7月15日

立教での最後の授業。期末テストという名のレポート書き写し会は残っているが、講義は今日で終わり。時間が少し残ったので、最後にあらためて、いま日記を通してライフとログ、生活と記録、生きることと書くことの関係を考えることの意味についてその場で考えながら喋った。それをもとに書いておく。

チャット、ツイート、コメント。これら数十字単位のコミュニケーションに「書くこと」が押し込められるのは、抗いがたい流れである。小さなテキストボックスに最適化された言葉はアテンションエコノミーの構造と骨絡みになっている。しかし日記という、1日400字くらいのスケールのなかでは、数十字スケールの言葉とはまったく異質なことが起こる。それはたんなる量的な違いではない。2000字書く、1万字書く、それはそれでそれぞれのスケールに固有の言葉の動き方があるが、数十字と400字のあいだのギャップほどの異質性はないだろう。日記を書くことは、その1ページ400字の日記帳が、日々の傍らでずっと開かれた状態であるということだ。いつでもテキストボックスの外に出られること。それは生を社会に閉じ込めないことでもある。

夜にはもう何人かリアクションペーパーを提出していて、授業全体の感想も書くように頼んでいたので読んでみた。たぶん理系の、野球部の寮長だったという、いかにも就活とかで「自分は」という主語で話しそうな感じの学生が、自分は論理的な思考を重視する傾向があるので日記を書こうと思ったことはなかったが、授業を受けて自分でも日記を書き始めたと書いていて、こういう僕とは真逆の感じのひとにも何かは伝わるんだということが嬉しくてちょっとうるっときた。

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カテゴリー: 日記