修論を書いていたときも三賀日から作業していたかもしれない。無時間のなかでフォークナーを断続的に読み進めながら、時に三世代にまでちぐはぐに膨れる家族たちの、口の悪いバドミントンやドーベルマンの散歩や駅伝の報告などを盗み聞きする。一年の周期はこの日記のはじまりに置かれているので、珍しくはじまりを意気込まずに済む正月を迎えられてホッとする。

  15. 年の瀬。昨日とまったく同じ一日をたどり直して、紅白と加藤小夏の『SIRENT HILL f』配信(眠そう)を2画面で観るリビングに落ち着いている。京都性(=祖父の京町家の時間)のAR演出には成功してる気がする。小さな公園でのそっとした父親に怪獣役を演出指示して、キャーキャー言いながら繰り返しすべり台を乗り降りしている3歳くらいの少女を見かけたんだった。蜜柑、フォークナー、布施明。悪くない大みそかだ。

  16. 年末になるとドゥニ・ヴィルヌーヴ版『DUNE part2』を観るのが恒例になっている。手元には『野生の棕櫚』の冒頭2章。恋人たちを乗せて唸りをあげる蒸気機関と囚人たちが運ばれる浸水した町といったダブル・イメージが、デューンの静謐な砂漠の戦場の描写に重なって見える。「香料spice」のイメージの底力のある映画だ。
    先に観に行った『落下の王国』の帰り、今度からここに来ようと妹が気に入った様子だったことが思い出された。行方の選択肢を誰かが増やす瞬間に立ち会うとうれしい。あたしここきにいったわ、と転校してすぐ遊び場に通い始めた女の子の姿にもあるように、中井久夫の蝸牛図は至るところで生成している。
    乳白色の夕空を高く飛ぶ鳥の群れを坂の上から臨みながら、陽だまりで読書する幸福な公園から帰る夕方。朝、昨日と同じ道を同じ気温と日差しのなか歩いて出てきた鶴ヶ峰では、今日も八百屋に活気があり、焼き鳥屋に行列が並ぶ。喫茶店の客入りは少し落ち着いていた。夕暮れの帰り道、ふとその線路沿いの裏道から帰ったら焼き鳥屋も八百屋もまだ開いていた。揃いの深緑のパーカーを着た若いカップルが陽気に駆けていく…、彼らは意外にもその先の八百屋に入っていった。これも何かの誘い水かと年始の買い物を済ませることに。初めてここで買い物をする。この時間でもまだまだ店は活気がある。南国系の若い姉妹が親子で店先からじっと誰かを(あるいは何かを)待っている。ハッとするほど美人だ。あまりにも安い野菜をあれもこれもと籠に入れる事態も相まって、まるで都合のよい夢のなかに浸かっているような気分でそのまま列に並ぶ。奥にはこんなものも売っているのかと眺めていると後ろのおばちゃんにぐいと抜かれて、奥の回転の速い店員の方に並ばれてしまう。手前にはお客としゃべりながら、あら袋ね、それなら2円足すからちょっと待ってね、とレジを打ち直している高齢の老婦人の店員。こういう接客のほうがこの店らしくていいやと思って潔くそちらに並ぶと「よいお年を」と聞こえてすぐに順番が来た。値段を全部暗記しているみたいで、そのおばあちゃん店員は実際にはすごい速さで野菜を勘定していく。勘定はぴったり1000円になり、「あら珍しい。お兄さん来年いいことあるよ」とおみくじの占いのような言葉を掛けられる。不意のことに微笑んでしまった。もの凄い幸せなものを受け取ってしまったと思いながら家路についた。明日は蕎麦と肉とシャンプーだけ買いに出ようと思った。

