日記の続き#56

午前11時半。京都駅に向かう新幹線の中。ツイッターでおすすめされていたUAの新譜が素敵で、繰り返し聴いている。聴いていると自分の心が、たくさん泣いたあとみたいに湿ってふやけていることに気がついた。音楽がすっと入ってくるときはそういう気持ちになっていることが多い。逆のほうが正確かもしれない。薄荷の涼しさは泣きやんだ目元を撫でる風の涼しさだ。もうすぐ30にもなるのに、僕は自分の気持ちのことをよくわかっていない。表情も乏しいし、人に気さくに話しかけることもできない。お酒も飲まないし、カラオケも苦手だ。ひとりになるとほっとするし、平日の昼に思いきり昼寝できるいまの生活を気に入っている。たぶん僕の頭のなかはあまりに文語的で、家で彼女がひっきりなしに話すことのほとんどにまともに返答できない。誇張なしに15秒にいちどくらい話題が変わるのだ。それで聞いてるのと言われるので、マンガで吹き出しの外に「ぺちゃぺちゃ」って書いてあるやつみたいに聞こえるんよと言う。それはわれわれの親密さ——抽象名詞!——を確認するやりとりなのだが、なんでこんなに違うんだろうと思う。何か話してと言われるのだが、頭の中は言葉でいっぱいなのに、鼻歌で歌えたものがカラオケだと歌えないみたいに、何を言っていいのかわからなくなる。そうやって何かが澱のように少しずつ心に溜まっていくのだ。僕は岡山から出て10年かけて自分の口語を殺してきたんだと思う。「〜なんよ」という、同郷の千鳥のおかげで書字に耐えうるものになった語尾だけ残して。