6月5日

神保町で『存在論的、郵便的』講読の日。春に新横浜から渋谷までの東急の路線が開通したらしく、ブルーラインで新横浜に出てから渋谷で半蔵門線に乗り換えることにする。横浜駅で乗り換えると地下のコンコースを延々歩かされるのだが、こちらはスムーズだし席も空いている。向かいの席で犬が鳴いて、見るとおばさんの抱えたメッシュの鞄のなかに茶色いトイプードルがいた。早めに神保町に着いてご飯を食べる場所を探して、目についたとんかつ屋に入る。ハーフサイズの定食を頼んで揚げ物にしては遅いなと思いながら待っていると、2.5センチほども厚みのある、切れ目が明るいピンクのとんかつが出てくる。大きく切り分けられたのを半分に噛むともちゃもちゃと脂が口の中に広がり、この場合もっとひと切れの幅をなるべく狭く、せめて1センチほどにするべきだと思った。というか、仮にまず、低温調理の分厚い豚ロースが与えられたとせよ。それにパン粉をまぶしてまるごと揚げようなんて思わないだろう。ローストビーフみたいに薄く切りたくなるはずだ。「とんかつ」を新しくするという順番で考えるからよくないのだ。と思いながら、鳥の巣のようなキャベツを難儀してほぐしていた。

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6月4日

誕生日。31歳になった。立派なお兄さんの年齢だが、立派なお兄さんらしさを発揮するような場面はぜんぜんない。家でずっと本を読んでいた。千葉さんの『エレクトリック』をひと息で読み終えて、バトラーの『触発する言葉』の続きを読んだ。妻が夕飯を作ってくれた。鯛と春菊の春巻き、手羽中の竜田揚げ、タコのセビーチェ、じゃがいもとマッシュルームのポタージュ。鯛を切るときに呼ばれて、最初は僕が使うべきだと言うことで昨日買ってもらった包丁で切ると、ため息のように鯛が切れた。夜、外から、子供が迷子にならないように履く音が鳴る靴のような、ビニールのアヒルのおもちゃのような、キュッキュッという音が聞こえてきて、その音があまりに大きく、しかも同時にたくさん鳴っていたので、何事かと思って窓から見てみると、おじさんがひとりで歩いていて、彼が離れるとともに少しずつ音が小さくなっていった。

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6月3日

タイトルが日付だけだとすごく楽で、毎日「日記の続き#……」と書いてその日の通し番号を確認することを続けてきた1年間は何だったのかと思う。昨日はその後朝5時くらいまで原稿を書いたり怠けたりを繰り返して、ようやく書き終わって編集者に送ってから寝た。昼頃に起きると感想のメールが来ていて、おもしろいと言ってくれていて読み返してみると、たしかにおもしろいような気がした。妻に誕生日のプレゼントは何がいいかと聞かれて包丁がいいと言ったのが先週で、近所の包丁屋に行くと、店主がまな板と大根を出してきていろんな包丁の試し切りをさせてくれた。それで、今日またお店に行って目星を付けておいたものを出してもらってまた試し切りをして、ペティナイフと三徳包丁を買ってもらった。鞄に包丁を入れてそのまま地下鉄で桜木町まで出て、妻がH&Mでジーンズの試着をしているあいだ店内をうろついて、馬車道のサモアールに向かって湾沿いの道を歩いた。駅前の広場に共産党の街宣車が停まっていて、その周囲に警官が何十人もいた。まだ演説は始まっておらず、街宣車とまだそこにいない聴衆を取り囲むような位置でときおりスーツ姿の混じった彼らが手持ち無沙汰な様子で立っている。その前を横切りながらいま職質されたら大変だねと言う。みなとみらいはあいかわらず現実感のない街だ。サモアールの冷房が強すぎたので早めに出て、夕飯の材料を買って帰った。

