フィロショピーの講義のためにオースティン『言語と行為』を読み返していて、オースティンがどんどんかわいそうに思えてくる。彼自身はパフォーマティブとコンスタティブを区別することはできないと言っているのにその区別に執着した頭でっかちだと思われがちだし、日常言語に沈潜してあらゆる用例を分類するというスタンスは日常言語の放埒さに裏切られて、結局は言語の発展史観を外から当てがって「寄生的用法」を排除せざるをえなくなり、事務書類や行政文書、初歩的な文法書のなかにしか存在しないような四角張った言葉しか扱えなくなっていく。これほど盛大に失敗が記録されている哲学書もなかなかない。だからこそパフォーマティブという言葉には含蓄、というより隙が生まれて、デリダやらバトラーやらがいろいろつつけるようになるのだが。それも含めていい本だし、概念には概念の歴史と鬱屈と死角があるという話で、でもそれがほとんど省みられないということも事実で、やはりかわいそうだなと思う。
月: 2025年12月
12月14日
ここのところ3回続けてシットとシッポの収録が公開前日の日曜日になっている。事務所の前の道で、僕の前を父親から借りたらしい黒のボンバージャケットを羽織った5歳くらいの女の子が歩いている。裾が膝の下まで届いてワンピースみたいで、隣の父親はグレーのスウェットシャツを着てポケットに手を入れている。ダッドシューズよりずっといいなと思う。ボーイフレンドデニムという言葉もあった気がする。他者との関係を着ること。そういうものかもしれない。
12月13日
荘子くんに誘われて品品団地のイベントを聴きに行く。10時間ぶっ通しのトークイベントらしい。上野まで上野東京ラインで、上野から常磐線でだいぶ早めに北千住に着いて、西口の歩道橋の喫煙所で一服する。どこかで作業をしようと商店街を抜けて喫茶店に入る。おばちゃんがおばちゃんのためにやっているタイプの店で、カウンターに通される。コーヒーにお通しみたいに小さなゼリーと羊羹がついてくる。花が飾られて、棚にカップがたくさん並んでいる。隣にやってきたおばちゃんがこのゼリーはゆず味かと聞いて、グレープフルーツだと言われていた。日記を書いているとそのおばちゃんの声で「麻原彰晃」という名が発せられて手を止める。スマホを店主に見せながら、麻原がいた拘置所まで歩いて行ったのだと写真を見せている。アルバムをスワイプしてこんどは、尾崎豊が死んだ場所の近くにある私設の記念館のようなところに行った話をして、歩かないとダメだからねえ、こういうの「ツーリズム」って言うのよと言った。「ダーク」が抜けているのかなんなのかわからないがびっくりした。
10時間のうち7時間ほどが過ぎたところで会場に入ると200人くらいぎっしりお客さんが入っていて、荘子くんはもともとゲストとして呼ばれていたので壇上で喋っていた。番組ではいつもオフの状態で喋っているので、彼が客前で喋るのを聴くのは新鮮な感じがした。Titanさんに呼ばれて僕も最後の2時間ほど登壇させてもらって、魚豊さんと佐伯ポインティさんと話した。ずっとどこかで「ツーリズム」の話をしてやろうと思っていたが、そういうタイミングはなかった。つるっとした状況論よりこういう変な手触りのある現実から始めたくなってしまう。例外もあるということでなく、現実に転がっているのはだいたいそういうものと思う。
12月12日
20世紀の本が読みたくなって、レヴィ゠ストロースの『野生の思考』を本棚から引っ張り出す。訳者あとがきに野生の思考(la pensée sauvage)というタイトルは野生のパンジー(la pensée sauvage)のダブルミーニングになっていると書いてあってびっくりした。なんでこれまで気づかなかったんだろう。堂々とパンジーの絵が表紙で、その脇にPenséeと書いてあるのに。このタイトルに組み込まれた自然と文化、野蛮と文明のキアスムだけで、ある意味この本の主張と方法が一挙にわかると言ってもいいくらいで、スマートだなと思う。『アーギュメンツ#3』に載った山内朋樹さんの「なぜ、なにもないのではなく、パンジーがあるのか」という論考は、復興期の福島県浪江町の駅前に並ぶパンジーが植えられたプランターを見て、なぜここにこうして花を植えるのかという問いに撃たれて書かれたものだった。動機としては僕の「左手のない猿」に似ているかもしれない。野生ではない荒野のパンジー=思考。
