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福尾匠の個人サイト
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どうやら
自分の通院している
病院は
大阪にあるらしい
集まった4人で
初めて大阪の
地を踏む
狭くなってゆく
トンネルを抜け
外に出る
4人だけ他の集団と
離れたらしく
帰る作戦を練る
車と自転車を手に入れ
車に2人とお客さん2人
自転車に2人
乗れないことはないが
と苦戦していると
今月は両親の祥月。
他界してから父は16年、母は3年になる。
さっき御苦労なことに両親揃って夢に出てきた。
母は寝室のベッド脇に布団を敷いて寝ていた。父は僕の五十肩を治してやる、とストレッチを始めた。
朝早くになって(そういう設定)父は真面目にも仕事に出掛けて行った。
母は布団から起き上がって玄関に出て見送り。
ファンタジーの欠片もない夢。
両親が懐かしいとかちっとも思わないので、むしろ夢に登場させた意味がわからん。
きっと法事の件で田舎のお寺さんに電話したことがそのまま影響しているのだ。
想像力の無いことで、そこがなんか嫌だ。
先日、友人宅に遊びに行って、焼肉をご馳走になった。そのとき、飼い猫と戦いごっこの状況になってしまったのがめちゃくちゃ恥ずかしい。友人爆笑してた。
あの戦いごっこ、喧嘩しようと思ってしたんじゃなくて、遊びでトンボみたいに猫の前で渦を描いてみて、無反応、でそれをやめて手をひっこめた瞬間そっちに飛び跳ねついてきて、また渦を描く無反応、飛び跳ねジャンプ! 渦を描く無反応、飛び跳ねジャンプ!それが繰り返されてギッタンバッタンが始まってしまった、という感じ。それを傍から見て喧嘩の図として絵になってたことが恥ずかしい。しようと思ってなかったのにいつのまにか熱くなってた。爪痕、噛み痕を帰宅後の深夜に自宅のソファで見つめてた。自分も猫になってたような振り返りをした。
いつのまにかプロレスのような空間が猫の小さな範囲にできていて、奴の周りにはいつでもメタモルフォシスな時空のギミックが薄雲のようにとりまいてるのかと思った。あと奴、急にソファの下奥へヤモリになって消えていったり、ちーっす!と背中をお山に盛り上げてトコトコきたり、と思ったらサッーと方向急転換で反対の出口へ滑って行ったりする。
夜中に寝る前に〇〇ちゃん愛してるよと15回くらい言ってみたんだが、それを友達に言うとキモすぎる、その性欲どこから来るの?とドン引きしたようだった(たつあふ)
「最後の決闘裁判」を観ようと思ったら夜の回しかやってなくて「ひらいて」を観た
ずっとおもしろかった
唯一前半のゲーセンのシーンだけがなんか不自然というかギクシャクしてたけどそんなことはどうでもいい
切なくて笑えて痛快だった
なんとなく身体も頭も重かったがおかげで浄化された
比べるのも変だが昨日観たDUNEよりも映画体験としては豊かだった
DUNEだって凄かったんだけれども
まだ終わってないけど素敵な一日だった
1
野球選手が
賞をもらう
においが気になる
だいじょうぶだ
だいじょうぶだ
と安心される
2
絵を描く
寝て起きると
なくなっている
道具
色々な女がいた
忘れてたメモが出てきた。「これを自分でつくりあげたい」とタイトルが打ってある。今年5月、トレーラーへの興味の最初のころのメモ。
「すごいすごいすごいすごいすごいすがい
島、切りとられたひとつの完結した世界が何者にも無関係に分離して動く、これを自分でつくりあげたい。完成を「買って」アレンジ(塗装)で満足できない。」
すごいが「が」になっている。メルセデス・ベンツのラジコントレーラーが部屋を這い回る動画をYouTubeで見て、そのバック音の奥行に胸が高鳴った。「島」というのはフラットベッドという平床式のセミトレーラーのこと。音と動くこと、ラジコンは高くて買えないので、買う代わりに自分でどうにかそれを再現できないか、と淡路の食堂みたいな雰囲気のあるドトールで書いた。
動くことについては、色彩鮮やかな点灯列をスマホ長押しの連続撮影で習慣的に撮っていくなかで自分の一部になった。音はこの後どうなっていくのだろうか。商店街のマツヤデンキが窓からでかでかと見えるあそこのドトールは好きだった。日記掲示板にはじめて投稿したのも5月のその頃だ。あのときの昼の鳥の鳴き声は印象に残ってる。
今日、穴を掘っていたら粘土層が出てきた。調べると「原土」と言って、乾かしてふるいにかけて水分を加えて寝かせると、粘土として使えるらしい。穴を掘るという動作は苦痛だったのに、原土採取だと思ったら捗った。
陶器を自分で焼いたことは無いので、多分何も作らないと思う。それでも手順に沿って乾かしてみている。明日には乾いているだろうか。明日について考えると眠れるので、原土採取さまさまだ。