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6月2日

2ヶ月ほど休んだのでまた日記を再開する。本当はキリがいいので昨日から始めようと思ったのだが、連載の締め切りを延ばしてもらっていて余裕がなかったので書けなかった。結局まだ終わってはいないのだけど、日記で気を紛らわせようと思って書いている。それに、これだけやぶれかぶれの状況もめずらしいので残しておこうと思ったという理由もある。まず、いま書いているのは今月出る『群像』に初回が載る原稿の第2回だ。初回が出る前に2回目の締め切りがくるというのも変な感じだし、論考を連載で書くのも初めてで1回と0.8回ぶんくらい書いたいまも手応えというものがぜんぜんない。いつもは原稿を出した時点である種の万能感というか、これはすごいぞという感覚があるのだけど、自分のなかにまだ評価基準をもっていない書き方をしているのもあってなんだかよくわからない。加えて、博論本の作業が第5章の途中でスタックしていて、こちらはこちらで章を追うごとに作業に要する労力が倍増しているような感じがする。それは単純な作業量というより心理的な負荷で、ドゥルーズどうこうより自分と向き合う/自分から眼を逸らすことにともなう屈託に押し潰されそうになる。ということで、気持ちが弱っているところもあるのだが、連載のほうは今夜中にも終わりそうだし、博論本のほうはこのキツさがいつまでも続くことのほうがよっぽど耐えられないので、ともかく終わらせるしかない。

あと、これまで何度も試みたことではあるのだが、少なくともしばらくはその日の夜のうちに、正確には12時をまたいだあたりを合図に日記を書いて公開しようと思う。今日もまた何もできなかったという事実から逃げてだらだら夜更かしするのも減らしたいし。それにしてもどうして日記はこんなにすらすら書けるのに(ここまで10分もかかっていない)、それが一向に原稿に反映される気配はないのだろう。いや、文章レベルではいろいろ変わっているところはあると思う。でも書くのが楽になることはない。

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日記の続き#93

どうも集中できないのでこちらで気を紛らわせよう。起きたら安倍元首相が演説中に背後からショットガンで撃たれたというニュースが流れていた。僕はこういう仕事が向いていないのかもしれないが、こういうときに競うように知的なことを言っているひとの気が知れないなと思った。街の景色が少し違って見えた。近所の家系ラーメン屋に行くと僕が横浜に来たときは新人だった店員が30キロくらい太っており、ガリガリの高校生にしか見えない新人が入っていた。いつもの海苔増しを食べて公園で煙草を吸いながら、石のベンチに集まって酒を飲んでいる老人を眺めていた。半分くらい吸ったところでこの1本は安倍晋三に捧げようと思った。珈琲館に入ってパソコンを開くと助からなかったという報道があった。喋る順番があるとしたら安倍昭恵、岸田現首相がいちばん先だと思った。

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日記の続き#68

6月13日。作業メモより。

  • 『非美学』第3章の第3節の下書きが終わったところで、数日スタックしている。
  • どうしてか:これを原稿にしてから次節に取り掛かるか、次節の下書きに移るか迷っている。
  • それにともなってツイッターやYouTubeに逃げている時間が増えている。
  • 互いが互いの逃げ場になりつつ、そこに均衡が生まれてしまった場合、くさくさした気分だけが堆積していく。恐ろしいことだ。
  • ここのところ記事やツイートの反応が引きっきりなしにきていることも、このざわざわした居心地の悪い均衡に関わっている。
  • そのほか微妙に頭に引っかかっている仕事もいくつかあり、それらすべてが蜘蛛の巣のように多方向にピンと張り詰めているのだ。
  • それを打破するためにこうして、千葉さんの真似をしてworkflowyでフリーライティングをしてみている。
  • こうしてみると、細かいことや生活リズムを整理したうえで大きい原稿に取りかかる——逼迫しているわけではない——のがいいのかもしれないとも思う。
  • でも「細かいことが整理される」なんてことは一生来ないので、長い目でやる作業の時間と細かいことを処理する時間を分ければ良いのだろう。
  • 最初の問いに戻る。
  • 内容の面からみると、手が止まっているのは第4節をどういうストーリーにするかということの見通しが立っておらず、それが第3節の堅牢性によることなのか判断がついていないと言い換えられる。
  • 第3節をしっかりやればおのずと次の道も見えるだろう、いやしかし…… と。
  • あらためて第3節の論旨ひとことで言うなら、『千のプラトー』には〈動物になること〉と超越的な〈人間であること〉のあいだに、内在的な形態としての人間というレベルが想定されており、これが本書の倫理的・批判的価値の源泉となっているということだ。
  • 人間を人間中心的=超越と人間形態的=内在にレベル分けしたうえで、後者を前者に宿りうる特殊な習性=錯覚として埋め込みなおすこと。
  • これが具体的には、イェルムスレウの二重分節の議論がどのように読み替えられているかということに沿って展開されるわけだが、これはかなり込み入った操作であり、気になっているのはこれがちゃんとできているのかということだ。
  • まあ……、できているとして進めるよりほかないだろう。
  • それで、できているとして第4節はどうするか。

(以下略)

