日記の続き#185

起きて、棒状のレーズンパンをふたつ口に入れて、しばらくだらだらして日記を書いて、外に出た。イセザキモールを歩いて久しぶりにマクドナルドに入って、ダブルチーズバーガーとポテトとコーラのセットを食べた。しょっぱさの濃淡だけがある。あとは炭酸。よくできた食事だ。カルディでコーヒー豆を買って有隣堂でノートを買ってコメダで本を読んだ。急にぐるぐるとお腹の調子が悪くなってきてトイレに行った。すぐトイレに行ける場所でよかった——やはりマックは特別なのだ——それにしてもコロナにかこつけて多くのコンビニはトイレを貸さなくなった——かなり重要なはずのインフラが不意に取り上げられたわけで、その意味するところは——それにしてもまた副交感神経が壊れてしまいそうなくらい熱い便座の季節がやってきた——などと考えながら手を洗って喫煙ブースに入った。「社長」と呼ばれるくたびれた背の低いおじさんと、「マネージャー」と呼ばれる、割れた氷のような奇妙なエイジングを施されたジーンズを履いた細身のおじさんが話している。悪いことっていろいろあるんだよ、いつも言ってるでしょ、とマネージャーが言った。でも困っている人がいたら助けるとか…… と言って社長は黙ってしまった。社長は誰かに騙されて、マネージャーは訳知りにそれはありふれたことで、気をつけるべきだったのだと諭しているようだった。彼は昔は不動産取引も今みたいに銀行を挟まず現金でやったし、それは向こうにも後ろ暗いところがあるからだし、そういうところに盗みに入っても向こうも何も言えなかったのだとか、そういう話をした。俺は知ってるよ、社長にもいつも言ってるでしょ。社長は悪い人がそんなにまっすぐに悪いことをするのが信じられないようだった。(2021年10月28日

日記の続き#184

休日。昼はどん兵衛といなり寿司を買って食べて、夜は豆乳鍋の素を買って鍋にして、それにパルミジャーノを削って入れてリゾットにして食べた。どれも美味しかった。休みの日の昼にどん兵衛といなり寿司を食べると休みの日の昼という感じがする。というか、僕は水曜以外はぜんぶ休日と言えば休日なのだが、妻が休みだと休みの日だという感じがする。

妻と話しているとどうでもいい嘘ばかりついてしまう。「伊東家の食卓」は今もネット番組として続いていて孫役で鈴木福が出ているとか、子供のときの弁当には何が入っていたかと聞かれたら、実家が鰻屋なので毎日肝吸いでそれが嫌だったとか。これは爪を噛む癖がある人がいたり、あるいはビートたけしのチックみたいな、そういうものだと思う。出口で冗談になるようにしているが、たんなる嘘だ。

日記の続き#183

ウェイトトレーニングのケミカルな疲労のあとの煙草がすごく美味しい。こないだはグリコーゲンが切れたのかすぐコーラが飲みたくなったので、今回は水ではなくポカリを飲みながらやったらマシになった気がした。専用のアプリでトレーニングの記録を取り始めて、その日の総重量を見ると、4.7トンと出て入力間違いかと思ったが50キロ10回を3セットやればそれだけで1.5トンになるのだ。自分の生活にトンという単位が入ってくるとは。

YouTubeで見た柔術のジムをやっている人の一日を撮った動画で、生徒がブリッジのドリルをしているショットにジムに放されたパグが仰向けになって床に背中を擦りつけているショットが繋がれて、その不意に映画的なモンタージュに妙に感動してしまった。自分で場所を作るなら動物がいる場所がいいなと思った。

