日記の続き#307

かつて松岡正剛は「読者モデル」という言葉を雑誌に限らず書籍一般に敷衍して、それぞれの本の魅力を引き受けるような読者像の側から本をプロモーションをする可能性を説いていた。又吉直樹は太宰の新しい読者モデルだっただろうし、松岡自身も折口信夫やら寺田寅彦やらの読者モデルになっているだろう。これはすでに物書きである人間が私淑する書き手を紹介するということに留まらず、たんなる読者がたんなる読者のままでなにがしかの趣味にコミットする可能性をも含んでいたはずで、つまり、「推し」なきファンダムのようなものが——卑近な例としては「ハルキスト」という言葉に表れているような——が10年20年前には普通にそこらにあったはずなのだ。

こないだ黒嵜さんと話していて、誰もがクリエイターあるいはプレイヤーだということは逆に言えば明示的にそうでない者は全員未然の「ワナビー」であるわけで、それは近頃の人文系の論調にも表れているが、それに対して福尾くんは見るだけ・読むだけの可能性を理論のレベルで示そうとしているように見えると言ってくれた。そうかもしれない。客が客でいられないというのは窮屈なことだ。

日記の続き#306

珈琲館はめずらしくひとがまばらだ。5章の冒頭を組み立てようと思ってworkflowyを開くと、去年の9月に思いつきでプロットを書いていたことに気がついた。助かるという気持ちと、4章を仕上げるのに結局3ヶ月もかかったのだという絶望とが一緒によぎった。ともかく順調に進んだのでよかった。

パラニュークの新刊と『サバイバー』を読み終わって、今度はエルヴェ・ル・テリエの『異常(アノマリー)』を読んだ。周期的にこうしてとにかくストーリーに引きずり込まれるノワールものをまとめて読みたくなる。『異常』はフランスで100万部も売れたらしく、しかもル・テリエはウリポのリーダーらしく、これは日本で言えば円城塔がセカイ系小説を書いて200万部売れるくらいの変なことだ。もっとそういうことがあってもいいと思う。とはいえ内容はあんまり面白くなかった。

日記の続き#305

妻と長い散歩をする。中華街の端っこにある小さなセレクトショップに行って、DAIRIKUのマルチカラーのジャケットを買った。形はおおよそオーソドックスなデニムジャケットと同じだが、ぱっと見密度のあるコットンのような質感の柔らかいポリエステル生地で作られていて、表情に動きを出すことでいかにも古着っぽい野暮ったさを回避している。サイドポケットが付いているのも嬉しい。最近また服を着るのが楽しくなってきた。それにしても「質感」とは変な言葉だ。最初「テクスチャー」と打って、ちょっとイージーかなと思って書き換えた。

そういえば先日のミーティングで福尾くんは文章(訳文)の読点が少なめだから、こっちで多少揃えるかもしれないと小倉さんに言われて、たしかにそうだと思った。別のひとにも何度か言われたことがある。翻訳に関しては原文に合わせていたらそうなったというところも大きいのだが、たぶん順接・逆接、あるいは列挙や言い換えといった明白な機能を託せるところにしか点を打たない傾向があるんだと思う。つまりなるべく句点に翻訳可能な読点を使いたいということだ。するとリズムや呼吸を作る負荷が語彙の側にかかる、というか、そういう負荷を自分に課すためにいつからかそういう句読法になってきたんだと思う。

日記の続き#304

久しぶりに一日中家にいた。ぼおっとしていると小倉さんからもう始まってるよとメールがあって、何かと思ったら2時から共訳書の打ち合わせだったのをすっかり忘れていた、というか、昨日リマインドがあって、今日とその「明日」を結びつけられなかったのだと思う。

4章が終わってここ2日ほど5章の書き出しをぐるぐる考えていて、「言語論的転回はまだ終わっていない」というフレーズが浮かんで、これなら書けそうだと思った。

日記の続き#303

節分。インスタグラムを開くと出所した田代まさしがどこかの櫓から豆が入った袋を投げている動画が流れてきた。ハッシュタグに「#マヤク除け」とあって、そこは「麻除け」でいいんじゃないかと思ったが、もしかしたら「魔除け」じゃなくて「厄除け」と掛けようとしたのかもしれない。しかしだとすると「ヤク除け」でいいのではないか。

