11月9日

昨日は新幹線でカフェラテをこぼされたと思ったら、今朝は自分でヨーグルトの容器を落としてこぼした。

投稿日:
カテゴリー: 日記

11月8日

めずらしくちゃんと夜寝た状態で京都に行くことができて、早めに家を出て新幹線の待合で日記を書き終えて、車内で授業で扱う論文を読む。隣の席の男が電話を受けて席を立って、前のポケットに挟んでいた僕のカフェラテを落とした。どうするのかなと思ったらすみませんと言ってそのままデッキのほうへ行ってしまい、静かに呆然とした。ティッシュで床を拭いてカップとともにゴミ箱に捨てて席に戻って、僕はなんと言うべきなのだろうかと考える。しばらくすると男が帰ってきて、すみませんでしたと言って席に戻る。僕は無視をした。というか、「いえいえ」も、「あなたがこぼしたのに拭かないのはおかしいですよ」も、出てこなかったのだ。思えば僕は何十年も他人に怒った経験がなく、口頭で怒るという言葉の回路が死んでいるんだろう。あなたは自分でこぼしておいて、電話を優先して出て行った、それでこの話はもう終わっており、そのあと謝ろうが、僕が怒鳴ってどやしつけようが、あなたがそういう人間だという事実は変わらないのだ、だから僕はもうあなたが存在しないものとして振る舞うのだと、頭のなかで言葉がぐるぐるする。授業を終えて、ちゃんと寝ていてまだ元気があったので、久しぶりに京都駅の英國屋に行ってしばらく作業をしてから帰った。帰りは空いたひかりに乗って、やはりひかりがいいのだと思った。

投稿日:
カテゴリー: 日記

11月7日

昼、「言葉と物」の担当編集と電話。こないだ出した初稿についてのことかなと思ったら休載の提案だった。博論本も大詰めのようですし、いちどそちらに集中してもらったほうが、どちらの仕事にとってもよいのではないか、連載は連載で楽しんで書いてもらいたいし、博論本も大事な仕事ですし、ということだった。いやあ、ほんとにそうですね、ここのところ頭のなかでいろんな仕事が混ざってきていて、もちろんそれぞれネタは分けてるし、それが「ひとつ」のことであることがあとからわかるのも面白いと思うんだけど、ここまではよかったとしてもこれがまだ数ヶ月続くとキツいですね、そう言ってもらえてありがたいです。ということで、11月末、12月末の締め切りの回はスキップして、1月末まで連載のことは考えなくてよくなった。別の仕事との兼ね合いまで考えてくれるなんてなかなかないよなと思う。自分でぎゅうぎゅうに追い詰めてしまっていたのだなと思う。

博論本、連載、日記、立命館での院生へのアドバイス、横国での日記と哲学の授業、PARAでの郵便本講読。それぞれの仕事に別の仕事で考えたことがくっついてきて、〈一と多の往還〉が起こる。それは自分がひとりの人間であるということを思考の手段とすることだ。しかしそれぞれの仕事もまた「ひとつ」のものであって、つまり、自分の「ひとり性」と各仕事の「ひとつ性」がともに維持できる程度に仕事の分散はセーブしたほうがいい。そうしないと僕の「ひとり性」に従属して仕事の自律的価値が損なわれたり、たんにそれぞれが一様になったりする。

夕方、戸塚の耳鼻科で2度目のBスポット治療。待合のテレビで11月に3度も夏日が記録されるのは観測史上初だと言われる。たしかにまだ暑い。やはりこれは変なことなのだ。

投稿日:
カテゴリー: 日記

11月6日

横国の授業とPARAの講座が重なる初めての日。これから何度かこういう日がある。授業準備がギリギリになって、大学を出て新横浜のミスドに入ってやっと日記が書ける。ドーナツをふたつ食べて新横浜線1本で神保町へ。ドトールで『存在論的、郵便的』第3章の冒頭を読んで、PARAで講読をする。今日はたくさん喋ったな、自分は喋るのが得意なんじゃないかと思いながら帰る。黄金町で降りて、今日はまだドーナツしか食べていないと気付いて松のやに入ってカキフライを食べて帰るともう12時で、妻ももう寝ていたので、そのまま歯磨きだけして寝た。

投稿日:
カテゴリー: 日記

11月5日

授業の準備をするのが面倒で夜中までぐずぐずして、やってから寝るか寝て早起きしてやるかぎりぎりと先送りにして結局ちょっとやってちょっと寝て起きてやった。フーコーの言説/言表理論について話そうと思って、しかし90分でやるのは無謀なことだと思って言説のことだけまとめて昼に家を出た。日記を書く間がなく、授業が終わって神保町PARAに向かう前に新横浜のミスタードーナツで、いま、日記を書いている。