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1月19日

ここのところナラ・シネフロの『Space 1.8』をよく聴いている。音楽を好きになるときにはいつも想起の感覚がこびりつくようになってしまった。あの頃の自分に聴かせても好きになるだろうと。自分が好きになりえなかった音楽を好きになることはこれからあるのだろうか。

昼ご飯を買いにセブンイレブンに行って、気に入っていたナシゴレンを探したのだがない。しばらく見ていない気がするのでもう売っていないのかもしれない。ナシゴレンと、紙パックの甘いコーヒー牛乳を飲んで、東南アジアっぽさを感じるのが好きだったのだけど。帰ってキャベツとアンチョビのパスタを作った。キャベツがしっかりくたくたになるように、しかしソースがしゃばしゃばにならないように、フライパンに入れるパスタの茹で汁の量を調節するのがポイント。おいしかった。

夜、ネットでランニングシューズとジャージ上下を買った。寒くて運動する気になれないのなら昼間に走ればよいのだと気づいて。本当はサッカーなり総合格闘技なり合気道なり、人と体をぶつけるコンタクトスポーツがやりたいのだけど、それはまたある程度運動に慣れてから考えよう。メガネのままじゃできないし。注文ボタンを押してから、自分が日記のあとの空白を埋めようとしていることに気がついた。

日記が終わったからといって日々が終わるわけでもなく、そもそも構造的にアンチクライマックスなのだから終わりに意味をもたせることなんてないのだと思っていたが、明日からもう書かないのだと思うととても心細い。しかしそれと同じくらい、これ以上続けたら本当にやめられなくなってしまうのではないかということが怖い。アンチクライマックスな終わりの空恐ろしさ。ここでやめること、日々から日記を分離してやること、というか、分離可能であることを確認することがそれぞれをそれぞれとして尊重することなのだ。こんなにお別れらしいお別れはいつぶりだろう。

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1月18日

鎌倉へ。あまり乗ることのない下りのブルーラインはひと区画だけ地上に上がる。かすかに空を仰ぎながら曲がるカーブが気持ちよかった。戸塚でJR横須賀線に乗り換える。会場の家でささけんさんとお母さんに挨拶をして、縁側で煙草を吸わせてもらっていると編集者さんも到着して、インタビューを始めた。

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1月17日

コンサートのレビューの締め切りが20日で、いろいろ調べるばかりで執筆に入れていなかったのだが、「プリペアド・ボディ」というタイトル候補を思いついてとっかかりが掴めた気がした。

晩ご飯を食べたら急激に眠たくなって、お風呂に入って10時ごろには寝た。3時に目が覚めて今日鎌倉でする佐々木健さんへのインタビューの準備を進める。津久井やまゆり園の事件が大規模入所施設で起こったことの意味。東浩紀のいう、20世紀以降の社会を特徴づける大量死=大量生という図式の隙間にそうした施設があるとしたらと考えると背筋が寒くなるような感覚がある。被害者の家族の声を集めた「19のいのち」というNHKが作ったサイトを読む。これ以上の言葉はないという前提で、そこで口をつぐむのではなく何を言えるのだろうかと途方に暮れる。事件は加害者のもとに象徴化され反省されそれをもとに社会は部分的にではあれ改良される。それ自体は健全なフィードバックだ。それは具体的にはたとえば大規模施設から地域のグループホームへの移行による、障害者と介助者の数的不均衡の緩和を意味するだろう。それに対して被害者の家族の言葉はあまりに痛切であまりに具体的であり、一切の象徴化を拒んでいる。加害への象徴的批判と被害への個別的共感の対立がトラップだとして、後者を引き受けるような理論的実践はありうるのだろうか。メモ作りに戻る。

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1月16日

久しぶりに長い夢を見て、メモしておこうと思ったら二度寝してしまい忘れた。見た夢について考えていてそれがまた夢になり、ふたつの包含関係が反転するような夢だった。とても大事な夢だった気がしたのだが、かろうじて覚えている断片からはその大事な感じが剥落している。

18のときにひとり暮らしを始めて10年以上が経ったが、ずっと懸案であるのは冷凍の食パンとかご飯とどう向き合うかという問題だ。冷凍されたパンやご飯は生活の死相をそこに見てしまうようで苦手なのだが、食パンは3日ほどでダメになるし、一食ごとにご飯を炊くのは面倒だ。彼女と住み始めてそれは家事の一環としてわりあい自然に日常に組み込まれた。その自然な不埒さに面食らっている。

イヤホンがソフトウェアのアップデートを要求している。まさかイヤホンがアップデートを要求するようになるとは。

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