  17. 妹が8階のポケモンセンターで買い物をしている間だけ、2階のサブウェイ。始めて食べるかもしれない。エビたまにおすすめでつけてもらったドレッシングが辛くて汗が出てくる。この横浜スカイビルももうすぐ無くなってしまうらしい。公認会計士を目指す友人に会いに上層の予備校まで来た日と、叔母にさらに上層階の高級レストランに連れて行ってもらった日の、そのふたつの日にだけ紐づいた固有名。3つ目に今日が連なるだろう。年末の港の人だかりのなかで当て所なく逃げ込んだカフェで『個人的な体験』を食い入るように読み、夕方に約束していた『落下の王国』を妹と観た。映画は、バスター・キートンに捧げる、パラジャーノフの文法で描き直した『バビロン』(映画のための映画)といった体裁。でも、より深いところでサリンジャーの「笑い男」や「エズメ」に代表される『ナイン・ストーリーズ』全体に呼応して響いているように感じた。また泥臭い大江ワールドのなかに帰ってきながら、その生々しい温かさが心地よい。

  18. 凍りつくような曇り空。2連休の2日目。日記を2日空けていたのには驚く。拗らせた風邪がなかなか治らないなか、木金とうなされるように過ごしていた。しかし、本当に寒い。昨日は半日居座ったこの喫茶店に、今日は少し早い時間に入る。モーニング・トーストとスクランブル・エッグ。カフェ・オレ。春樹、あるいは京都の祖父に出迎えられたバーカウンターのような朝のダイニングを思い出す。見えているキッチンの白いタイル貼りがまさに祖父の前の家のそれだ。マスターは今朝もよく通る低い声で客たちを安心させている。満席のなかで席を立った常連客にそっと礼を言って、テーブルの上を片づけたあと脚の高さを調整して、次の客を招き入れる。中央林間のサンマルクのようなだだっ広さにあえてせず、テーブルも4人席を崩さずにひとり客をそのまま通す。混んできてもそのスタイルは崩さない。そこに春樹の主人公が泊まるホテルの食堂のようなserveを感じる。真っ青なジャマイカの山を映した特製メニューがブルーマウンテンを900円で勧めている。こんなに寒くても線路沿いの八百屋は活気づいていて、土曜なのでその先の焼き鳥屋にも行列ができている。
    最近はBlue Oyster Cultの『(Don’t fear) The Reaper』を聴いたり、NHKドラマの『ひらやすみ』を見たり、オーケストラのLIVE映像を観たりして年末を文化的に引き込もうとしている。『高慢と偏見』では、舞踏会で踊りながら繰り広げられるエリザベスとダーシーの応酬に心動かされる。現場勤務は明日の一日だけ。このまま無時間へと溶けてなくなりそうな…。

  19. Xmas前夜、しかし水曜なので今夜も淡々と「アデリータ」で日誌を埋める。朝から風邪の兆し。耳も少し詰まっている。現場の倉庫に行きに羽織ってきたコートを置いてきた。何かを忘れてきたということは日記に書きたくなるな、と考えていたらちょうどふたり組の女性が「傘を忘れたことに気づいてさ…」と話すフレーズとすれ違った。ちょうど青になった信号に二度乗って新綱島の駅ビルに入ると、あたりは急に静かになる。きらぼし銀行の美術館のような木の内装の通路を歩く先には、ACミラン(中学時代にガラケーにキーホルダーをつけていた)のように縦に楕円に伸びたタリーズコーヒーのロゴ。こういう歩く風景のチェックポイントのようなものを意識のなかで繋いで、安心の「通勤路」を渡って行き帰りしているなと思う。少し後ろをふりかえれば、もう見知らぬ別世界だ。昨夜は3日ぶりくらいに帰ってきた妹がソファでヒスイ地方(ポケモン)を旅しながら、ドラマ『ライオンの隠れ家』について、あれは柳楽優弥が自閉症の弟を言い訳にして自分こそが閉じた生活のなかにいたかったんだということに気づく物語なのだと語ってくれた。親しいものを自分にも感じると思いつつ、現場では身内の不幸や中学生の心配になるようなニュースを聞きもして、家でも深夜の喧嘩にサイレンが響くのに震える妹の姿を見たりもして、実際は生活を「閉じる」ことの方が難しいなあとここ数日は思う。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA