日記の続き#245

日記の2年間はストレッチの2年間にだいたい重なる。かなり体が硬かったのが少しずつ柔らかくなってきた。誰に気づかれるわけでもないし痩せたり太ったりするわけでもないが、体の居心地がいいのはいいことだ。というより、居心地の悪さへの解像度が上がってそれを自分で癒やせるようになる。しかしそう考えると文章というものは体よりずっと変わりにくい。というか、文章は文章で、日記の2年間は博論本の2年間でもあって、こっちはこっちでやっかいなダブルライフが続いている。考えてもみてほしい。一方にはこうして毎日が締め切りのプレーンな散文があって、他方には延ばそうと思えばいくらでも延ばせてしまう締め切りの、角張った概念と脚注と原語併記にあふれた文章があるのだ。

日記の続き#244

普段使う鞄をトートバッグに変えて数週間が経った。手に持って歩くと体が振られて重心が体の外に移る感じが楽しい。リュックはほとんど服で、トートバッグはかすかに犬だ。肩に掛ける場合左肩に掛けたほうが具合がいいのは骨格の歪みによるのだろうか。歪みを助長しないように右肩で持ってみるが落ち着かない。いつものコンビニでいつもの炭酸水を買うのにも、左肩に掛けていれば左手で冷蔵庫のドアを左に向かって引っ張って、そのまま右半身を滑り込ませながら屈んで一番下の列のペットボトルを取ることができるのだが、右肩に掛けると左手でドアを開けて、お尻でドアを押さえながら屈んで左手で取る必要がある(掛けている側を傾けると紐がずり落ちる)。左肩掛けはスマホをズボンの右ポケットに、煙草とライターを左ポケットに入れる習慣ともくっついており、右肩掛けにすると左手で右ポケットのスマホを取ることになる。『モロイ』の石しゃぶりの話みたいだ。そうやっていくつかの組み合わせのあいだで身をよじらせながら生きている。

日記の続き#243

ここ3日ほどの自炊の推移。鯖の水煮缶と春菊と玉ねぎのパスタ。サンマの塩焼きと玉ねぎと白菜を入れた豚汁とほうれん草のナムルで晩ご飯にして、翌日はおかずを鶏肉を蜂蜜とレモンで炒めたものに残っていた豚汁とナムルで晩ご飯にした。朝はコンビニで買ったパンやおにぎりで、昼は外食かコンビニで済ませること多い。

サッカーを見ていると妻が床に寝転んでいて、寝たまま手を伸ばしてホットカーペットを強くしたり弱くしたりしているのでDJやんかと言った。

日記の続き#242

ワールドカップを見ていると「リスペクトしすぎる」という言葉がよく使われていて奇妙に思う。格上相手に積極的にボールに向かえず後手に回るということなのだが、要はビビっているのであって、しかしビビっているという言葉を避ける心性のよりどころとしていつのまにかそういう奇妙な言葉が繁茂してしまっているのだ。あらためてミームというのは恐ろしい。まずボールとゴールがあって、その手前に自分らが、そのあいだに——たまたま、と言ってもいいかもしれない——相手がいる。そういう順番で考えていればそんな言葉は出てこないはずだ。彼らはまず相手がいて、それとの折衝如何でゴール——得点という意味ですらなく——があったりなかったりすると考えている。くだらない。

日記の続き#241

こないだ黒嵜さんと話していて彼の知り合いの仏教研究者が瞑想の最先端はインドでも日本でもなくミャンマーにあると言っていたと聞く。それでミャンマー取材と座談会をくっつけて仏教、マインドフルネス、ADHDと情報環境の関係、あるいは他のプチ内在系の実践との違いなどについて話せたら面白そうという話になった。実際できるかはわからないが彼と話すといつも企画の話になるので楽しい。それで、ちょうど家でひとりだったので瞑想をやってみることにした。iPhoneのタイマーを30分にセットして、クッションを二つ折りにして高めの座布団としてお尻の下に敷いて、脚を組んで壁の前に座ってまぶたの力を抜く。心が鎮まるというより、体の中のざわざわと体の外のざわざわがざわざわとして一元化されていくような感覚がある。工事の音、冷蔵庫の音、商店街の放送、ときおり顔が浮かび上がる壁の肌理、胃が少し張っている感じ、手が温かくなっていく、雑多な思いなし。途中2回長いなと思ったがそれすらひとつとして過ぎていってタイマーが鳴った。「座りの悪さ」を全感覚に、あるいは野外に拡張したような30分だった。猿が檻の壁を跳ね回っているような。今調べたら「据わり」のほうがメジャーな表記らしい。いずれにせよ座り・据わりの悪さの脱構築として、あるいは檻を壊すのではなくどこまでも広げるようなものとして感じられた。

