日記の続き#192

わかりやすくイベントフルな日。旅館で妻と朝食を食べて、チェックアウトしてからサロンでコーヒーを頼んで日記を書いて、五月女さんとさちさんと合流して車に乗せてもらって、乙女の滝を見て沼原湿原を歩いてカツ丼と蕎麦を食べて南ヶ丘牧場で牛を見て、那須塩原駅まで送ってもらって、横浜まで帰った。どの移動も20分くらいしかかからなかったし、那須高原は見た目のだだっ広さと観光地の密集ぐあいが不釣り合いな場所だなと思った。車さえあれば1日でたくさん遊べる。山の上のほうに行くと紅葉が濃くなって、湿原には不思議と生き物の気配がなかった。

日記の続き#191

東京駅から東北新幹線に乗って、那須塩原の板室温泉にある大黒屋という旅館で始まった五月女さんの個展を見に行く。駅からタクシーで平野の向こうに見える那須岳に向かって北上する。山にぶつかってすこしのところの渓谷に板室温泉はあって、温泉街と言っても営業している旅館はふたつくらいで、周りにはコンビニもない。フロントでこのあたりで煙草を買えるところはあるかと聞くとないということで、フロントにある煙草からマルボロメンソールを選んで買った。部屋から見下ろせる綺麗な川を見に出ると、これより上には誰も住んでいないからこんなに綺麗なのだということだった。しばらく周りを散歩して、部屋で夕飯を食べて、温泉に入った。袖が邪魔で浴衣を着てご飯を食べるのは難しい。昔、なぜか檜垣先生のゼミ旅行に着いて行ったことがあって、そこにはもうひとりの部外者としてアンヌ・ソヴァニャルグさんも来ていた。みんなで車2台に分かれて熊野まで行って、竜宮城という船でしか行けない温泉宿に泊まったのだが、そこでアンヌさんが旅館内で浴衣を着て過ごすことに戸惑っていたのを思い出した。風呂のシャンプーがタイ料理みたいな匂いで、リンスはヨーグルトみたいだった。シャンプーをするとたちどころに髪の毛がきしきしになったので心配になったが、リンスをすると直った。夜にしばらくこっちに滞在しているらしい五月女さんとさちさんと会って、サロンでしばらくお喋りした。

日記の続き#190

冷たい雨の日。傘を差してジムまで歩いて、ひとしきりトレーニングをして、外に出て閉まったビルの軒先で煙草を吸って、戻ってもうひと頑張りした。

ツイッターでたくさん見られているツイートに付いている名も無き人のリプライを見るのが好きで、マイナンバーカード義務化の話に、個人的には監視が多少面倒でも安心できて便利な社会のほうがいいと思うが、それはそれぞれの好みだと思うという旨の反応があって、「好み」という言葉にびっくりした。異なる立場の人間に理解があるような態度だが、「好み」と言ったとたんに、管理社会のなかで割を食うのは誰なのかということ、そこには「好み」など入る余地もないだろうことはスキップされる。でも世に言う「相対主義」とはこの程度のことを指しているのかもしれない。

日記の続き#189

京都に行く日。イッセイの黒いシャツと白いスエットパンツを着て出かける。シャツに袖を通しながらもう10年くらいこの服を着ているなと思った。学部生の頃、大阪の船場にあるイッセイのお店にたまに行っていて、いつも話しかけてくれる店員の小柄なお姉さんがいたのだが、決まって何着かレディースの服を試着させられた。あれはなんだったんだろう。横浜に住んでからあんまり服屋にいかなくなった。横浜にはいいお店がぜんぜんないし、服を買うために東京にいくのも面倒だ。行きの新幹線で駅で買ったおにぎりを食べて、帰りの新幹線で駅で買ったサンドイッチを食べた。キャンパスのすぐ外のファミマは喫煙者のたまり場になっていて、授業の前後に煙草を吸いながら勘違いした高校生みたいな粗暴な若者たちを眺めている。阪大も横国もこんな感じではなかったので、私立大はやはり別物だなと思う。授業で見るのは院生だけなので、彼らに比べるとぜんぜん元気がない。どちらがいいのか難しいところだ。

日記の続き#188

どうにも頭がしゃきっとしないので、ソファから少しずつ日が暮れるのを見ながら本を読んだ。

昨日難しい本は引用するつもりで読むといいと書いたが、これは文章を素材として見るということだと思う。写真家が街の景色を素材として見るように。何らかの表現に習熟するということは、経験——という語はできるなら避けたいが——を素材として何かを作ることができるということで、それは表現することであると同時にそうした素材に表現を見いだすことでもある(いぬのせなか座の山本さんがよく表現を見いだすという言い方をしていて、前から気になっていた)。哲学の文章の読み書きで言えば、難しいものが読めるようになるのはこの表現することと表現を見つけることの回路が構築されるということだと思う。昔ながらの講読レジュメがこの回路を作るのにいちばん手っ取り早いと思う。ところで、ドゥルーズは『千のプラトー』の動物−芸術論で表現という観念と所有という観念を結びつけていた。表現とは所有であり、所有とは表現である。表現とは何かに表現を帰属させることであり、表現することで初めて所有できる。知識ではなく素材を。所有=簒奪ではなく所有=贈与を。