日記の続き#182

京都で非常勤の日。あいかわらずひかりに乗って、20分のロスと引き換えに空いた車内に座っている。往復だと40分移動が増えるが、べつにその40分で車内でできないことを何かできるわけでもない。2回喫煙ブースに行って、1回トイレに行く。これもいつも通りだ。バス停にはホームレスのおばさんがいつもどおりの位置に立ち尽くしていて、しかし夏休みぶりに見ると髪が坊主頭になっていた。バス停の喫煙所にはひとりで喋り続けているおじいさんがいて、とにかくいろんな偉い人が身内なのだという話をしていた。安倍も小池知事もそうやし、みずほ銀行があるやろ、あそこらへんは東大も早稲田も慶応も、と名詞が横滑りし続けていて、そのうちどれかがときおり「身内」に引き入れられていたが、その枠組みは決まって自分は関西の人間だが東京にコネがあるということだった。つまり関西と東京という区分けのもとで、あらゆる名前がひとしなみに物語化されるのだ。テレビの悪影響とはこういうことを言うのだろう。僕が煙草を吸い終わる頃には水卜アナウンサーの話になって、みんなミトちゃんって言うけどミウラなんやと繰り返し言っていて、その知識が彼の、関ヶ原の向こうのエルドラド的身内世界を支えているようだった。4限で修士の、5限で博士の学生の研究発表にコメントしてバスで京都駅に戻る。さっきまでピンク色だった西の空が黄色く霞んでいて、長いローソンの隣に短いレンタカー屋があった。空が黄色くて、長いローソンの隣に短いレンタカー屋がある。不意にとても寂しい気持ちになった。

日記の続き#181

トレーニングは多関節運動をなるべくたくさんやって、1回で全身を鍛えるようにしている。ストレッチをして30分ほど走って、フリーウェイトの区画に行く。セットのあいだの休憩は3−5分取るのがいいらしいのだが、そのあいだすることがないのでどんどんやってしまう。たしかに周りを見ると、座ってスマホを見て、ときおり思い出したようにトレーニングに取りかかる人が多い。サウナみたいだ。しっかり休みながら3セットずつで種目を変えていると、これはいつまでもできるんじゃないかと思うが、6種目くらいでいつも不意にもう終わっていて、これ以上はできないことに気がつく。陸上にせよサッカーにせよ、疲労はいつも息切れを伴っていたのでこの出し抜けの、呼吸は生きているのにエネルギーだけが枯渇している疲労感は不思議だ。帰り道に体を引きずって自販機で缶のコーラを買って飲んでやっと生き返る。トレーニング中にサプリを飲む人がいるのもむべなるかなという感じがする。

日記の続き#180

まいばすけっとに入るとカートを押しながらおばあさんが大声で「まいばすけっと売れない商店街の合い言葉」と繰り返しながら入ってきて、僕に「おーい売れない商店街のぼくちゃん」と言って、無視すると店員に「いらっしゃいました売れない商店街」と言っていた。狂った言葉をぶつけられると独特の疲労感がある。書店で働いていたときに明らかに挙動がおかしい若い男がカウンターに来て、後輩が対応していたので引き取ると「なんでずっと舌ぺろぺろしてるの?」と言ってくるので引っ張って店の外まで出たこともあったし、大阪で街を歩いていると後ろからおじさんに声をかけられて「キダタローの息子やろ」と言ってしばらくつきまとわれたこともある。彼らの言葉には言葉の威力があまりにダイレクトに宿っていて、憔悴した容疑者が冤罪を自白させられるような気持ちになる。話にならないというより、話にしてはいけない話を前に自分を保つのにはたいへんな努力がいる。

日記の続き#179

もう「日記の続き」に移ってから半年も経つ。いまだにこの名前には煮えきらなさを感じている。日記的な実践にプラスアルファの企画性をもたせるのはとても難しい。内実のある見込みがあるのならそれをわざわざ日付でバラバラにする必要はない。でもそういう見込みがないと漫然と日ごとの切れ目に価値を預けてしまう。そういう押し引きがある。そういう押し引きがあるということのなかでやっていくべきだと思う。

YouTubeを開いたら長州力がアントニオ猪木の葬式に行った話をしている動画があってなんとなく開いてみると、半ズボンをはいてソファに座った長州の日焼けしたゴツい脚を仰角に煽るような奇妙なアングルで、彼はなぜか板チョコをパキパキと割って食べながら話している。熱海からタクシーで行ったとか訥々とそういう話をしばらくして、おれ会長の話しながらチョコ食べてるよ、口の中甘くしないと喋れないんだよ、と呟いた。聞き手は終始ほとんど相づちすら打てずにいたが、それは相づちすら打てないような話だからで、老人にしかできないそういう話し方があると思った。