12月11日
寝るときに飲んでいるデエビゴという薬が切れたが、病院に行くのが面倒なのでここのところ薬を飲まずに寝ている。眠りにつくまで1時間以上かかり、そうだこんなふうだったと思う。次から次へといろいろ思いつき、道を誤るとかえって目が冴えてしまう。なので、頭の中を沸き立つ思いつきを圧縮して、その沸き立ちのイメージを蒸気にして夢に溶け出させるような操作が必要になる。
日記を書いていないあいだもいろいろなことがあった。
丸亀製麺で、前に座ったおじいさんが着ているジャンパーの腰のところに丸い模様があり、それが、空調服のファンを取り外したところだと気づいた。C.P.カンパニーのフードに着いたゴーグルみたいに無為でかっこいい。夏に室内で、電源を切ったファンの重みでナイロンのドレープができているのもかっこいい。
妻とやよい軒に行って、彼女はチゲ鍋を食べていて、外に出ると口についてない?と聞かれたので、唇にチゲ鍋が乗ってるよ、RMKの新色か?と言った。
講談社で対談の動画を撮影して、最後のほうにAIの話になって、それなりにいろいろ話せたのだが、帰り道、執念の話もすればよかったなと思った。AIも置き配を切り口に現代を総体として語るというくらいのひらめきは得られるかもしれないが、それを数年間頭のなかで転がしながら、そこにいろんなものが巻きついてくるのを待っていることはできないだろう。
12月2日
『置き配的』が出て10日ほど、告知、エゴサ、告知、エゴサの日々でだいぶフォームを崩してしまっていたが、走ったりゆっくり本を読んだり、昨日は「日記哲学草稿」の初回も書いたし、持ちなおしてきた。こないだのシットとシッポの収録で今週何してた?と聞かれ、ずっとエゴサしてたねと言って、その瞬間から楽になった。こういうことが言えるんだと思った。「自立とは依存先を増やすこと」という言葉もあるが、自己開示の形式をいくつか持っておくのも大事だと思う。この日記に書きやすいこともあれば、ポッドキャストで話しやすいこともあり、友達との長電話でしか出てこないこともある。どれもどこか演技めいてはいるが、どれも嘘ではない。
日記哲学草稿#1
どうも。福尾です。先日新刊『置き配的』が出まして、次は何を書こうかなと思い、日記について考えていることを書くことにしました。2021年に書き始めた僕の日記はこのサイトでずっと公開してきたので、この文章もここですべて公開しながら書いていきます。タイトルはとりあえず「日記哲学草稿」にします。『論理哲学論考』みたいで愉快かなと思って。ゆくゆくは本になるといいなと思いますが、まだ版元も何も決まっていません。1日1500字のペースで書けば3ヶ月で1冊ぶんにはなりそうですが、そんな書き方はしたことがないのでうまくいくかはぜんぜんわかりません。このサイトでは日記も引き続き書いていくつもりで、日記と日記についての文章が互い違いに公開されていくことになると思います。やってみないとわからないですが、まあ気楽に楽しんでいただけると。僕もなるべく気楽にやります。
定義
日記とは何か。なるべく大ざっぱに定義しておくと、それは〈日付で区切って自身の経験について書いた文章〉ということになるでしょう。
2021年12月17日
家にいるときは日が暮れるにしたがって体が冷えてくる。それは気温とはあまり関係がなく、体が今日は出かけたりしないんだと知って勝手にギアを落とすような感じで、そこで昼寝をするのが気持ちいいのだが……
みたいな感じで。しかしこれはいったい何なのでしょうか。こんなものを書いて何になるというのか。
しかも日記は、少なくとも書き始める動機としては、継続的に書くことを想定するものでしょう。それが結局は三日坊主で終わったとしても、あらかじめ三日でやめるつもりで日記を書き始めるひとはなかなかいないと思います。するとさっき引用したような、情報としては書き手本人にとってすら価値があるのかわからないようなことを、えんえん毎日書いていくわけで、「これはいったい何なのか、こんなものを書いて何になるのか」という問いはなおさら深まります。
