日記掲示板の投稿数が999件に達し、新規投稿ができなくなっていることに気づいたので新たに作りました(もしその間投稿できなかった人がいたらすみませんでした)。
ルールは同じで以下の通りです。
(1)以下のコメント欄に名前と内容だけを書く(アドレスは不要)
(2)名前は本名やどこかで使っているアカウント名ではなく、このサイトだけの通称を使用すること
(3)日記以外のものは雑談掲示板に投稿すること
ちょうど僕も1年続けた日記が終わって、新たに日記の続きを書き始めたところなので、みなさんもそれに並走するかたちで気軽に書き込んでいただければと思います。
2022/04/08 福尾
立春、明けて快晴。風邪気味で少し怠い。同行者、バギーの擦る水色のつま先、独楽への合流、もつ煮込み…と書いた下書きは消えた。でも、それくらい梳いた方がいい。
節分。ビールを浴びて、全身に熱の籠る帰路。小田原には中高生が溜まれる場所がたくさんある。今流行りのボーネルンドや「利他的な遊具」への潮流は認めつつ、それらの一切は虚妄なのだと一蹴したいと思っている。大江、中上、石牟礼…の深度からもう一度「地域」や「こども」の民族誌を立ち上げたいのだ。沖縄学の先達に倣うように…。人間の無垢ではない歴史性をキャンセルした上で、あそびの生態学をライトに論じることは許されない。
あざみ野。雫ノ香珈琲にて日替わりのトースト・セット。4度目の学校へ。念願の記録はもらえず、地域への硬さの表れかとも思う。昼の光が差す教室で、こどもたちは覚醒しない眠りのなかに揺蕩っている珊瑚礁の魚のようだった。給食の前だったからだろうか。授業とはこのようなものだったと塾講師の頃を思い出す。自分たちに引っかかる言葉が出ると目覚めて、「あー!めっちゃたたいたね(ダンボールで)」や「なぐりあいはいいでしょ」といった返事がぐんと饒舌になる。はじめる前に休み時間を過ごす教室を回って、漢字ドリル、モール解き、イラレ、イントロアプリ、小さな独楽オブジェ、トランプマジックetc…といった彼らのあそびの隣にアイスブレイクがてら立ち寄る時間は自然体だったけど、だんだんと場の熱がぬるくなっていった。学級の場づくりは難しいのだろう。ただ、彼らのまどろみは、例えば戦争からは遠いように見えたし、遊び場に来たときは排外的でもない、開放的な平和が実現されているようにも見えた。「記者会見」を終えたあと、僕からは出入り/素材/世代の自由についてメッセージを送った。瞬間的な関わりのなかで、自分たちにできる準備は何かを考えさせられる。
少し頭痛。昨日までの3日間と明日までの2日間をユニットで分けたつもりでいるけれど、仕事が10日間立て続く渦中にいるという事実に疲労だけは誤魔化されないつもりらしい。渇水で津久井湖に沈んでいた集落の跡が姿を現したというニュースが、政治一色に染まる窮屈な番組群の途中に挟まれる。こんな夜に郵便ポストに葉書をいれた若者が人けのないモールへと入っていく。橋から臨む夕陽に両親の足を止めて少女がカメラを向ける。政党党首の演説で人だかりができるロータリーを黒人のカップルが通り過ぎる。男の耳の裏には十字架のタトゥーが入っている。線路を挟んでオーケーの向かいに建つ工場の壁に当たっていた明かりが急に一斉に消える。通り過ぎる断片に脳が激しく洗われて、その多くが日記からは零れ落ちる。
運動量が多いこの土日は、ダンボールを盗み、草木を刈り取り、それらで作った武器と面でこどもが「部族」化していくさまが愉快だ。この切り口ならいずれ人類学の諸実践(例えば、立ち読みしたときは怯んだA.ジェルや原口ひろ子)にも接続していけるかもしれない。昨日調べたら、ダンボールでお面をつくるこども向けWSをしているアーティストがいて、その人がすでに部族化について語っていた。自分のなかでこれまで孤立していた現場での経験が、だんだん世界とつながりを持ち始めている。
