左手のない猿

起きてテレビをつけると、昼前のニュースに左手のない猿が出てきた。

その猿ははじめ、去年4月に福島で目撃され、栃木や茨城でも同じ猿と思われる猿が出没し、東京を超えて秋には静岡にまで移動していた。ニュースでは推測される移動経路に合わせて、左手のない猿の写真をなぞったイラストが関東の地図の上に順番にポップアップしている。

再度都内に出没した猿を通行人がスマホで撮影した動画が流れる。左手のない猿は買い物袋を提げた女性に二足歩行で近づく。女性はティッシュ配りを無視するくらいにしか自身の歩みを乱さなかった。「猿だ」という撮影者の声が入っている。

左手のない、二足歩行の猿。それはどこかひとごとでない感じがした。

嶋泰造の『親指はなぜ太いのか』は、人類の直立化について、「口と手連合仮説」という興味深い仮説を提唱している。

嶋は、霊長類の骨格は、その種にとっての主食と強く連関していると考えた。主食とはそのままその種にとってのニッチであり、ニッチを発見するということは、誰も食べないものを食べるということだ。

そしてヒトは、どの霊長類より硬いエナメル質の歯をもち、直立二足歩行で、手指は親指とそれ以外が対をなしている。ガゼルのように草原を速く走り抜けられるわけでもなく、オラウータンのように枝から枝にブラキエーションするのに向いているわけでもないこの奇妙な体は、どのようなニッチに対応していたのか。

肉食獣が食べ残した死骸の骨を拾って、安全な森に持ち帰って噛み砕いて食べていたのではないか、というのが嶋の仮説だ。つまり、人類の手が地面から解放されたのは、もとよりそれが道具の制作・使用に適した器用さをもっていたからではなく、たんに拾った骨で塞がっていたからではないか、ということだ。

この仮説は『非美学』の第3章でも、ドゥルーズが参照しているルロワ゠グーランの『身ぶりと言葉』を引き継ぐ仕事として紹介した。彼らに共通するのは、脳が大きくなって器用になり言葉を話せるようになったという脳中心主義への懐疑だ。直立化によって掌と口腔にスペースが生まれた結果として道具と言葉が生まれ、さらに、そうして生まれた道具と言葉との相互作用の結果として脳が発達した。

『非美学』ではそれを、動物の「環境」から人間の「社会」を分つ、人間に固有なものとしての言葉と物の二元論の話に接続したが、嶋の仮説は骨で「手が塞がった」から二足歩行を強いられたのだというところが面白い。なぜならそれは直立化によって得られたものから直立化を説明するのではなく、与えられた状況から出発してそこからの質的な飛躍を説明するロジックだからだ。

片手を失った猿は二足歩行をする。もちろんそれが初期人類の骨食仮説を裏付けるわけではない。しかし手が塞がることと手を失うことの等価性にある悲哀は、何かを考えろと僕の頭のなかで呼びかけ続けている。

いや、これでは正確ではない。手が塞がることと手を失うことの等価性がこの一匹の猿において実現されてしまっていることの悲哀が、ひとつの独特な疑問符として僕の頭の中に投げ込まれてしまったのだ。そのようにしてわれわれは考える。そのようにしてしかわれわれは考えない。

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カテゴリー: 日記

文筆と二次使用

ひとつエッセイを書き終わった。

それは結果として、『ひとごと』に収録された「スモーキング・エリア#2——音響空間の骨相学」と「Tele-visionは離れて見てね」というエッセイの続き、というか、後日譚のようなものになった。

エッセイはぱっと来てぱっと返すもので、とうぜん独立して読み切れるものなので、そのなかでこうして、三つの文章をまたぐテーマ系が生まれるのは独特の嬉しさがある。理論は後からやってくるものだということが体感できるというか。

三つのエッセイには、ひとことで言えば「視聴覚室としての居間」というテーマが通底している。食卓があってテレビがあるというモデルという単純なモデルのあとで、視聴覚機器にあふれた部屋のなかで、どのような団欒のかたちがありうるのか。

たとえば西川裕子の『借家と持ち家の文学史』という、明治以降の日本文学を作家の、そして作品内の人物の居住環境と家族形態の変化という観点から総覧する、新聞連載をもとにした本がある。彼女自身は論争的な書き方をしているわけではないが、風景と内面のカップリングという柄谷的な図式をマテリアリスティックに解体する仕事とも言えるだろう。風景と内面の両極のあいだにある家という中間的なスケールから後発する〈私〉のかたちを辿ること。それは西川の『日記をつづるということ』にも通底する態度だ。

