日記哲学草稿#1

どうも。福尾です。先日新刊『置き配的』が出まして、次は何を書こうかなと思い、日記について考えていることを書くことにしました。2021年に書き始めた僕の日記はこのサイトでずっと公開してきたので、この文章もここですべて公開しながら書いていきます。タイトルはとりあえず「日記哲学草稿」にします。『論理哲学論考』みたいで愉快かなと思って。ゆくゆくは本になるといいなと思いますが、まだ版元も何も決まっていません。1日1500字のペースで書けば3ヶ月で1冊ぶんにはなりそうですが、そんな書き方はしたことがないのでうまくいくかはぜんぜんわかりません。このサイトでは日記も引き続き書いていくつもりで、日記と日記についての文章が互い違いに公開されていくことになると思います。やってみないとわからないですが、まあ気楽に楽しんでいただけると。僕もなるべく気楽にやります。

定義

日記とは何か。なるべく大ざっぱに定義しておくと、それは〈日付で区切って自身の経験について書いた文章〉ということになるでしょう。

2021年12月17日
家にいるときは日が暮れるにしたがって体が冷えてくる。それは気温とはあまり関係がなく、体が今日は出かけたりしないんだと知って勝手にギアを落とすような感じで、そこで昼寝をするのが気持ちいいのだが……

みたいな感じで。しかしこれはいったい何なのでしょうか。こんなものを書いて何になるというのか。

しかも日記は、少なくとも書き始める動機としては、継続的に書くことを想定するものでしょう。それが結局は三日坊主で終わったとしても、あらかじめ三日でやめるつもりで日記を書き始めるひとはなかなかいないと思います。するとさっき引用したような、情報としては書き手本人にとってすら価値があるのかわからないようなことを、えんえん毎日書いていくわけで、「これはいったい何なのか、こんなものを書いて何になるのか」という問いはなおさら深まります。

もちろん日によっては、誰々の誕生日だったとか、職場のことで悩んでいるとか、新しい企画のアイデアを思いついたとか、そういう、記録するに足る(感じがしやすい)ことについて書くこともあるでしょう。しかし、毎日書くということを考えれば、日々というのは基本的に代わり映えのないものであり、とりたてて何もなかったなと思いながら日記帳の空白に向かい合う日のほうがずっと多いはずです。だとするなら、日記を書き続けるということは「とりたてて何もない」ということに向き合うことでもあるはずです。そして日記を書き続けられるひとは、「とりたてて何もない」ということに向き合うのが上手なひとであり、もっと言えば、それを楽しむことができるひとなのではないか。

日記の奇妙さを浮かび上がらせるために、いったん「日記」と「日誌」とを対比して考えてみましょう。日記が〈日付で区切って自身の経験について書いた文章〉であるのに対して、日誌とは〈日付で区切って、自身の経験について特定の項目にしたがって書いた文章〉であると定義することにします。これは一般的な定義というより、話を進めやすくするための仮説的な定義だと思ってください。

日誌に記される項目は、その日の天気、起床時間、体重、勉強時間等々の、日々の推移を記録しておきたいものであるでしょう。日誌の利点は、自分の生活のなかの特定の物事を、項目に分けることでトレースしやすくなることにあります。言い換えれば日誌には、あらかじめ書くべきことが決まっているという特徴がある。それに対して日記は何を書くべきかがあらかじめ決まっていない。何を書くかは、その日に問いかけてみないとわからないのです。今日はどんな日だった?

もちろん日誌と日記の区別はあくまで概念的なものであり、日記のなかに日誌的な要素が含まれることもありますし、日誌の一口メモの欄がそのまま日記になる場合もあると思います。

日記とは〈日付で区切って自身の経験について書いた文章〉である。ここまでこの定義からだいたい3つの特徴が浮かび上がってきました。

  1. 日記は継続して書かれること(少なくともそのように想定して書かれること)。
  2. 日記は「とりたてて何もない」日にも書かれること。
  3. 日誌とは異なり、日記に書くべきことはあらかじめ決まっていないこと。