日記の続き#239

非常勤で京都に行ったのが水曜。授業後に黒嵜さんと左藤くんと河原町で合流して、そのまま朝まで首塚で喋っていた。起きたら夕方で、木曜の夜に横浜に帰ってきて少し寝て朝4時からの日本対スペイン戦を見て、起きたら今日、金曜の昼過ぎだった。めまぐるしい。

しかしまさかドイツとスペインに勝ってグループリーグを首位で突破するとは。いずれの試合もボール保持率は20パーセント以下で、これはサッカーにとってポゼッションとは何なのかという問いを世界に投げかける結果になったと思う。これをVAR判定がなければ2点目のゴールがなかっただろうことと考え合わせると(1.8ミリだけボールがフィールドに残っていたらしい)、サッカーは何かそこで局所と大勢が交差するまだ誰も知らないニッチを巡って動くものに変わってきているようにも思える。

日記の続き#238

不思議なもので、あれほど8時に飲食店が閉まってしまうことを窮屈に思っていたのに、感染者数が落ち着いて緊急事態宣言が解かれると家を出る気がなくなってしまった。しばらく買い物以外でほとんど外に出ていないし、作業も家でやって、髭も剃らなくなってしまった。それはそれで落ち着いていろいろ進められるからいいのだけど、気づかないうちに何か鬱屈が澱のように溜まってしまうのだと思う。SNSはそういうもののはけ口として怖いくらいよくできていて、見ていると世界がぎゅーっと狭まって、抽象的なものになって、それで不用意なことを言ってしまったりする。落ち着くために翻訳を進めた。風呂に入ってストレッチもした。どうして自分を維持するというだけでこんなに大変なんだろう。そういう過酷さへの憎悪さえ食い物にされている。でもこの憎悪が削がれてしまうことのほうが怖い。(2021年12月7日

日記の続き#237

博論本の原稿を読み返しながらドゥルーズの「反−実現」について考えていたからだと思うが、「哲学はあるっちゃあるしないっちゃないものの取り扱いだ」という言葉が思い浮かんで、「あるともないとも言わない」と付け加えてツイートした。哲学は、あるっちゃあるしないっちゃないものの、あるともないとも言わない取り扱いだ。だから概念が要るし(自由の概念が存在することは自由があるという言明とは違う)、哲学(philosophy)が愛(philia)と関わるのはそのためだ。これはドゥルーズについて僕が考えていることと、こないだ読んだ『パイドロス』のあいだに張られた糸として出てきた言葉かもしれない。恋を世俗的な損得に引き下げる、つまり恋をあまりに実現させすぎる言説に対するパリノードとして語られる哲学。エロスに報いる取り消しの歌。反−実現。

日記の続き#236

やよい軒でカキフライ御前を食べて外に出ると日が暮れ始めていて、脱いでいたカーディガンを羽織りなおす。なんだか心が透明になってしまって、イセザキモールですれ違う人々にいちいち頭のなかで俺もそうだよとつぶやく。いたたまれない気持ちで有隣堂に入り村上春樹が訳した後期フィッツジェラルドの短編とエッセイが収められた本を買う。ドトールに入ると店員が若い日本人の男女で、このあたりにこんなお店はここだけだと思う。彼らはあちら側にいて、僕が「あちら」側のひとりとして眺められているようで落ち着かない気持ちで豆乳ラテを待つ。もう妻は家にいる時間だが、こんな気持ちでは帰れないと思ってスーパーで玉ねぎと挽き肉を買って帰って、玉ねぎが色づくまでの永遠を使って体を家に慣らした。

「私はよく覚えている。市内に誰一人友だちがおらず、訪問すべき家を一軒も持たなかったあるクリスマスのことを。我々はすがりつく柱を見つけられなかったので、自分たちがささやかな柱となり、少しずつではあるがその八方破れのパーソナリティーをニューヨークの同時代風景にはめ込んでいった。あるいはニューヨークは我々のことなど目に入らず、好きにさせておいてくれたというべきか。」
フィッツジェラルド「私の失われた都市」(村上春樹編訳『ある作家の夕刻——フィッツジェラルド後期作品集』)