日記の続き#150

博論本第3章を書き終えた。1、2ヶ月前にもひととおり終わったと書いたような気がするのだが——具体的な日数を知るのが怖いので確認はしない——そこからの仕上げでいちから書くとき以上に苦労してやっと本当に終わった。いままででいちばんキツかったかもしれない。レクチャー原稿をもとにした博論版からの書きなおしの仕上げということで、それぞれの段階で幾重にもすでに書いたものや参照するテクストに寄りかかっていて、どんな問題に取り組んでいるのかということがぼやけているところがあり、それを引き剥がすのが作業としてというより気持ちのうえで大変だった。できていると言えばすでにできているものを解体して作りなおすのは——できてるでしょという言い訳は何通りも思い浮かぶ——最初に書くときのような高揚もないし、本当にしんどい作業だ。ともかく終わって安心した。なんだか嬉しくなってしまい珈琲館を出て昼ご飯を食べに行く道すがらにあったエニタイムのジムにふらっと入って入会手続きをした。

日記の続き#149

書かずに寝てしまって起きてダラダラしてもう昼だ。煙草が切れたので買いに行くついでに荷物を持って部屋を出てセブンイレブンに行くと店員がすでにハイライトメンソールを用意していて、珈琲館に着くと炭火珈琲ですかと聞かれた。季節だけが変わっていく。昨日の朝、寝ているとき歯ぎしりしていたよと妻に言われ、僕は昔から起きているときも奥歯を噛みしめる癖があって寝るときは歯を浮かせておくように気をつけているのだが、たしかに昨日は顎が疲れているような感覚があった。雨が降っていて湿度が高く気圧が低く、寝苦しかったのだと思う。不眠症になったことはないが、思いなしを鎮めて快適に寝るためにある程度の準備が必要なほうなのだと思う。だいたい入眠まで数十分から1時間かかるし、時期によってそのあいだにいろんなことを試す。耳を揉んだり、体に力を入れてから抜いたり、マントラのように俺はもう寝ているんだと頭のなかで繰り返したりする。最近ハマっているのは、胸郭を内側からまさぐるように——息が上から下に体の内壁を螺旋状に下っていくようにして——大きくゆっくり息を吸うことだ。腹式呼吸が落ち着くとよく言われるが、これをやってみてわかるのは胸郭のこわばりが無意識的な呼吸の深さに関わっていて、そこをある程度押し広げないと意識的に腹式呼吸をしてもあんまり意味がないということだ。凝りがひどいときは息だけで背伸びをしたときみたいに胸骨がポキポキということもある。

日記の続き#148

ひと月ぶりの普通の日記。昨夜書かずに寝てしまったので朝書いている。「八月の30年」は思ったよりずっとキツかった。日記とは別のことがしたくて始めたことだったけど、途中から普通の日記が恋しくなっていた。共訳書の打ち合わせがあって、妻が親知らずを抜いて歯医者から帰ってきて、茄子とキャベツで味噌野菜炒めを作って食べて、選書フェアのコメントを公開して寝て、起きたら雨だった。

日記の続き#147

八月の30年——30歳

今日で終わり。ひと月かけてこれまでの30年間を振り返ってみて、というか、ひと月ぶんの日々で30年を切り刻んでみて思うのは、自分の来し方の線形性を支えている記憶はとてもみすぼらしいものだということだ。それは本来の記憶の豊かさを示しているというより、どこで生まれてどの学校に通ってどれくらい勉強ができてどういう恋愛をして、という言葉で今の自分を持ちこたえさせるこができるということのほうがマジカルに思えてくる。これも考えてみれば当たり前の話なのだが、「出身」やら「受験勉強」やら、同じカテゴリーのもとで多くの人にそれぞれ特有の記憶があるものは、自分を語るということにまつわる厄介さをいくつもスキップさせてくれる。僕は今回そういうものになるべく寄りかからないようにしたが、そんな心許ないものに寄りかかっていても普段の生活にはまったく支障がないということのほうが驚きだ。こないだ東村山市にある国立ハンセン病資料館に「生活のデザイン」という企画展を見に行った。麻痺した、あるいは断端した手足に取り付ける義足や手全体で握り込めるように柄を太くしたフォーク、電話機の奇数のボタンにだけサイコロ大の木片を貼り付け、棒で押しやすくしたものといったブリコラージュ的に編み出された個人的な道具と、専門家と対話を重ねるなかで洗練されていった道具とが「歴史」、「デザイン」という言葉のもとにリニアに並んでいる。このときも歴史と言えば、デザインと言えばこれらを並べてしまえるのだということに強い戸惑いを感じた。学芸員によるギャラリートークでも「両義性」という言葉がたくさん出てきた。困っていると言ったうえでできればよいのだろうけど、なかなかそうもいかない。