この3つの特徴は、相互に密接に連環しています。継続して書かれるからこそ「とりたてて何もない」日が出てきますし、日誌のように項目が決まっていないからこそその何もなさに向き合わざるをえなくなる。

たぶん、これまで世界で書き始められた日記をすべて集められたとして、そのうちでひと月以上続いたものは全体の1割に満たないのではないかと僕は考えます。どうして日記は続かないのでしょうか。そこには日々の「取り立ててなにもなさ」が強く関わっているのではないか。

日記を始めたときの「これから毎日、忙しない日々のなかで1日5分でも自分と向き合う時間を作るんだ」とか、「これから毎日、日々のささやかだけど嬉しかったことを書き留めるんだ」といったフレッシュなモチベーションは、やすやすと裏切られてしまいがちです。3日目くらいまではいいかもしれない。でも4日、1週間と続けるうちにわれわれが否応なくぶつかる壁が、たいていの日は「とりたてて何もない」というどうしようもない事実です。

しかし視点を変えれば、何もないと感じてしまうのは、われわれが日記に書くべき「何か」を、あらかじめ固定してしまっているから、つまり、いつのまにか日記を日誌的に書こうとしまっているからではないでしょうか。それは体重の増減のような明白に日誌的なデータではないかもしれませんが、その日思いついたこととか、読んだ本の感想とか、あるいは「自分らしい書き方」のようなぼんやりしたことでも、なんであれそのような切り出し方を決めたうえで日記を続けようと思った瞬間に、いつのまにか日記は日誌にすり替わり、「とりたてて何もない」ということが自分にとってネガティブな条件として立ちはだかってくる。

このような罠は日記を書いていくなかでつねにどこかに伏在しています。というのも、自分で自分に課している「縛り」に気づくのはとても難しいことだからです。しかしこうした縛りから(ときにはそもそも縛りがあったこともそこから抜け出したことも気づかないようなしかたで)抜け出させてくれるのはまさに、とりたてて何もない日々から出来事を掬い出して書き続けることだと僕は考えています。この、日記のポジティブな条件としての、「とりたてて何もない」ということを、「イベントレスネス」と名付けることにしましょう。

11月25日

最近あらゆるレシピがツイッターでバズっている長谷川あかりのレシピを、妻も最近いくつか作ってくれていて、どれもおいしいので、僕も作ってみることにした。たっぷりの炒めた白菜と、水と生クリームと塩だけで作るスープ。これもおいしい。ツイッターではレシピに対して、「あかり、信じるからな」と言って作っている途中の写真を貼るのが流行っている。どうして料理をそんなに不可逆的なものだと思うんだろうとも思うが、ちょっとできあがりを想像しにくい食材の組み合わせも多いし、工程があまりにスカスカに感じられるので、いちどきりの跳躍みたいに感じられるのもわかる。あっという間にリュウジが完全に相対化された感がある。ただ長谷川あかりは企業とコラボして調味料を作ったりはできないだろう。食材の「つなぎ」みたいなものがないのが特徴だから。コンビニ弁当はどうだろう。作って食べることも含めての驚きが強いからこれもどうか。

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11月24日

日仏学院で國分功一郎さんと対談。ドゥルーズの『アベセデール』上映とセットの企画。『アベセデール』はどんな入門書よりドゥルーズ入門にいいと思うのだが、品切れで高騰しており、再販の目処もいまのところ立っていないらしい。國分さんとは9年前にいちどちらっと挨拶したきりで、当時は僕もただの修士の学生だったし、ちゃんと話すのは初めてだったので噛み合うかちょっと不安もあったが、蓋を開けてみればすごく楽に話すことができた。いろいろ準備してきてくださっていて、僕のことばかり喋ってもいいのかなとも思ったが、國分さんはこの上映企画で話すのも3回目だしまあ乗ったほうがいいかと思って『非美学』のこと、『置き配的』のこと、哲学と批評のこと、日記のこと、フィロショピーのこと、それらが自分のなかでどう繋がっているか話した。ひとを緊張させないというのはすごいことだ。ここ最近のトークでいちばんのびのび話せた。とくに「本」というかたちで哲学をすることの難しさと大事さについての話が面白かった。巷間言われるアカデミック・ライティングも結局は人文学が論文の世界になるという英米の傾向の延長だし、アカデミック・ライティングで論文集以上の、本というかたちでしかできないことはできない。國分さんも千葉さんも僕もそれぞれ毛色はぜんぜん違うが、本という単位でしか作れないものを作っているという点では同じで、そういう「ぜんぜん違う」ということが自ずと出てくるのが本の面白いところだと思う。