日記の続き#302

年が明けた。プツプツという音が聞こえて、窓から首を伸ばすとビルの隙間から海のほうで花火が上がっているのが見えた。出版社から年賀状が3枚。こういうのが業務になっているんだと思う。あけましておめでとう。同じ年を越して、同じ新しい年を迎える。あけましておめでとう。僕はコーヒーの飲み過ぎでちょっと胃が気持ち悪いです。去年から始めたこの日記も、もう少しで終わります。背中にこわばりがあるなと思ったら、すっかりストレッチをサボっているからで、それはたんに寒くなってスリッパを脱ぐのが嫌だからだということに気がついて愕然としました。気軽にできることほど気軽にやめてしまいます。そうして日々にわざとらしく凹凸を増やしていくんだと思うとうんざりします。(2022年1月1日

日記の続き#301

イセザキモールの脇にある、1階が焼肉屋で3階がタイマッサージ屋のビルの2階に入っている三番館という喫茶店に入る。席で煙草が吸えて、コーヒーも美味しい。愛想の良い店主は最近あまり見なくなった。今日も息子らしい男が店番をしている。向かいがハリウッドというパチンコ屋で、主な客は中国人のおばちゃんと年老いたヤクザだ。テーブルが狭く席どうしが近いので長時間の作業には向かないが、日記を書いてしばらく本を読むだけだからと思って入った。いちばん奥の、片側だけ壁に遮られて見えないボックス席の見える側に老人がふたり並んで座っていて、見えない奥の方から外国語訛りの女の声が聞こえる。ヤクザと世話をしている店の店長だろう。奥から出ててきた1万円札を老人が財布に入れた。会話のトーンは穏やかだ。ルイヴィトンのカーディガンを羽織った背中を向けた老人が語彙が少ないんだからね、あんまり喋らなくていいんだよと言うと、喋りすぎなんじゃなくて考えすぎなんだともう一方の老人が言った。女が考えたことを話しているのだと言うと笑いが起こった。しばらく本を読んで顔を上げるとその3人はいなくなっていて、テーブルに空のグラスが並んでいた。結局女の姿は見えないままだった。

日記の続き#300

ここ数日頭のなかでずっとぐるぐるぐるぐる博論本の文章をいじっていて、他のことに集中することができなかった。そういうときは妻に話しかけられても、その言葉は聞こえているのだが、意味を理解するのに時間がかかる、というか、意味もわかるのだがそれに自分を関連付けるのに時間がかかる。日記もおざなりになっている。まあ4章はもういいだろう。あそこもあそこも直さなきゃいけないという気持ちと、自分はこれを書けたんだと悦に入っていたい気持ちと、5章もまたキツいぞという気持ちにいつまでも引っ張られてしまう。これまでのところ『非美学——ドゥルーズの哲学と批評』という仮題で進めてきたのだがどうにもしっくり来ていなくて、『眼を逸らさなければ書けない——ドゥルーズの非美学』のほうがいいかもしれないと思った。能力論の問題も、言語実践としての哲学の問題も、非−接地としての芸術学の問題もこれだと串刺しにできる。『眼がスクリーンになるとき』から「眼」が繋がっているし、この本が出た直後に『新潮』に書いた「見て、書くことの読点について」というエッセイとも繋がっている(これは昔作ったはてなブログのサイトに再掲している)。気になるのは千葉さんの『動きすぎてはいけない』に似ている(そのわりに本書のように引用ではない)ことで、『動きす』も重要な参照先だからいいのかなとも思うが、勝手に引き継ぐ感じになっても悪い(というか、過剰に「陣営」として見るひとが出てきそうで面倒)かなとも思う。ともかくたいてい企画でもタイトルでも文章のテーマでも、何かを決めるときはだいたい5個くらいの理由が揃ったときだ。日記が続いているのは始める理由が10個くらいあったからだと思う。そのつど捨てたり拾ったりしているが。