安倍川餅をこどもからもらって食べたのはもう先週のことだろうか。今日、集会先の廊下で呼び出されて、“マーサ”の名で親しまれていた南の現場のスタッフさんが亡くなったと聞かされる。現場から帰るとき関西の訛りで「今日もありがとう、またね」と自転車越しに手を振ってくれるひと。ついこの間もそうやって別れたばかりだ。聖母を思わせる笑顔のひと。自分がこんな親しく感じていたなんて気づかなかった。
過去形にできない。
祖父が死んだ。クリスマスイブの前日に亡くなり、クリスマスイブに葬式をした。いまどきは初七日の読経は繰り上げで葬式当日に済ませてしまうことが多いらしく、今時っぽいなあと思っていたら、さらに「繰り上げ初七日の繰り上げ」というのまであると言われて少し笑ってしまった。二回繰り上げると葬式の読経と初七日の読経を連続で行うらしく、流石に抵抗感を示す僧侶も多いようでやっていない寺もあるらしい。どうせやるなら全部まとめてという気持ちもわからないではないけど、段取りや順番こそ儀式の肝という感もある。コンサートで間を置かずにアンコールまで通しでやるのはギリギリ許容できても、コンサート途中にアンコールやったら流石に変というかんじだろうか。とはいえ、亡くなった日が年末だったので初七日をきちんとやると正月にやることになるので、それはどうかということで一回だけ繰り上げて葬式当日に済ませた。そろそろ線香をあげに行こうと思っているのだけど、今週末も仕事でまだ行けていない。
冬の青天をコレットマーレの上階から見渡す。映画館の横に申し訳程度に設えたカフェの造りは郊外の寂れたフードスペースのそれだ。がらんとして誰もいない空間に、全面に内装された『ガールズ&パンツァー』の特報の音声が空虚に流れ続けている。朝からひとりで店番をしていた若い店員は、正午に同僚が出勤してから安心したようにふたりで何事かをしゃべりつづけている。15時半の集会までまだ時間がある。A24の『warfare』を朝から観て、憧れた駒込の旧邸宅の代わりに過ごしているのがこのブランク・スペースだ。緩慢な待機と絶望的な交戦のあいだに、拠点として制圧した民家の庇のホコリに手をふれる束の間さえ描かれて、この生活時間から「戦時」までの逃げ場もないように感じた。戦争反対を直に叫んでも、兵士たちが投げ込まれる指令と銃撃の網目からは逃れられそうにもない。白人でもアラブ人でもない自分は、その後ここで中上を読んでいる。
「…身の凍りつくような奈落が幾つもそばにあり、奈落があるからこそ夏芙蓉の蜜を吸いに早朝に裏山に来てえもいわれぬ声でさえずる金色の鳥の声も、夢のように消え果てる昼の現身を喜ぶようなひぐらしの声も耳にすることが出来るとは考えなかったのだった」(中上健次『千年の愉楽』「天狗の松」、河出文庫、87頁)
新横浜のデッキに出ると、広い路面が止んだばかりの雨に濡れていた。いつもの踏切を通るときに今夜は少し冴えていたので、ここの広さが大体現場と同じ広さだということと、通り過ぎる列車を映す2面のカーブミラーがあること(そのミラーでタカナシ乳業から出てくるタンク車や冷蔵車たちはギリギリの切り返しをしているのだ)に気づく。振り向いて確認しようと思ったら耳の真横で遮断器が鳴り始めてびくっとした。
妹と冗談で喋っていて、自分の生を条件づけるもの、および関心を惹くものに実は「うんこ」性があるのではないかと思いいたる。最近出ずっぱりで夜もリビングで過ごす時間が増えているせいで無造作に散らかっていく自分の部屋の洗濯物、寝床、机の上(グラス、本…)を見渡す。書き切らないと気がすまない日々の日誌/日記の文を見返す。1日に5食くらい小分けに食べて、トイレに籠る回数もそのぶん人より多い事実を受け止める。これらに通底するものを仮に排泄や消化器官といったイメージで捉えるなら、少しは見通しも立ってくるだろうか。大学時代にはオダリスク絵画の図像に惹起される童貞性(?)で自分の想像力を見つめようとしたけれどうまくいかなかった。むしろ当時の学部長が胃腸炎で入院したときに、全身が一本の管になったような感覚になったという「きたない」講義がずっと記憶に引っかかっていることを拾えばいい。ボディーソープを詰め替えて、浴槽の湯張りや洗濯機のぶくぶくした音を聴いているときに自分のなかで生じるイメージもすべて消化-排泄系に紐づいていると考えることができないか。