投稿日:
カテゴリー: 日記

11月4日

昼過ぎに起きてシャワーを浴びて、五月女さんと彼のお父さんとおじいさんの展示を妻と上野に見に行く。日記は電車のなかで携帯で書いた。上野公園を横切って住宅街に入る。古いアパートの最上階の三つの部屋に分かれたギャラリーで、おじいさん、お父さん、五月女さんの作品が順にふたつずつ展示されている。同じかたちの部屋に、同じ配置で、同じサイズで。しかしお父さん(政巳さん)の部屋にだけ入口の近くにスケッチブックを撮影したスライドが流される小さなディスプレイがあって、そこには小山市旧市庁舎の解体の様子を1年半以上ものあいだ描き続けているスケッチが映し出されている。展示を見終わって部屋を出ると五月女さんがいて、そこに百頭さんと藤林さんが階段を上がってきて、みんなで屋上に行って話をする。不規則にうねった区画に背の低い住宅がぎっしりと詰まっている。同じ小山市出身の大和田さんの話になって、彼が地元にいるとき五月女さんを誘ったのだが体調が悪いので行けないと言うと、公園でひとりでクリケットの練習をしているインド人に「ナイス」と声をかける動画が送られてきたらしい。みんな大和田さんの変なエピソードをひとつはもっていて、彼がいなくてもその話で場が明るくなる。お父さんも上がってきて、「俺はオンブズマンだから」と言って、遅々として進まない工事を描く理由を説明する。オンブズマンであること、重機、土、作業員を描くこと。そのふたつは彼のなかでごく当然のこととして繋がっている。その当然さがこの100年の、いちどお邪魔した、猫たちの住む家のある、あの町の一部なのだと思う。

投稿日:
カテゴリー: 日記

11月3日

朝までかかってやっと「言葉と物」第6回の原稿が終わる。日記とドゥルーズという、それぞれ何年も考えてきたことだが、それをひとつのものにしようとすると大変だった。床に座ってスツールにパソコンを置いたり、キッチンの小さなカウンターにおいて立って書いたりした。もともと書こうと思っていたラトゥールとフーコーの話はまるまる後回しになった。これは「理論に何の意味があるか」というテーマで次回以降どこかで書こうと思う。

投稿日:
カテゴリー: 日記

11月2日

一日中原稿をやっていたが結局終わらなかった。字数的にはもう書かなくてもいいし、内容も面白いと思うのだが、もともと書こうと思っていたトピックにまだたどりついていなくて、それは次回以降に回すとしても別の終わり方を見つけなければならず、それがまだできていない。

「頭を使う」ことと「考える」ことは違うことだと思う。頭は勝手に使われるのであって、たとえば読書ノートを取るより読み終わってから感想を書いたほうがその本の内容をよく憶えられると思う。しかしそれはまんべんなく全体的な内容ではなく必然的に偏った内容であり、頭を使う、あるいは頭を使わせておくというのは、この偏りのジェネレーターとして頭を使うということで、考えるというのは、勝手に生まれた偏りを再度本のほうに差し戻して偏りにそれなりの十全性を宿したり、別のものに繋げたりすることだ。脳は畑で、考えるのは農夫だ。季節があって、風が吹いて、虫がやってくる。トラクターがあって、農協があって、道の駅がある。

夜7時頃、イセザキモールを北に一本入った路上で男3人が刺されたというニュースが流れる。通り魔かと思って家を出ないようにしようと思ったが、しばらくすると日本人とタイ料理店員のいざこざらしいという続報がある。酔っ払った日本人グループが店の前の自転車を倒して、そこからケンカになったようだ。

投稿日:
カテゴリー: 日記

11月1日

締め切りを3日延ばしてもらった。見たくないし、なくても大丈夫だと思ってパソコンを置いて家を出て京都に向かう。日記は引用で済ませ、携帯から投稿する。行きは乗ったバスが立命館を通り越して金閣寺まで行ってしまい、帰りの新幹線は寝過ごして品川まで行ってしまった。家を出たのも帰ってきたのも9時。妻が作ってくれたご飯を食べ、ゆっくり風呂に入って寝た。

投稿日:
カテゴリー: 日記

10月31日

「私たちは無用の言葉によって、さらには途轍もない量の言葉と映像によって責めさいなまれている。愚劣さはけっして口をつぐもうとしなかったし、目を閉じようともしなかったのです。そこで問題になってくるのは、もはや人びとに考えを述べてもらうことではなく、孤独と沈黙の気泡をととのえてやり、そこで初めて言うべきことが見つかるように手助けしてやることなのです。押さえつけようとする力は、人びとが考えを述べることをさまたげるのではなく、逆に考えを述べることを強要する。いまもとめられているのは、言うべきことが何もないという喜び、何も言わずにすませる権利です。これこそ、少しは言うに値する疎らなもの、あるいは疎隔されたものが形成されるための条件なのですから。私たちを疲弊させているのは伝達の妨害ではなく、なんの面白みもない文なのです。ところが、いわゆる意味というものは、文がよびさます興味のことにほかならない。それ以外に意味の定義はありえないし、この定義自体、文の新しさと一体をなしている。何時間もつづけて人の話を聞いてみても、まったく興味がもてない……。だからこそ議論をすることが困難になるわけだし、またけっして議論などしてはならないことにもなるのです。まさか相手に面と向かって「きみの話は面白くともなんともない」と決めつけるわけにはいきませんからね。「それは間違っている」と指摘するくらいなら許されるでしょう。しかし人の話はけっして間違っていないのです。間違っているのではなくて、愚劣であるか、なんの重要性ももたないだけなのです。」ジル・ドゥルーズ『記号と事件——1972-1990年の対話』宮林寛訳、河出文庫、2007年、260-261頁(原著を確認のうえ訳語を変更した箇所がある)。

投稿日:
カテゴリー: 日記