日記の続き#187

単著単位の長い原稿を触るのは本当に苦しいので、1日ごとの時間を決めてやっていくことにした。そうでもしないとそれ以外の時間がすべて原稿をやっていない時間になる。

夜にラリュエルのPhilosophie et non-philosophieを読み始めた。フランス語の本は再読するときに話の流れを辿りなおすのに時間がかかるので、線を引きながらevernoteで読書メモも取りながら読む。僕らは再読することを前提に本を読むのが当たり前になっているが、これは変なことなんだろう。結果として再読するかどうかはどうでもよく、再読するつもりで——もうちょっと限定的に言うと、いつかどこかで引用するつもりで——読むのは難しい本を読むときのポイントかもしれない。原稿だって読書メモだっていつまで続くかわからないが、日記のおかげでいつまで続くかわからないものをとりあえずやることへの抵抗がなくなってきた気がする。ラリュエルは読んでいるとそんなに毎段落見得を切って疲れないのかと思うけど、1989年で、バディウの『存在と出来事』が1988年で、ドゥルーズの10歳くらい年下で、と考えるとここまでやらないと突き抜けられなかったんだろうなと思う。メイヤスーやブラシエはこういう勇気に励まされて出てきたんだなという感慨があった。

日記の続き#186

ちょっと前まで朝8時くらいに寝て昼3時くらいに起きるめちゃくちゃな生活だったのだが、ここのところ2時か3時には寝て午前中に起きている。家の近くの去年廃業したラブホテルの軒先にゴミが不法投棄されるようになって、それがたちどころに増えていって、もう車道にまではみ出している。通りかかるとテレビの取材が来ていて、ネットで横浜市、南区、不法投棄と調べるとしばらく前からニュースになっているようだった。夜になると酔っ払いの叫び声がよく聞こえるし、なんだか酷いところに住んでいるみたいだ。商店街も近いし作業しやすい喫茶店もたくさんあって、とても住みやすいのだけど。

夜に初めてメルカリで買った服が届いた。マルジェラの白いカーディガンで、個人が出している古着だし、2万5千円というだいぶ安めの値段だったので心配だったが新品と言ってもいいくらいの状態だった。

日記の続き#185

起きて、棒状のレーズンパンをふたつ口に入れて、しばらくだらだらして日記を書いて、外に出た。イセザキモールを歩いて久しぶりにマクドナルドに入って、ダブルチーズバーガーとポテトとコーラのセットを食べた。しょっぱさの濃淡だけがある。あとは炭酸。よくできた食事だ。カルディでコーヒー豆を買って有隣堂でノートを買ってコメダで本を読んだ。急にぐるぐるとお腹の調子が悪くなってきてトイレに行った。すぐトイレに行ける場所でよかった——やはりマックは特別なのだ——それにしてもコロナにかこつけて多くのコンビニはトイレを貸さなくなった——かなり重要なはずのインフラが不意に取り上げられたわけで、その意味するところは——それにしてもまた副交感神経が壊れてしまいそうなくらい熱い便座の季節がやってきた——などと考えながら手を洗って喫煙ブースに入った。「社長」と呼ばれるくたびれた背の低いおじさんと、「マネージャー」と呼ばれる、割れた氷のような奇妙なエイジングを施されたジーンズを履いた細身のおじさんが話している。悪いことっていろいろあるんだよ、いつも言ってるでしょ、とマネージャーが言った。でも困っている人がいたら助けるとか…… と言って社長は黙ってしまった。社長は誰かに騙されて、マネージャーは訳知りにそれはありふれたことで、気をつけるべきだったのだと諭しているようだった。彼は昔は不動産取引も今みたいに銀行を挟まず現金でやったし、それは向こうにも後ろ暗いところがあるからだし、そういうところに盗みに入っても向こうも何も言えなかったのだとか、そういう話をした。俺は知ってるよ、社長にもいつも言ってるでしょ。社長は悪い人がそんなにまっすぐに悪いことをするのが信じられないようだった。(2021年10月28日

日記の続き#184

休日。昼はどん兵衛といなり寿司を買って食べて、夜は豆乳鍋の素を買って鍋にして、それにパルミジャーノを削って入れてリゾットにして食べた。どれも美味しかった。休みの日の昼にどん兵衛といなり寿司を食べると休みの日の昼という感じがする。というか、僕は水曜以外はぜんぶ休日と言えば休日なのだが、妻が休みだと休みの日だという感じがする。

妻と話しているとどうでもいい嘘ばかりついてしまう。「伊東家の食卓」は今もネット番組として続いていて孫役で鈴木福が出ているとか、子供のときの弁当には何が入っていたかと聞かれたら、実家が鰻屋なので毎日肝吸いでそれが嫌だったとか。これは爪を噛む癖がある人がいたり、あるいはビートたけしのチックみたいな、そういうものだと思う。出口で冗談になるようにしているが、たんなる嘘だ。

日記の続き#183

ウェイトトレーニングのケミカルな疲労のあとの煙草がすごく美味しい。こないだはグリコーゲンが切れたのかすぐコーラが飲みたくなったので、今回は水ではなくポカリを飲みながらやったらマシになった気がした。専用のアプリでトレーニングの記録を取り始めて、その日の総重量を見ると、4.7トンと出て入力間違いかと思ったが50キロ10回を3セットやればそれだけで1.5トンになるのだ。自分の生活にトンという単位が入ってくるとは。

YouTubeで見た柔術のジムをやっている人の一日を撮った動画で、生徒がブリッジのドリルをしているショットにジムに放されたパグが仰向けになって床に背中を擦りつけているショットが繋がれて、その不意に映画的なモンタージュに妙に感動してしまった。自分で場所を作るなら動物がいる場所がいいなと思った。