フィロショピーの講義のためにオースティン『言語と行為』を読み返していて、オースティンがどんどんかわいそうに思えてくる。彼自身はパフォーマティブとコンスタティブを区別することはできないと言っているのにその区別に執着した頭でっかちだと思われがちだし、日常言語に沈潜してあらゆる用例を分類するというスタンスは日常言語の放埒さに裏切られて、結局は言語の発展史観を外から当てがって「寄生的用法」を排除せざるをえなくなり、事務書類や行政文書、初歩的な文法書のなかにしか存在しないような四角張った言葉しか扱えなくなっていく。これほど盛大に失敗が記録されている哲学書もなかなかない。だからこそパフォーマティブという言葉には含蓄、というより隙が生まれて、デリダやらバトラーやらがいろいろつつけるようになるのだが。それも含めていい本だし、概念には概念の歴史と鬱屈と死角があるという話で、でもそれがほとんど省みられないということも事実で、やはりかわいそうだなと思う。