20260128
97.2
起きたら夕方で怖かった。こたつに入って本を読んで汗をかいたのでお風呂に入った。夕飯は春巻きを食べた。またこたつに入って本を読んで、眠たくなったから布団に入ってみる。
梅が咲いている。通勤の列車のなかで碑文谷の場所と読み方を調べる。メジロの亡骸を見た日から踏切を歩くとそこに生える芝などに生態系を感じるようになった。最近はここも路線の地下化が進む数年後には違う風景になっているんだろうと思いながら歩いている。夜には妹から期末レポートの相談を受ける。メディア情報への“遠い”共感において求められる「想像力を使う能動性」を論じた前期レポートを受けて、今回は物語への“近い”共感において生まれる「情動を受け取る姿勢」を論じたいらしい。これを受動性と言ってしまうと巨大な二項対立に呑み込まれるよねということくらいは言えるけど、かえって彼女を混乱させてしまったみたいだ。それはすでに言葉がつくる偽の対立のなかにいるから、ということなのだろうか。
20260127
96.7
神大のキャンパスで3時間かけて日誌を書いたあと、移動して関内駅で31分発の快速を待つ。目の前に落ちたペットボトルの蓋を拾って渡す。構内でATMを探したけれど浜銀のだけなかった。月1のカウンセリング・セッションで昨日のこどもたちとあそびにした「おまえののぞみをいえルーレット」(どこゆき)の話をしたら、対人援助の場ではいつも同じ手は効かないけれど、ゴールのないプロセスのなかに身を置き続けることこそが仕事なんですよね、という言葉をもらった。答えの出ない日誌はまだ土曜のものも木曜のものも残っている。
20260126
96.8
20260125
97.8
預金口座から6万下ろす。トイレで上だけ着替える。綱島駅で馴染みの中学生に会う。塾帰りだったらしい。喫茶店のマスターに膝までつかせて退店を告げられるembarrassedな事態から続く悪魔的な因果の、その行き着く先に実の妹を不審者扱いして3度の呼び鈴に居留守を使うというfrighteningな事態があった昨日。箸さえも折れ、金曜に行き損ねた生ゴミの籠に捨てる。虚淵玄や黒沢清が描くような個人ではどうしようもない「因果のうねり」のなかに堕ちる日というものがある。何気ない風にやり過ごすのだけど時はすでに遅く、安心地帯としての喫茶店や玄関が普段は蓋をしていた「無意味」がバックヤードから顔をのぞかせる。そういった魔をより強力な日常の場の力によって祓うために、今日も潔く出勤するのだった。朝の日吉駅の改札裏では崩れ落ちた少女が目の端に映る。でも、様子を見に戻ると親切な女性に介抱されていた。日能研バッグを背負う小学生たちと普通部の制服を着た中学生たちがザーッと改札からそれぞれの商通りへと出ていく。星回りはひとつではない。願掛けの場としてこの日記もある。
20260124
97.8
夕暮れのなか帰ってきて、こどもたちと三々五々にすれ違う。指がかじかんで痺れる。馴染みの喫茶店に長居して追い出されてしまった。恥ずかしい。対価としてゼミ1年分の復習を終え、(1)ふるまい/あり方、(2)介入/判断、(3)仕掛け、(4)こども観/あそび観/地域観、という4つのカテゴリーを得た。日誌を2日分残して、家には寝込んでいる妹。朝には有楽町線で人身事故、夜には赤坂で玉突き事故と不穏なニュースが続く。厄払いに炬燵机で相撲中継を観ている。
97.2
96.6