日記の続き#302

年が明けた。プツプツという音が聞こえて、窓から首を伸ばすとビルの隙間から海のほうで花火が上がっているのが見えた。出版社から年賀状が3枚。こういうのが業務になっているんだと思う。あけましておめでとう。同じ年を越して、同じ新しい年を迎える。あけましておめでとう。僕はコーヒーの飲み過ぎでちょっと胃が気持ち悪いです。去年から始めたこの日記も、もう少しで終わります。背中にこわばりがあるなと思ったら、すっかりストレッチをサボっているからで、それはたんに寒くなってスリッパを脱ぐのが嫌だからだということに気がついて愕然としました。気軽にできることほど気軽にやめてしまいます。そうして日々にわざとらしく凹凸を増やしていくんだと思うとうんざりします。(2022年1月1日

日記の続き#301

イセザキモールの脇にある、1階が焼肉屋で3階がタイマッサージ屋のビルの2階に入っている三番館という喫茶店に入る。席で煙草が吸えて、コーヒーも美味しい。愛想の良い店主は最近あまり見なくなった。今日も息子らしい男が店番をしている。向かいがハリウッドというパチンコ屋で、主な客は中国人のおばちゃんと年老いたヤクザだ。テーブルが狭く席どうしが近いので長時間の作業には向かないが、日記を書いてしばらく本を読むだけだからと思って入った。いちばん奥の、片側だけ壁に遮られて見えないボックス席の見える側に老人がふたり並んで座っていて、見えない奥の方から外国語訛りの女の声が聞こえる。ヤクザと世話をしている店の店長だろう。奥から出ててきた1万円札を老人が財布に入れた。会話のトーンは穏やかだ。ルイヴィトンのカーディガンを羽織った背中を向けた老人が語彙が少ないんだからね、あんまり喋らなくていいんだよと言うと、喋りすぎなんじゃなくて考えすぎなんだともう一方の老人が言った。女が考えたことを話しているのだと言うと笑いが起こった。しばらく本を読んで顔を上げるとその3人はいなくなっていて、テーブルに空のグラスが並んでいた。結局女の姿は見えないままだった。

日記の続き#300

ここ数日頭のなかでずっとぐるぐるぐるぐる博論本の文章をいじっていて、他のことに集中することができなかった。そういうときは妻に話しかけられても、その言葉は聞こえているのだが、意味を理解するのに時間がかかる、というか、意味もわかるのだがそれに自分を関連付けるのに時間がかかる。日記もおざなりになっている。まあ4章はもういいだろう。あそこもあそこも直さなきゃいけないという気持ちと、自分はこれを書けたんだと悦に入っていたい気持ちと、5章もまたキツいぞという気持ちにいつまでも引っ張られてしまう。これまでのところ『非美学——ドゥルーズの哲学と批評』という仮題で進めてきたのだがどうにもしっくり来ていなくて、『眼を逸らさなければ書けない——ドゥルーズの非美学』のほうがいいかもしれないと思った。能力論の問題も、言語実践としての哲学の問題も、非−接地としての芸術学の問題もこれだと串刺しにできる。『眼がスクリーンになるとき』から「眼」が繋がっているし、この本が出た直後に『新潮』に書いた「見て、書くことの読点について」というエッセイとも繋がっている(これは昔作ったはてなブログのサイトに再掲している)。気になるのは千葉さんの『動きすぎてはいけない』に似ている(そのわりに本書のように引用ではない)ことで、『動きす』も重要な参照先だからいいのかなとも思うが、勝手に引き継ぐ感じになっても悪い(というか、過剰に「陣営」として見るひとが出てきそうで面倒)かなとも思う。ともかくたいてい企画でもタイトルでも文章のテーマでも、何かを決めるときはだいたい5個くらいの理由が揃ったときだ。日記が続いているのは始める理由が10個くらいあったからだと思う。そのつど捨てたり拾ったりしているが。