昨日は過ごしにくかった。いつものパン屋さんの喫茶スペースで作業しようとしたけど、ちょっとやって、やる気なくなって、すぐ帰った。なんか気温が暖かくなっていたからかもしれない。夜のウォーキングのとき、今日ずっと鼻が詰まっていることに気がつく。口呼吸がもどかしい。寝れないのでリビングでDVDを観ていた。
朝10時に母に起こされる。WiFiのことでソフトバンクの人がくるから布団あげて、と。粉のポカリを溶かして作っていると、ソフトバンクが来た。私服の、自分と同じくらいかもっと若い男の子だったのでびっくりした。彼が母と社交的なやりとりをするのを聞きたくなくてあっちの部屋で終わるまで待ってた。30分くらいした。鼻水をたえずかんでいてしんどかった。
芸大に通っていたが休学して今年から通信に編入、だけど結局まだ2単位しか取っていなくて来年がんばらなきゃというかんじ。今年はずっと実家でじめじめした生活を送っていた。去年の冬に深夜のコンビニ帰りに見た光るグリーン系の黄ランプに圧倒されたのをきっかけに、トラックの点灯列に何か賭ける思いを持ち続けた一年だった。たくさん撮影に行った。とくに8月末の夜は何枚もトラックやトレーラーの横腹で光る色ライトをバシャバシャ撮った。毎日が地上の流星嵐のようだった。そしてここ最近、飽きたわけではないが熱中しすぎたせいでトラックの四角い野暮ったさに不快感を覚えはじめている。潮時かもしれない。鼻腔の奥にガソリンの鈍い臭いが充満しているような不快感。
以前、まだ芸大に通っていたころ、夢中だった小学生の頃からの愛する幻想世界があった。それは作品制作の反映にもなっていた。その世界は、幻想だ、という干上がりを迎えた。今はそれにたいして好奇心が湧かない。
そのときの干上がりと、トラックへの不快感が、どこか似ている。しかし違っているのは、前者が霧散的に透明に消えていったのにたいして、後者は沈殿するような重さが感じ取れることだ。消えて無くなりはしないということ。大きな違い。
近所の慣れたウォーキングコースは飽きて工夫のしようもないところまできた、と感じていて、一駅ほど歩いたところの大きな公園の周りを先日歩きに行ったのだけど、地理を把握していないので行くのに心理的なハードルがかかる。それで二日間ウォーキングなしだった。今日、その大きな公園に歩きに行った。トレーラーが真横をよく通るし、でかい自動車道を跨ぐ橋を2つ渡るのでそこからもトラックが見える、だからあっちこっちで点灯列が光る。ウォーキングより、点灯列の撮影の方に集中して、まったく課せられた運動をしにではなくただ写真を撮りに遊びに外に出て帰ってきた気分で、少し課せられを感じないとむしろ張りがなくて「運動した、の?」となる。
歩いてるとき考えていた。トラックの点灯列について。トラックの点灯列の他に、あのような動く光る色彩を日常的な通行で見かけることはない。そして、デカくて野暮ったいあの四角いトラックという車、その車のパーツとしての点灯ランプ、ではない、ということ。点灯列はトラックの一部ではない。まず第一に色とりどりの点灯ランプが列でパッと光り、それをたまたま自分が通行中に目撃する。遭遇する。そのとき綺麗だと感じる。それでおわり。点灯列だけ。重い車体のことはそのときどうでもいい。
が、後々車体の形態把握もできるようになってきて、すると、あの形は好きだからその点灯列を見れたらいいなとか、三菱のエンブレムだと嬉しいとか、なんだこの特車は!すご!とか、そう車にも興味がわいてくる。
土曜日はプラごみの日。
今週溜まった分を出しに行く。
東の空の朝焼けのグラデーションが綺麗。
天頂近くには下弦の月。銀色のクロワッサン。
朝刊を取り込んで(紙の新聞を購読している)アルコールティッシュで手を拭くと、指先が思いの外乾燥する。
グラノーラを食べたら風邪薬を服んでもう一眠りしよう。
稲垣足穂『弥勒』の第二部を今日から読み始めた。第一部では物語になりきらない無限退行的な内世界が少年のあけすけな空想に乗せて繰り広げられ仄かにノスタルジーの香りを帯びていたが、第二部は一転して少年好みのモチーフは完全に干上がってしまい世界は現実的な生活臭で停滞している。
パン屋さんの喫茶スペースで作業と読書をした後、晩飯を買いにイオンのB1Fで、卵ご飯にうまい棒を割ってまぶしたいので駄菓子のコーナーに行くと近くに玩具も陳列されいるので、女児向けと男児向け、ウインクスマイルの少女のキャラ絵と緑や黒の恐竜フィギュアの、それぞれのパッケージイラストを見ていた。今は干上がった自分にとってのかつての空想世界、干上がった、という事実をまだ受け止めきれていないというのがひとつ。それと、空想世界を喚起するきっかけの平面が今も場所としては昔と同じこのお菓子コーナーにあること。平面世界の楽しげなムードは、現在のいくぶんドライになった自分の世界観には摩擦があると思わざるをえない。当人にとっては美しい世界。しかし「にとっては」ということに物悲しい切なさを読み取ってしまう。平面の闇。自分は子供の平面世界を周りがとっくに卒業してからも維持しつづけていて(オタクとまではいかないけど平凡に)それでいいこともたくさんあった。だけど周り「は」卒業することについてもう少し考慮が及んでいたなら、と考えて暗い気持ちになる。自分の生活は今まさに『弥勒』の第一部と第二部のあいだに位置してると感じる。