日記の続き#178

レクチャーの準備が朝までかかって、2時間だけ寝て神保町に向かった。できあがってみたらほとんど引用だけで埋めているレジュメがA4用紙9枚分あって、これを1枚10分で消化するのかと思った。会場は美学校の入っているビルに新しくできたPARAというスペースで、階段しかない古いビルの踊り場に喫煙所があって、開いた窓から外を見ながら煙草を吸った。数年ぶりにお客さんがぎっしり入った会場で話をした。内容はインスタレーションアートを巡る理論的な言説からいま「作品」がどのような状況に置かれているか検討したうえで、そこから抜け出すような別のクライテリアを探るというものだった。インスタレーション以前のインスタレーション論としてハイデガーとベンヤミンを取り上げたうえで、それぞれを引き継ぐ現代の論者としてハーマンとクラウスを並べる。表面的にはハイデガー−ハーマンがフォーマリスティックに「作品」の自律性を称揚する保守派で、ベンヤミン−クラウスが「制作」プロセスの社会への埋め込みを主張するリベラルに見える。しかしこの対立は根本的なものではなく、クラウスにおいてハイデガー的なものとベンヤミン的なものが奇妙なかたちで「止揚」されていて、その核にあるのが「指標の透明性」だという話をする。これが指標−キャプション−パフォーマンスからなるインスタレーション的な体制を支えていて、ここにかかっている無理が現行のいろんな問題の根っこにあるのではないかという話をしたうえで、インスタレーション的な実践のなかからそうした体制から抜け出そうとしている作家として大和田俊と佐々木健の話をして終わった。

日記の続き#177

文章を書くとき、あれとあれとあれを言うみたいなトピック単位のアイデア出しだけして、あとは頭から書きやすい順番に書く。順序だったプロットをあらかじめ立てるのが苦手で、あるアイデアと別のアイデアのあいだの連関はなんとなくありそうな気がするという程度のものだ。盤がこちらとあちらに分かれて、あちらの大将を取る将棋やチェスのような直線的な書き方ではなく、置いた石、置かれた石でなんとなく盤の磁場が移り変わる囲碁のような書き方をしていると言えるかもしれない。こういう考え方は、ひとつには段落(間)の構成に跳ね返る。原理的には段落をどこで終わらせてもいいものとしつつ、実際的にはここでこの段落は終わりだとすることによって初めて次に書くことが開ける。アカデミック・ライティングと呼ばれるような書き方では総論と各論を文全体のあらゆるスケールでカスケード型に反復することが理想とされる。したがって各段落の終わり方は上位のスケールから演繹的に導かれる、というか、理想的には書く前から決まっている。踏み込んだ言い方をすればここには書くことへの恐怖がある。もちろんこうしたお守りに頼ることもあるし、学術的な場で文章を書くときはそうした構造との緊張関係のなかで書くことになる。選択は単純にどちらを取るかというものではなく、いずれかを取ったことで発生する緊張関係に、当の文章のなかでどのように向き合うかというものになる。この話のポイントは、仮に文章を将棋的な書き方と囲碁的な書き方に分けられるとして、前者が権威的で官僚的なもので、後者が革新的で芸術的だと言うだけでは済まされないということだ。文法と修辞の対立に比せられるようなものをここに見るべきではない。修辞学的に隠喩的/換喩的と言ってもいいし、言語学的に連辞的/範列的と言ってもいい。どちらでもいいしどちらでもない。フォーマット化されたリーダビリティに流し込むのでもなく、文体実践に居直るのでもなく、リーダビリティの開発を実験の対象にする必要がある。読者を作るということはたんにその数を増やすことではなく、新しいリーダビリティを作るということとイコールだ。

明日はこの続きを書くかもしれない。(2021年4月15日

日記の続き#176

日記を1行だけで済ませた。本当はもう少し書くつもりだったのだが、一文を書いて、もうこれでできているのではないかと思ってそのまま投稿した。タイトルとかタグとか、そういうメタデータが前景に迫り出してくるというか、コンテンツと同一平面にすべての文字が均されるというか、そういう感じがあって、たまにはそういうものとしてこの画面を眺める機会があるのもいいかもしれないと思った。

こないだ京都からの帰りに、EXカードのポイントが溜まってグリーン車に通常料金で乗れるクーポンがもらえたのでグリーン車に乗った。ワコマリアの虎の絵の総柄のセットアップを着ている若者や、透明のキャリーケースにトイプードルを入れている女がいて、ルミネから伊勢丹に行ったような世界の違いがあった。