日記の続き#299

捨ててはならない書類を捨ててしまったことに気がついて、いやーな気持ちになっている。嫌だなあ。[13:54

渡良瀬遊水地の火災が心配。[21:26

後期ウィトゲンシュタイン好きのみなさん、僕は後期ウィトゲンシュタインが好きではありません。[23:27

複文への恐怖、タイプなきトークンへの依拠。[24:12

日記の続き#298

散髪をしたら髪の総量が4分の1くらいになった。どうしてそんなに切ろうと思ったのかと妻に聞かれたので、明るく見えるからだと言った。

あらかた終わったと言ってから2ヶ月くらい苦しんでいた4章ができて、見てみるとこの章だけで5万字もある。これだけで本にして出したいくらいだ。あと2章。あと2ヶ月。

日記の続き#297

締め切りがヤバい原稿を書いていたけど、結局まだ終わりは見えないので明日のほうが大変そう。諦めて日記だけ書いてしまって寝よう。書いていると自分の集中で息が詰まってしまう感覚があって、それをいなすために煙草を吸ったりするのだけど、それでスマホを触ったりしているうちになかなか作業に帰って来られなくなることがある。ポモドーロ法というタイマーをつけて25分作業5分休憩をひたすら繰り返すやり方もあるようだけど、執筆には向いていないような気がするし、想像するだけでキツくて嫌になる。作業も嫌だし時間割も嫌だしぜんぜんできないだろう。締め切りは時間を等分しないので好きだ。たとえば20日後の締め切りまでに4000字書かないといけないとしよう。毎日200字ずつ書く人なんていないだろう。たいてい以下のようになるはずだ。最初の10日は何もしない。1日200字ノルマが1日400字ノルマに変わるのなんてなんでもないことだからだ。15日目にやっと1日800字ノルマになって、頭のなかにざっと書きたい内容を再現できることを確認して、明日くらいからやろうと思いながら寝る。あと4日。最初の段落を書いた達成感で終わる。あと3日。ボディの部分が思ったように進まなくて焦りつつ終わる。あと2日。やっと本腰が入って、あとは最後の1日で走り抜けられるか、「本当の締め切り」を当て込んでふて寝するかだ。明日どうなるか。(2021年6月5日

日記の続き#296

横浜に買い物に行って、日記を書かなきゃいけないからと言って化粧品を見ている妻を置いてカフェに入った。まあ禁煙でもいいだろうと思ってすぐ近くにある店でがちゃがちゃと日記を書いて仕事のメールを返す。一緒に出かけておいて日記を書くからと言って中座するのも変な話だ。その店でまた合流して昼ご飯にスンドゥブを食べて地下鉄で帰って、今度はまた作業をするからと言って僕は帰り道の珈琲館に入り、妻はそのまま家に帰った。しかし珈琲館で美味しいコーヒーを飲んで落ち着いてしまうと作業にとりかかる気にもなれず、結局昨日買ったパラニュークの本を読んで、煙草が切れたので店を出た。

日記の続き#295

Amazonを開くと『ファイト・クラブ』のパラニュークの新刊がおすすめされていて、黒嵜さんが好きな作家なのでリンクをLINEで送ったら、もう注文しているということだった。そのままチャットしながらイセザキモールを歩いて有隣堂に入るとちょうどその本があったので買う。映画に使われる悲鳴専門の録音技師の女と、行方不明になった娘をダークウェブのポルノサイトで探すうちに陰謀論に引きずり込まれる男の話らしい。映画のコーナーに佐々木敦の『映画よさようなら』という本が出ていて、2軒手前にあった年中閉店セールをしている店のことを思い出した。ベローチェに行くのは毎回賭けなのだが、2階席の壁いっぱいの窓を京浜東北線が横切るのが見たくなって入った。しかしやはり失敗で、客の3分の1は机に突っ伏して寝ており、おじいさんとおばあさんが大声で罵り合ってときおりおばあさんはテーブル越しにおじいさんの耳を引っ張ったり帽子ごと頭をつかんだりしている。とくに誰もそれを気にしている様子もない。ここは関内の会社員のくたびれ成分と、イセザキモールの老人のくたびれ成分が合流する潮目になっており、それだったら新横浜通りを渡ってカフェ・ド・クリエやルノアールまで行くか、もっと手前のコメダやドトールのほうがまだ少なくとも身の置き所というものがある。ちょうど博論本の作業は平倉さんの『シネマ2』の「叫び」解釈を使う箇所で、それがひと段落してさっき買った『インヴェンション・オブ・サウンド』を開くと映画の悲鳴の話をしている(芸大の出張講義で平倉さんがゴジラの咆哮の分析をしていたことも思い出す。そこには「戦争」が折り畳まれている)。パラニュークの本は初めて読んだが、確かに描写が黒嵜さんっぽいと思った。ひとつひとつの知覚がエッジーで、藪をかき分けるように神経質に動く体が想起される。

日記の続き#294

あれをやるためにはまずこれをやるべしというのはつまらない。予行演習が必要なのは組織体だけであって、個人においてはなんでも「やってみる」ことができる。他方でプロセスエコノミー、つまり作っているところを見せるのがつまらないのは、結局のところ作品の作品性をあらかじめ囲い込んだうえで成立するものだからだ。20分でできるもの、2時間でできるもの、3週間でできるもの、3年でできるもの、1日のなかでそれらを行き来しながら、習作と作品をパタパタと回転させること。昨日と今日の展望の差分から未来を汲み出すこと。計算がつまらないのではない。計算に時間が勘案されていないのがつまらない。