1
外国の寮の
ようなところ
うす暗い部屋
風呂をためる
ろうかの窓から外を見るが
蒸気でくもっている
明かりのスイッチを入れて
ぼんやりと自分の顔が
浮かぶ
2
昔の部屋にいる朝
ふとんをたたみ
カーテンを開けると
外は晴れているが洪水だ
これでは買物に行けない
母はどうしても
買物に行くと言って
出て行ってしまった
母を想い
叫ぶ
一昨日の雨の日に梅田の夜を歩いて、若者が多くてなんだか元気になって、昨日もまだその交錯する街の印象がまばらに続いていて、ふと、『弥勒』(稲垣足穂)の序盤にそういう描写があったなと思い当たり自宅の机で読んでいた。高層建築物や群衆といった「夜の街頭」が、少年の誇大妄想に乗せて語られている。語られている、というか、自分が初読した二十歳の頃の印象は切り絵のような静止画の街頭だったのだけど、今読んでみると一枚絵の向こうにもけっこう物語性があって、ちゃんと語られていたんだということにびっくりした。ただ物語といってもやっぱり、人間関係が何らかのかたちで終息を迎える一般的な物語の進行ではなく、後ろ向きに終わりなく無限退行するような、一枚絵の向こうはそれとほとんど似た一枚絵でその次もまた似たものがありそのまた次もそうで……という感じ。そうやって少年の好みのモチーフがえんえんと語られる。「もういいよー」となる。その独りで勝手に無我夢中感がある時期の少年の(非?)身体性に一致するのだけど、作中ではときおり、おそらく少年の思わくとは無関係に、もういいよー的な身体のまま、他の少年との間に出来事がちょっと地に足つく瞬間があって、その味が懐かしくていい。自分は保育園のときの玩具交換を思い出した。持ち込み禁止だけどこっそりポケットにしのばせて、園内でけして見ることはないはずの煌びやかなフィギュアを友達と交換してた。たしか相手の物がレアとかで欲しかった、のではなく、自分が好きで大事にしてる物を渡したいことの方が強くて、それほど欲しくもない相手の物を自分の思い入れある玩具と交換してた。と同時に、あの頃は(4才5才だけど)対象への熱中の深度もすごいいっぽう「飽き」のリアリティが今以上に切実で、ずっとこの世界にいたいというお気に入りの玩具でもある日とつぜん何の魅力もすっからかんになるということがあって、そうなる前にまだ大事な時期に手放して誰かのもとで魅力を発揮してほしいという願いもあった。自分にとって、断片の交換を超える幸福的瞬間はない。
『弥勒』に、YouTubeで賃賃電車の前面展望動画を流して読書BGMにした。自分にとって、タルホといえば賃賃電車なのだ。二十歳のとき、本格的に稲垣足穂の世界へ入っていった最初の頃、くるみ餅を食べに祖母と堺へ行くことになり、その賃賃電車の中で『一千一秒物語』を読み終わり、そのまま『チョコレット』を続けて読んでいた。印象深い読書体験だった。BGMから関西弁のおばちゃん同士の会話が夏の空気みたいにものすごいもわっとした開放感で流れてくる。自分は読書がほんとに苦手で、一文字一文字を石拾いのように積み上げてやっと一行いくと完全に疲れてしまうほどだったので、『チョコレット』は童話的なファンタジーなのにけっこう苦労した覚えがある。字を追うのにやっとでとても小説の内容を想像する余裕がなかったけど、たしか巨人がとんかちをかんかん打つ話で、それを高校のときハマってたデモンズソウルというゲーム世界のイメージに重ね合わせて何とか想像を維持して読んだ。
今日は、めっちゃ長くなってしまった。匿名でタルホは書きやすいなと思った。じゃなきゃ、あの強烈な独自の世界にたいして自分の世界はどうか……みたいになる。でも、タルホは意外に「自分はこう」というのがハッキリ決まらない人だったんだなと『弥勒』を読んでるとわかる。
手が空いたので午後休して美容院へ。帰ってきてから部屋で自撮りした。マイナンバーカードを作るためである。
なぜマイナンバーカードを作ることになったかというと、信託銀行の口座情報の変更、すなわち今回の引越しに伴う住所変更に際して、マイナンバーカードが無いと手続きがめんどくさかったからである。
いままでマイナンバーの通知カードで諸々を乗り切ってきたが、ついに耐えきれなくなった。
スマホからだと申請が楽に見えたので全てスマホでやってみたが、申請ページで認証番号(メールアドレスの確認のために発行されるものと思われる)の入力がうまくいかなかったにも関わらず次のステップに遷移できてしまった。
その後も問題なく画面遷移できたため申請は完了したが、一抹の不安がある。わざわざ認証番号を発行してるのに入力できなくても遷移するなんてシステムテストの漏れではないのだろうか?