夜、間に合いそうになかったので、帰り道にベローチェに寄って那須川天心と井上拓真のボクシングを見た。天心が初めて負けた。初めて負けたのに、初めてじゃないみたいに正面から負けを受け入れていた。すごいことだと思う。

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11月23日

高市首相がサミットに参加する服を選ぶことについて、「マウントを取れる服」と言ったことがツイッターで叩かれていて、複雑な気持ちになる。結局地方のたたき上げの女性が首相になるということはこういうことなのだろうか。「マウント」という言葉の微妙な今っぽさにも、若い頃からこの微妙な今っぽさが最適であるような環境で生きてきたのかもしれないと思う。それがやっと首相になる頃には現実と乖離してしまっていることの悲しさを思う。

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11月21日

朝まで大和田さんと黒嵜さんと通話していて、起きたら昼だった。大和田さんが、子供が生まれて生活のなかで作品に関係のないものができたと言っていて、そういうことが起こるのかと思った。彼は子供自身にも、仲良いけど、誰とでも仲良くなれるんだよなと思うと言っていた。自分がいないと死ぬけど、それは「儚さ」ではなくて、そういうこととはべつに子供は子供で自立している。そういう関係のなさはたしかにありそうだと思う。

夜、フィロショピーのエッセイ講座。それっぽいテーマの罠と2000字の壁について話す。800−1000字であれば末尾に問いを反語的に投げかければやり過ごせるが、2000字になるとその問いを転がすという作業が必要になってくる。ふたつのスケールは構造的に違う。その壁をどう越えるか。文体面だけで言っても、800字程度であればそれっぽい体言止めや主語の省略といったセンテンス単位の雰囲気作りが通用するかもしれないが、それで2000字書くのはモデル歩きで富士山に登るようなものだ。

最後に、これから最終課題を書くわけだが、「これっきり」と思って書かないでほしいと話した。「いまの自分はこれ」と切り離すこと自体が練習だし、書くということは書き続けることだから。次回は「ひとりの人間であること」の使い方の話をしようかな。

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11月15−18日

15日の土曜の夜、ランニングのあとに胃が引きつる感覚があり、そういうことは運動後によくあるのでそのまま風呂に入って寝ようとしたが、なかなか眠れず、静かに胃に引っ張られるようにすたすたとトイレに行き吐いた。なんだか現実味がなく、まだウイルス性胃腸炎だとは信じられず疲労による胃けいれんのようなものだろうと思ったが、いちおう居間のカーペットの上に毛布を敷いて妻と離れて寝ることにする。結局吐いたのはその一度きりだったのだが、しばらくすると腹痛もないままこれも静かにお腹を下し、朝までトイレと床を往復する。起きてきた妻に説明し、日曜は一日ベッドに寝させてもらい、こんどは彼女が居間に布団を敷いて寝る。お腹の症状はひと晩で収まったが熱が出てきて、一時は39度を超えた。月曜にようやく病院に行ったときには治りかけていたが、いちおうコロナとインフルエンザの検査を兼ねて受診する。小さな病院の1台ぶんの駐車場がパテーションで区切られ、そのなかのスツールに座っていると受付、看護師、医者がかわるがわるやってくる。こちらがホストになったようだ。室外なのに体が火照って汗が止まらないのでダウンベストを脱ぐ。医者は立ったまま、検査も陰性だしコロナやインフルなら喉に症状が出る、ノロだろうと言って去った。向かいの小さな薬局では、白衣も着ていないおじさんがカウンターに座り客に知り合いの家の裏山の孟宗竹を刈ることを頼まれたが、刈ってどうするのかという話をしている。そのおじさんからカロナールと整腸剤をもらう。

