11月19日

朝帰ってきて昼過ぎまで寝て、夜にはまた寝たので短い一日だった。みぞれ鍋を作った。大根を1本まるごとすりおろして、手首と肩が痛くなった。みぞれ鍋を食べながら弟者たちが桃鉄をプレイしている動画を妻と見た。年末みたいと彼女が言った。

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11月18日

それぞれ1時間半くらいかけて移動して三つの場所に行き、都合7人の友人に会った。曳舟、向島、北千住、上井草、野方、初めて行くのに知っている小さな地名たち。

昼に家を出て、百頭さんの個展を見に行く。京急で浅草線に乗り入れて押上まで行って、そこから京成線に乗り換えて曳舟で降りる。歩いていると郵便局の名前に「向島」とあり、曳舟と向島が隣り合っていることを知る。たしかに、低層のアパートや商店、会社が並ぶ町並み越しに600メートル超のスカイツリーが見えるのは、戦後の街から見上げる東京タワーに比例してはいるのかもしれない。ギャラリーに入ると百頭さんがお茶を出してくれる。写真を見ていると黒嵜さんが来て、映像作品がある2階に上がっているときにこの建物が首塚に似ていることに気がつく。展示はすごく面白かった。都市の縁に点在するジャンクヤードにうずたかく積み上がる、いわば「分別以上、処理未満」の産業廃棄物が本来過渡的であるはずのその身分とは裏腹に、不気味に静かに写し取られている。自転車は自転車だけ、車のハンドルは車のハンドルだけである区画を満たし、鉄が錆びプラスチックが褪色するなか、ヤードを取り囲む銀や白の鋼板だけが風化を免れて直線的に立ちはだかる。写真はその平面性を強調するが、逆なのかもしれない。「分別都市」という言葉が思い浮かぶ。それは「サプライチェーン」や「リサイクル」という言葉が喚起する時間性の裏側にある。そしてそれはやはり写真の別名でもあるだろう。百頭さんはもう10年以上も毎週のように、Googleアース、ストリートビューで撮影地を探し、そこに行って写真を撮っているらしい(映像作品のひとつは、彼がPC上でストリートビューと現地で撮影した写真を往復する様子をキャプチャしたものだ)。それはすでに撮られている。「撮る」ということがここでは、さらにもっとずっと前から始まっている。そしてそこでは、拾い上げられた木彫りの大黒さま、サンタクロースやアニメキャラの置物がポーズを取っている。

黒嵜さんと友人宅に向かい、そこでお世話になっているふたりの編集者と会ってご飯をご馳走になって、帰ろうと思ったら乗り換えが間に合わず終電を逃して、大和田さんの家に泊まっている黒嵜さんにまた合流して、朝まで喋って帰った。

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11月17日

妻と一緒に出かけて近所のカフェで作業をする。昼食はなか卯。彼女が親子丼で、僕がカツ丼。帰りにイセザキモールのユニクロに寄る。僕がどちらもレディースの薄い黄色のボアフリースジャケットとブルーグレーのダウンジャケットを買って、彼女はピンクのニット帽を買っていた。

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11月16日

外で作業。またあいだに丸亀製麺を挟む。書いて、詰まったらノートにその時点で頭にあるプロットを書き出す。かつて「パラグラフ・パッド」と名付けて使っていた書き方だ。かれこれ同じトピックについて4通りもプロットを作っている。1段落進む。プロットを作る。続きを書き出してみたものの、あるセンテンスの途中でつっかえる。さっきと少し違うかたちで論点を整理する。やはり書けない。その段落をエディタの下の方に追いやって、別の言い回しで始めてみる。実際は文献との行き来もあるので作業はもっとこじれているが、そうやってあちこちで壁にぶつかりながら蟻のように書いている。このやり方がいいのは、懊悩がそれはそれでひとつの作業になることだ。それで楽になることはないが、書けなさを内面化しなくてすむ。

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11月15日

何を着ればいいのかわからずシャツの上にダウンジャケットを羽織って出かけたが、それでちょうどよかった。朝ご飯を買って新幹線に乗る。2コマ授業をして、京都駅にとって返して伊勢丹の地下で弁当を買って新幹線に乗る。哲学研究の学生にはあなたが読めるようになり、あなたが読んでいるようにこの場にいるみんなが読めるように書ければそれで十分ですと言い、ゲーム研究の学生には細かくて面白いことを集めてくださいと言った。テーマやジャンルや新規性のような目に見えないものを相手にしだすと研究は迷走する。でもそれは社交のツール以上でも以下でもない。たとえば「文学の本質」のような目に見えないものを言いたい場合、それがたんなる辞書的な定義に堕さないためには、限定された作品の特定の読み方によって導かれるものとして言うことになるわけで、それは正しさよりも「のるかそるか」を突きつけるパフォーマンスとしてやらざるをえない。でもそれはずっとあとの、あるいはずっと前にもう終わっている話だ。

