6月11日(ニーチェ孫引き)

空気にまとわりつくような雨で、洗濯物がたくさんたまっていたので、2回に分けて洗濯する。長い昼寝をした。デリダの講義録、『生死』を読んだが、こんな日でもなければゆっくり読む気にもなれないくらい陰気な本だ。それにしても哲学者はなぜ自伝ばかり書くのだろうか。ニーチェ『この人を見よ』からの孫引き。

「きょう私は私の四十四回目の一年を葬ったが(begrub)、それはけっして徒労ではなかったのだ。それはもう葬られてもかまわなかったのだから[強調されています:ich durfte es begraben:私はそれを埋葬する権利があった]——この一年のうちで[四十四回目の年において]生命(Leben)であったものは、救い出され(gerettet)、ist unsterblich、不死になっている。Unwertung aller Werte〔一切の価値の価値転換〕の第一書、ツァラトゥストラのLieder〔歌〕、『偶像の黄昏』、鉄槌【ルビ:ハンマー】で哲学する私の試み——これらはみなこの一年に、しかもこの一年の最後の三か月の間にでき上がった贈り物なのだ! どうして私は私の全生涯に感謝せずにおられようか[強調されています:Wie sollte ich nicht mainen ganzen Leben dankbar sein]?——そして、だからこそ、私は私自身に私の生涯を語り聞かせようとしているのである[私は私に私の生を物語る、復誦する:Und so erzähle ich mir nein Leben]。」

併記されている原語はドイツ語で、[角括弧]はデリダによる補足、〔亀甲括弧〕は日本語訳者による補足だ。邦訳書の傍点をここでは太字に置き換えている。こういうものを読むというのはどういうことなのだろうと思う。僕はドイツ語ができないが、こういう場合はほとんど読めると言っていいくらいに読める。しかしそんな紙の船みたいなリテラシーがその軽さによってもっていたような価値がなんなのか、なんだったのか、僕自身わからなくなりつつある。

この講義は1975年になされたもので、ドゥルーズ&ガタリが『カフカ』を出し、フーコーが『監獄の誕生』を出した年だ。生きることと書くことのもつれた関係についての3つの解答が出揃った年とも言える。

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カテゴリー: 日記