とはいえユーザとしては申請が完了した以上なにもすることはない。
公権力に対する少しの敗北と苛立ちを感じつつ、このままスムーズに申請が通ることを祈っている。
梅田は若者が多くてちょっと元気になった。雨じゃなかったら逆に落ちこんだかもしれない。傘を差すし、人の視線よりも足元の水溜まりや、人の顔よりもその上の傘、それが他の傘にぶつからないように、と注意を払うので、人に怯えず梅田を歩いた。帰りは南方で降りてベローチェでアイスコーヒー。雨だしウォーキングはいいやっと今日は無しにした。
わたしは自分を切り売りするような作品を制作しているのだと 先生と話していて改めて言語化され気づきになった その反動でなのか わたしは自分の好きなものを人に教えることがそうそうないし教えたくもないのだとわかった youtubeで見た動画はわりとシェアするのだが、読んだ本や好きなミュージシャンは人に教えていない 絶対に教えてなんかやらない 同じジャンルに分類されている?他のアーティストを聴く人は身の回りにも多くいるのにわたしの好きなミュージシャンを知っている人は見ないけど それでいいと思っている
わたしだけの好きを大切にしたい
朝早く起きた。冬期限定アルバイトの面接に行ってきた。終わってから近くのコメダへ。満席で待つ。名前が呼ばれてカウンター席へ。席に着くとき、隣の人が大げさな身ぶりで足元のカバンを移動させた。じゃまになるかもしれないと思ったのか。自分もよくやる。必要以上にやらなくていいのだとハッとした。店員さんがお水おつぎしましょうかと来ると隣の彼は不自然なトーンで丁寧に返事する。彼の横顔をサッと確認した。自分とは違う顔つきだった。帰ってきて、そのあと祖母家に行って作業してた。コメダで買った豆菓子をボリボリ食った。母がミシンのことで来た。自分は実家に戻った。晩飯を済ましてまた祖母家へ。祖母が、寒くないん?とか、~あかんから、とかこまごまと何かしようとするのを一々「いいからいいから」「大丈夫」と断って、気が塞いで作業もする気がなくなった。で、なんかスマホいじっててちょっと元気になるきっかけがあって、しばらく作業して、祖母家で寝ようと思ってたけどやめて実家に帰った。今日は早起きだったし気持ちがしぼんでるからウォーキングも折り返し×1だけでトボトボ終わった。
深夜のウォーキング。周回せずに折り返しで反復していると「今何周」という課せられから解放される。解放ではなく、収縮かも。周の外に出るのではなく、ずっと一周未然にとどまり続ける。
周回では、一周を完成させるとそれで1本の体が道に立つ感じがする。折り返し反復は、完成しないで体内で何かがふつふつと混ざってて1本未然という感じ。
歩きながら月や星座に魅入ったりする。魅入るのが面倒くさいときはイヤホンの音楽やラジオや時々アマプラも音声だけで観てる。一日に心身のダメージがあった日は、そのことをカレーみたいにふつふつ混ぜ混ぜの中に煮込む。 折り返しの反復では、そのようにして1本の体を、翌日のパンをこしらえる感覚で半ば意図的につくりあげることができる。元きた道を行き返すのでその振り返りという作業の効果もあるのかも。
その折り返し法にも慣れてきた。近い日に、ぜんぜん遠くの場所まで行ってみてもいいかもと思っている。