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11月14日

「「踊りましょう」と言っても空しい。そんなに陽気ではないのだ。「死とは何と不幸なことだ」と言っても空しい。失われる何かをもつためにはまず生きるのでなければならなかっただろう。」

ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ——ドゥルーズの思想』江川隆男+増田靖彦訳、河出文庫、107頁。

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11月13日

朝まで起きて授業の準備をするはずが、どうにも手を着ける気になれずだらだら過ごして寝室に行くともうぼんやりと日が差していた。3時間ほど寝て起きて準備をして大学に行く。講義はフーコーの「言表」概念について。語られたことからそれを背後からとりまとめる形式を取り去ったあとで、語られたことのユニットをどこに見出すのか。論理学的な命題も言語学的な文も、ある言葉を「ひとつ」のものとして見るために外在的な予断を含んでいる。言表が「ひとつ」のものになるのはその形式によってではなく、機能によってである。乱数表であれ非文法的な文であれ、「そういうものとして」機能する限りにおいて言表である。言表に形式的な定義を与えるとすれば、「最小限の蓋然性をそなえた記号列」であるという以上のことは言えず、ちょうど生成AIの仕組みのように言表が置かれるためにはそのつどの蓋然性以外の支えを必要とせず、言表はまた、発せられるたびにその蓋然性を変移させる。「完全に言語学的でもなくもっぱら物理的であるのでもない奇妙な存在」。言語学的でないのは演繹的な形式化を逃れるからであり、物理的でないのは言表がひとつの支持体に縛り付けられず、反復可能だからである。どうして日記の哲学の授業でこんな話をするのか。本当は順番が逆で、日記を通して哲学に還っているのだが、それは僕の話なのでしない。授業としてのそれらしさに偽装して話す。帰り道、丘を下っていく道で見る空が、今朝見た薄明と同じ色で暮れていた。

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11月12日

最近塩化マグネシウムを入れた風呂に入るのにはまっている。体がよくほぐれるし、肌や髪もきれいになる気がする。それに、入浴剤よりずっと安い。マグネシウムは経皮吸収のほうが効率がいいらしいが、本当だろうか。こないだまで夏日が続いていたと思ったらもう日中も10度までしか上がらず、携帯を持って入って20分湯に浸かることにする。18分が経って、熱いので栓を抜いて減っていく湯のなかに浸かる。水位が下がるにつれて体が重たくなっていく。体が湯を吸っているかのように。空になった浴槽にしばらく座る。両手をついて体を持ち上げる。

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11月11日

酉の市1日目。妻と晩ご飯の材料を買いに出るが、家の周りがぎゅうぎゅうに混んでいてなかなか進まない。道に沿って並ぶ熊手を見ていると、ダウン症の青年がハッピを来たおばさんから小さな熊手を受け取り、ショータ、ゲン担ぎだよといって背中をばんばんと叩かれていて、いいものを見たなと思った。

博論本。原稿をそのまま書き進めるのではなく、書いている節の本文をまるまるworkflowyに移して段落ごとにタイトルをつけながらそのまとまりとつながりをチェックする。そのうえでスタックしている箇所について紙のノートでなぜそうなっているのか分析したり、トピックの頭出しやテクストの引用しそうな箇所について、コピペしたドラフトの下に立項していく。それでやっと動き出しそうな気がしてくる。進まないときはむりやり進めるのではなく、その停止自体を手を動かす口実にしたほうがいい。でもそのタイミングは意識すれば見極められるようなものでもない。進まないときに進めないと進まないこともまた事実だからだ。

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11月10日

家の周りで酉の市の準備が始まっている。珈琲館で作業をして、昨日に続き関内の丸亀製麺で昼ご飯を食べて、カフェドクリエで作業をしてスーパーに寄って帰る。夕飯に麻婆豆腐を作る。湯を沸かしておいてにんにく、生姜、ネギ、にんにくの芽、トウチを刻み、顆粒の鶏ガラスープを1カップと水溶き片栗粉を作っておく。ここまでが準備。挽き肉をある程度水気が飛ぶまで炒めてバットに上げる。フライパンに油を足してにんにく、生姜、豆板醤、甜麺醤にしっかり火を通す。そのあいだに豆腐を鍋に入れておく。挽き肉を戻してトウチ、豆腐、にんにくの芽を入れてスープを煮立たせる。いったん火を止めて水溶き片栗粉でゆるめにとろみをつけて、強く煮立たせてネギを入れてゴマ油を回しかけて出来上がり。これまでは肉を炒めるときにあらかじめ肉味噌を作るように醤油と甜麺醤で味を付けていたのだけど、肉だけにしっかり火を通したことによって全体の食感のばらつきが際立って、醤油のせいで「おかず」っぽい味に均されていたのもなくなった。小倉知巳は動画でいつも「イタリア料理はムラの美学」と言っているが、麻婆豆腐も食感のばらつきや、うまみや辛みに回収されない香りのばらつきが大事なのだと思った。食べ始めてから花椒をかけるのを忘れていたことに気がついたが、なくていいなと思った。

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