日記の続き#146

八月の30年——29歳

雨だった。しっとりした空気のなかにときおり、棚の上に置いていた台湾パイナップルの甘い香りが漂ってくる。こないだのバーベキューに百頭さんが買って来てくれたのが美味しかったという話をして、彼女が買って来ていたものだ。包丁で皮を削って身を切り分け冷やして風呂上がりに食べた。風も強くなっていて、前の家だったら揺れてただろうねと言った。確かにやたら揺れるアパートだった。

親密さについて考えている。たとえば恋愛が厄介だなと思うのは、同じ思い出の共有に力点が置かれがちなことで、それは記念日やらクリスマスやらが象徴的な価値をもつことに表れている。それはそれで結構なことだと思うのだけど、そうしたステップの延長で結婚やら出産やらに幸せの形を代表させている何かがあることも確かだと思う。親密であるということを同じ思い出の共有だとしてしまうと、その親密さはいつの間にか第三者的な社会のなかでしか位置をもたなくなってしまう。かといって駆け落ちして誰も知らないところへ、みたいなのも違うし。結局親密さというのは、自分が忘れている自分のことを相手が覚えていて、相手が忘れている相手のことを自分が覚えていて、その思い出のすれ違いの積み重ねなんじゃないかと思う。すっかり忘れていたことを言われると、何か自分の存在が分け持たれているような奇妙な感覚がある。とはいえそんなことあったっけとは、やっぱりなかなか言えないんだけど。(2021年4月29日

日記の続き#145

八月の30年——28歳

年の終わりに博論を出す。学振DC1がなくなった年でもあって、バイトしながら博論書くのは嫌だなと思っていたが、給料がなくなる春にちょうどコロナが来たので働かずに済んだ。個人事業主向けの100万円の持続化給付金をもらって、利息が実質ゼロの救済制度でもう100万円借りて、それで1年間食いつなげたのだ。お金を借りるのは面白い経験だった。申請書を出すと、事業で使っている通帳やら収入の証明やらを持って日本政策金融公庫に来られよという手紙が来て、それらを持って関内にある支店まで徒歩で行った。スーツを着て髪を整えて結婚指輪を着けた若い男に出迎えられて、パテーションで区切られた机に案内された。どういう「事業」をしているのかと聞かれたので、雑誌に原稿を書いたり本を出したり大学で喋ったりしていると言った。どうして「融資」が必要なのかと聞かれたので、コロナで仕事が減ったからですと言うと、ウチは事業で必要なお金を貸す場であって、生活費を出す場ではないのだと言いながらも100万円貸してくれた。僕がもともと申請していたのは200万円だったのだがそれは貯金と事業規模が小さすぎて無理だということで、肩を落として歩いて帰った。でも翌週に全額振り込まれたときは嬉しかった。それでなんとかかんとか博論も書けた。

日記の続き#144

八月の30年——27歳

学年で言えば博士の3年、年号で言えば2019年なのだが、そこから何かを思い出すことができない。プロフィールの活動一覧からその年にやったことを見てみても、仕事の内容より向こうにいる自分がどんな感じだったのかが見えてこない。本を出した後でいろんなところから執筆やインタビューの依頼がくるようになって、それが楽しかった時期だと思う。初めて文芸誌に自分の文章が載ったとき、表紙に町田康の名前があって、なぜか母が僕が中学生の頃町田を読んでいたのを覚えていて、あの頃読んでいた人と同じ雑誌に書いてすごいねと言われたことを覚えている。今思えばなんというか、「仕事」っぽいことがやれて嬉しかったんだと思うけど、わりと調子に乗っていたような気もする。だからダメというより、その頃の調子に乗った展望に比べれば1、2年ほど齟齬が生まれているようにも思うので申し訳ないなと思う。まあその齟齬のなかから日記も書くようになったわけで、わからないものだなと思うし、当時の僕もわからないものだなと思ってくれると思う。