今朝、つまり19日の水曜の朝、ベランダに煙草を吸いに出て、自分がいま本当に空っぽであることに気がついた。『置き配的』が出て、憑き物が落ちたのだろう。それにしても奇妙な浮遊感のある胃腸炎だった。これから何をしようと思ったが、何もわからなかった。

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11月14日

朝、『置き配的』の見本が10冊届いて、2冊持ってシットとシッポの収録に向かった。1冊は事務所に差し上げる。荘子くんにはあらかじめ献本が届くようにしていたので、もう1冊は見ながら喋るため。

夜、エッセイ講座の面談。たぶん50代の、会社の役員をやっていたが退職し美大の院に通って美術批評を学んでいる方で、提案されたプランにぎこちないところがあったので話を聴いていくと、美術はリベラルなのが当たり前な世界で、働いていたときはそんなひとは稀だったので戸惑いを感じているという話が出てきて、それですよ、そういうのがいいんすよ、それも含めて書けば絶対良いエッセイになりますと言った。書きたいというピュアな動機に触れて、そしてそれに報いることができている感じがして感動した。いつでも書くべきものは自分が思っているよりずっと「手前」にある。

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11月12日

もう酉の市の季節で、家が会場のど真ん中にあるので、混み始める前に家を出る。なぜ毎年こんな半端な日程なのかわからないが、酉の市というからには「酉」が関係しているのだろう。昨日までなかった出店が家の前の道に並んでおり、まだ昼過ぎなのにもうひとが集まり始めている。東京にはもういない感じの若者たち。涙袋もない。ワイドパンツもない。ベローチェで仕事終わりの妻と合流し、祭りが終わる頃まで時間を潰そうと話す。目の前の席の背中を向けた男が、スーツに裸足でビルケンシュトックのサンダルを履いていた。片方を脱いで足をもう片方の足首に引っかけてスマホゲームをしている。帰り道はまだ出店が閉じたばかりでひとが残っており、家の前の混雑を妻の手を握って抜ける。アパートのエントランスまで溜まり場になっている。もうこの街に住んで9年だ。夜中に窓を開けるともう出店はなかった。

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11月11日

Suicaのペンギンが来年でいなくなるというニュースが流れてきて、妻がグッズを買うくらい好きだったのですぐLINEでリンクを送った。さっきまた、ペンギンの「卒業」にはJRの今後の事業戦略が象徴的に表れているという考察が流れてきてなるほどなと思った。要するに交通という身近なサービスの顔としてこれまでペンギンがいたのだが、これからSuicaはPayPayや楽天を相手取るような金融の世界に舵を切っていくようで、そのときキャラという存在はいわば人格的過ぎるということなのだろう。もっと抽象化すれば、キャラの世界とロゴの世界のあいだで綱引きがなされていて、Suicaは後者に路線を変えるということなのだと思う。顔の見えるサービスからインフラへ、商品から金融へ、身近さから信頼へ。コンビニでもどこでもキャラのいない場所はないが、今後キャラというものは、ある種の貧しさの象徴となっていくのだろう。ちいかわがそのいい例だ。200円で1ポイントみたいなペラペラの余剰価値の、その薄さに滑り込む、眼差しなき顔。

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11月10日

井上拓真と那須川天心の試合に向けたドキュメンタリーをYouTubeで見る。拓真は良くも悪くも、井上尚弥との距離を愚直に生きていて、その弱さも隠していない。それに対して天心は、冒頭からジムのベランダで手にトンボが止まって、「最近虫が警戒しないんすよ」と言っており、作ろうとしている世界のスケールが違うなと思った。会見でもこれはボクシングそのものとの闘いなのだと言っていた。こんなスポーツの頂点で、キックボクシング時代から全53戦無敗というキャリアを賭けて、それでもこうしてプロレスができるなんてと驚愕する。でもたぶんそれは、それが拓真の弱みであることも折り込んだうえでなされているのだろう。

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