もちろん日によっては、誰々の誕生日だったとか、職場のことで悩んでいるとか、新しい企画のアイデアを思いついたとか、そういう、記録するに足る(感じがしやすい)ことについて書くこともあるでしょう。しかし、毎日書くということを考えれば、日々というのは基本的に代わり映えのないものであり、とりたてて何もなかったなと思いながら日記帳の空白に向かい合う日のほうがずっと多いはずです。だとするなら、日記を書き続けるということは「とりたてて何もない」ということに向き合うことでもあるはずです。そして日記を書き続けられるひとは、「とりたてて何もない」ということに向き合うのが上手なひとであり、もっと言えば、それを楽しむことができるひとなのではないか。
日記の奇妙さを浮かび上がらせるために、いったん「日記」と「日誌」とを対比して考えてみましょう。日記が〈日付で区切って自身の経験について書いた文章〉であるのに対して、日誌とは〈日付で区切って、自身の経験について特定の項目にしたがって書いた文章〉であると定義することにします。これは一般的な定義というより、話を進めやすくするための仮説的な定義だと思ってください。
日誌に記される項目は、その日の天気、起床時間、体重、勉強時間等々の、日々の推移を記録しておきたいものであるでしょう。日誌の利点は、自分の生活のなかの特定の物事を、項目に分けることでトレースしやすくなることにあります。言い換えれば日誌には、あらかじめ書くべきことが決まっているという特徴がある。それに対して日記は何を書くべきかがあらかじめ決まっていない。何を書くかは、その日に問いかけてみないとわからないのです。今日はどんな日だった?
もちろん日誌と日記の区別はあくまで概念的なものであり、日記のなかに日誌的な要素が含まれることもありますし、日誌の一口メモの欄がそのまま日記になる場合もあると思います。
日記とは〈日付で区切って自身の経験について書いた文章〉である。ここまでこの定義からだいたい3つの特徴が浮かび上がってきました。
- 日記は継続して書かれること(少なくともそのように想定して書かれること)。
- 日記は「とりたてて何もない」日にも書かれること。
- 日誌とは異なり、日記に書くべきことはあらかじめ決まっていないこと。
この3つの特徴は、相互に密接に連環しています。継続して書かれるからこそ「とりたてて何もない」日が出てきますし、日誌のように項目が決まっていないからこそその何もなさに向き合わざるをえなくなる。
たぶん、これまで世界で書き始められた日記をすべて集められたとして、そのうちでひと月以上続いたものは全体の1割に満たないのではないかと僕は考えます。どうして日記は続かないのでしょうか。そこには日々の「取り立ててなにもなさ」が強く関わっているのではないか。
日記を始めたときの「これから毎日、忙しない日々のなかで1日5分でも自分と向き合う時間を作るんだ」とか、「これから毎日、日々のささやかだけど嬉しかったことを書き留めるんだ」といったフレッシュなモチベーションは、やすやすと裏切られてしまいがちです。3日目くらいまではいいかもしれない。でも4日、1週間と続けるうちにわれわれが否応なくぶつかる壁が、たいていの日は「とりたてて何もない」というどうしようもない事実です。
しかし視点を変えれば、何もないと感じてしまうのは、われわれが日記に書くべき「何か」を、あらかじめ固定してしまっているから、つまり、いつのまにか日記を日誌的に書こうとしまっているからではないでしょうか。それは体重の増減のような明白に日誌的なデータではないかもしれませんが、その日思いついたこととか、読んだ本の感想とか、あるいは「自分らしい書き方」のようなぼんやりしたことでも、なんであれそのような切り出し方を決めたうえで日記を続けようと思った瞬間に、いつのまにか日記は日誌にすり替わり、「とりたてて何もない」ということが自分にとってネガティブな条件として立ちはだかってくる。
このような罠は日記を書いていくなかでつねにどこかに伏在しています。というのも、自分で自分に課している「縛り」に気づくのはとても難しいことだからです。しかしこうした縛りから(ときにはそもそも縛りがあったこともそこから抜け出したことも気づかないようなしかたで)抜け出させてくれるのはまさに、とりたてて何もない日々から出来事を掬い出して書き続けることだと僕は考えています。この、日記のポジティブな条件としての、「とりたてて何もない」ということを、「イベントレスネス」と名付けることにしましょう。