日記の続き#143

八月の30年——26歳

『眼がスクリーンになるとき』が出る。なるべくいろんなところで刊行記念イベントがしたいと思っていて、夏のあいだに東京、横浜だけでなく、大阪、京都、金沢、福岡に行った。横国大のイベントでは同時期に刊行された『オーバー・ザ・シネマ』の面々のうち、平倉圭、三浦哲哉、石岡良治と座談会をした。3対1はさすがに分が悪いんじゃないかとも思ったがなんとかなった。折り悪く大雨で、夜の山を登ってキャンパスに来るのでみんな足下がびしょ濡れだった。自分が何を喋ったのかは覚えていないが、石岡さんが「理論」というのは貧者の武器なのだという話をしていたのが心に残った。今の時代誰でもいろんな情報にアクセスできるかのように思われているが、実のところ海外のジャーナルや博物館の資料などアクセスのハードルが高いものはたくさんあり、そういう状況で貧しい者が頼れる武器こそが理論なのだと。編集者がウェブ記事にしますと言っていたが文字起こしが送られてくることはなかった。よくある話だ。

日記の続き#142

八月の30年——25歳

もう部屋着は半袖Tシャツでよくなった。夜に窓を開けていても寒くない。前の家は目の前が大きい道路で2階の部屋だったので窓を開けると車の音がものすごくうるさかった。あまりにうるさいので友達と通話していて外にいると思われた。確かにほとんど外みたいな家だった。1階が薬局の倉庫で、2階に2部屋だけ単身用の賃貸がある。内装はリフォームしたてで綺麗だったけど、構造が薄っぺらいのでトラックが走り抜けるだけで揺れた。音と揺れで最初のうちはろくに眠れなかったので、これが家なんだと思い込むことにした。車と風と地震でそれぞれ違う揺れ方をする。泊まりに来た人が地震?と言うと車だよと言う。ちょうどその部屋に越してきたときに佐々木友輔の「揺動メディア論」についての文章を書いたばかりで、家が揺動メディアになったと笑っていた。つねに分厚い遮光カーテンを閉めて電気をつけて、せめて光のあり方を内部っぽくしていた。夜外に出ると暗くてびっくりするし、昼外に出ると眩しくてびっくりする。横になって目を閉じると波打つ音と揺れに家の輪郭が紛れた。(2021年5月8日

日記の続き#141

八月の30年——24歳

ここまで来ると今やっていることとさほど変わらない生活なので、書くのは簡単だが僕自身にとって驚きのある話が出るかどうかはわからない。大きく言えば『アーギュメンツ』(関係者からの手売りのみで販売される批評誌)の購入をきっかけに黒嵜さんと出会って、今でも友達のひととたくさん知り合うことになる。これが今の活動につながる僕の個人史の本流だとして、そこからちょっと外れた話をしよう。それは正確には僕が24歳になる2016年ではなく2015年のことだったのだが、当時、今で言えば「暗黒啓蒙」的な、アングラなサブカルチャーと現代思想や批評を連動させた同人誌を作っていたはるしにゃんという人がいて、面識もなく共通の知人もいなかったのだが突然彼から今度作る雑誌に寄稿しないかというDMが来た。内容はなんでもいいということだったので、直前に出した卒論で参照したエリー・デューリングの映像論についての文章でいいかと聞いたらオーケーだった。今当時のDMが残っているか見てみたら、2015年3月7日に連絡が来ていて、彼の「期待しています」というメッセージでやりとりが終わっていた。それからしばらくして彼は亡くなってしまうのだが、そのあと友達になるひとの多くから同じように寄稿依頼があったという話を聞いた。まさか自分が書き手として誰かに関心をもってもらえるなんて思っていなかったし、批評の同人誌に自分が関わる可能性があるとすら思っていなかった(そういうものが存在するのも知らなかった)。それで『アーギュメンツ』を買って、『アーギュメンツ#2』には執筆者として関わることになる。この「それで」がどれくらい直接的なものなのかはもうわからないが、けっこう強めの「それで」だったと思う。結局本流の話に回収してしまった。