それで、「視聴覚室としての居間」プロジェクトは西川のスタンスを僕なりに引き継ぐ仕事でもあると思う。これまで書いてきた一連の展評/インスタレーション・アート論も視聴覚室の話として統合しうる。日記論の次に一冊の本というスケールで展開するのは部屋の話になるのかもしれない。ちょうど昨日、レビューを書く予定のグループ展を見たのだが、それもインテリアという観点で書くことになりそうで、自分の部屋についての一連のエッセイと美術批評の蝶番になるだろう。

ともかく、今回書こうと思うのは、このようにアイデアが育っていくときに何が起こっているのかということだ。僕はよくアイデアを「転がす」という言い方をするが、その内実はどのようになっていて、とりわけ文筆業という仕事の構造とどのように関わっているのか。とりわけ文章の二次使用という観点から書いてみようともう。

あらためて不思議なのは、文章というプロダクトは二次使用のハードルがとても低いということだ。どこかの雑誌やウェブメディアに書いた文章を、他の版元から出す本に載せるというときに、ダメだと言われることもないし、お金を取られることもない。クライアントワークなのに納品したものの所有権は書き手にあるという、変な構造なのだ。

それが法的なものなのか慣習的なものなのか、詳しいところは知らないが、ともかく、「書き下ろし」が特別感をもつくらいには、二次使用は文筆の世界で常態化している。そして、依頼をもらって文章を書くということを始めてから10年弱が経って、この二次使用のリズムと、自分のアイデアの発展のあいだには強いつながりがあるということに気づいてきた。

『非美学』も博論の二次使用だし、『ひとごと』も書き下ろしたのはまえがきと巻末の解題だけだ。かつて書いたものでも、本というパッケージのもとで刊行されると「今」出たものとして受け取られる。これがもうひとつの不思議なことだ。

このふたつの不思議が交差するところにある、僕なりの方針が、短い依頼原稿も含めてすべて「本」というパッケージを向こうに透かし見ながら仕事をするということだ。日記を書き始めたときもすぐにこれは本になるなと思ったし、ウェブ版美術手帖に展示レビューをいくつか書いていた時期も、これは本にまとめることを前提に書かないとその場で消費されて何も積み上がらないなと思っていた。つまり、極端な言い方をすれば、僕はあらゆる文章を二次使用を前提に書いている。

それがいちばん変なかたちで表れているのが、日記と「言葉と物」という連載原稿の関係だ。「言葉と物」では自分の日記をまるごとブロック引用して貼り付けたりしている。日記はアイデア出しの場でもあって、もちろん引用というかたちを取らずに同じ内容を書くことはできるし、そうしている場合もある。でも、実際リアルタイムで公開された日記をそのまま引っ張ってくるほうが妙な説得力も宿るし、回を追うに従って日記そのものが連載のテーマに食い込んできた。

もっと言えば、日記、「言葉と物」、『非美学』、そして『ひとごと』のあいだには無数の二次使用=自己引用が張り巡らされていて、田中功起さんと対談したときに彼は「マーベル・シネマティック・ユニバース」みたいだと思ったと言ってくれた。

しかしそれは、古きよきインターテクスチャリティを復活させようとか、福尾匠という固有名を断片化させようとか、前のめりでやっていることではなく、「同じ人間が同じ時期に書いたことなんだから」という、むしろ脱力の帰結として起こっているということが面白いと思っている。ハードな哲学書から日記までのスペクトラムが、しかし「同じ」ことなのだと言うのはたやすいが、上述の僕の4つの仕事はそれを実践しようとしている。

あるいは、もっとプラクティカルなこととして、何度も同じ事を言ってみないとその勘所が自分でもわからない、ということがある。たとえばYouTubeに動画も上がっている僕のじんぶん大賞受賞スピーチの、作ることと人間どうしの非対称な関係についての話は、あの5分間のスピーチに圧縮されるまでに、レクチャーや新聞の取材やトークイベントで何度も、それぞれ微妙に違う文脈で話してきた。文字通り「差異と反復」で、繰り返しているうちに変わったり、変わったことに気づかずに繰り返したりしているうちに出来上がっていく。それがアイデアを「転がす」ということで、それを大小様々なスケールで並走させることが、僕にとっての「考える」ということのかたちだ。

あらゆる言葉は誰かが言ったことの引用であるというところまで敷衍するとかえって張り合いがなくなるが、何かを言うことはつねに、かつて言えなかったことを言おうとすることだという感覚がある。僕は自分が喋っている動画を見るのがけっこう好きで、それはたんなるナルシシズムでもないし、勤勉な反省でもなく、言えたことと言えなかったことの境界線を辿るように見返すうちに、それがいまの自分の輪郭として納得されていく感覚がある。そういうセルフモニタリングを介さず、もともと開いた身体で書けるひともいるのかもしれないが、少なくとも僕は、毎日体重計に乗るひとがいるように、すでに言ったこと・書いたことを外的な指標としてそのときどきの思考のサイズ感を測っている。