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*随時更新(最終更新2024/05/02)

刊行物

『非美学——ジル・ドゥルーズの言葉と物』河出書房新社より6月24日刊行予定(*各オンライン書店で予約受付中

『眼がスクリーンになるとき——ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』河出文庫より8月刊行予定

『ひとごと——クリティカル・エッセイズ』(仮題)河出書房新社より10月刊行予定

「言葉と物」(『群像』で連載中)

アンヌ・ソヴァニャルグ『ドゥルーズと芸術』(小倉拓也+黒木秀房との共訳)月曜社より刊行

イベント等

5月13日 「ドゥルーズ/フーコーの一章」初回 @フィロショピー(*申し込み期限5月12日)

5月15日 福尾匠+黒嵜想+山本浩貴(いぬのせなか座)「リテラリティ」とは何だったのか——福尾匠『眼がスクリーンになるとき』文庫版追加コンテンツ公開収録」 @PARA神保町

注目記事

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5月6日

7日午前が「言葉と物」の締め切りで、夜通し書いていたのだが間に合わなかったのでもう1日だけもらうことにした。とはいえ今回はそれっぽい枠組みを作らずにタイトに、直截に書いていて、また新しい書き方ができているという実感があって、嫌な焦燥感はない。

『非美学』の再校ゲラと連載の原稿の作業のあいだにばちっと静電気のようなものが走って、ドゥルーズの「他者」概念が何をしているのか、やっと心の底から理解できた。たとえばこういうことだ。あなたはいま、とにかくぼおっとしている。交差点に並ぶ車のランプの明滅に自分が吸い込まれていくように、あなたは知覚に溶け込んでいく。それは他者がない世界であり、椅子と尻の接面、舌と口蓋の接面、遠くの声や音のすべてに等価にあなたの存在が張り付いていく。そのときふと、「カギの110番」という看板の文字が目に入る。それが他者だ。さっきまで世界は私と溶け合うひとつの気分で満たされていたのに、その文字はカギのトラブルがありうる世界を表現する。だから他者は「世界を過ぎ去らせる」のであり、「過ぎ去った世界に置き去りにすることによって私を作る」のだ。いまや世界は、カギのトラブルがありうる世界になり、私は文字通り「我に返り」、さっきまでの、カギのトラブルの可能性もなく、他者から隔てられる限りでの私もいなかった世界から遅れてやってきたものとして、その遅さにおいてのみ私という資格を与えられる。他者が「可能世界の表現」であるというのはそういうことで、それが看板の文字であれ他人の顔であれ、あなたを我に返らせるものが他者であり、他者はある遅さにおいて我に返らせると同時に、世界をここにはないもので裏張りする。

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5月5日

今日はいいことをした。妻とイセザキモールを歩いて帰っていると、カルディの前でおばさんが小さな子供の手を持って膝をついて話しかけている。子供はそれに答えず立ち尽くして周囲を見回している。そのしばらく先、ドンキホーテの交差点の手前で電話を持って中国語で話している女性がいて、その必死な様子を見て、彼女がさっきの子供のお母さんで、子供は迷子なのだろうと思って、お子さんを探してますか、カルディに迷子の子がいましたよと話しかけると返事もなく走って行った。いちおう着いていってみるとやはりそうだったらしく、母親は大泣きしながら子供を抱えていた。妻がよくわかったねと言う。何年もこの道を歩いてきた甲斐もあったというものだ。

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5月4日

数年前に妻に買ってもらったSONYのワイヤレスイヤホンが、電池がすぐ切れるようになってきた。乗り換えるならAirPodsProか。

腸が疲れていると鍼灸師に言われて、一日3、4杯飲むコーヒーのせいだろうと思ったので、台湾の凍頂烏龍茶を買って家でコーヒーの代わりに飲み始めた。丸まった茶葉を4つくらいカップに入れてお湯を注ぎ、飲みきったらまたそのままお湯を注ぎ、それだけで4杯ぶんくらいは飲める。

夕方、後頭部が痛かったので頭痛薬を飲んだ。しばらく出ていなかったのだが。鍼でゆるんで血流がよくなってかえって痛くなっているのだろうと合理化する。

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5月3日

フィロショピーの企画説明配信のための台本を作って、夜、こないだ買ったコンデンサーマイクを繋いでYouTubeで配信をした。購入者が100人いくといいなあと思ったが、まだ50人弱。直前で伸びることを信じつつ、また広報を打っていくほかない。今回はしっかり準備したのもあって結局ひとりで追い立てられるように2時間も喋ってしまったが、次は手ぶらでゆっくり喋る回をやってみてもいいかもしれない。それにしても僕は、自分で考えて何かするほうが性に合っているのだなと思う。その意味でフィロショピーはあんまり大きくしたくない。いまなんとなく妄想しているのは、関内あたりに小さな場所を借りて、そこに来ればタダで講義が聴けるようにすること。でもそれもちゃんと回るという確信があるていど得られてからのことだ。久しぶりにマイクに向かってひとりで喋って疲れた。コーラを買いに出て飲んで、歯を磨いて寝た。動画の最後に話したが、購入者には擬似的な会員制度として次回購入に使える20%オフのクーポンを配ることにしていて、次はベルクソン『物質と記憶』とデリダ「プラトンのパルマケイアー」(feat.プラトン『パイドロス』のセットにしようと思っている。そうすると全24回の講座が20000+16000=36000円で買えて、4つで20世紀哲学の本流を抑えつつ、自分で読み進める力もつくはずなので、ものすごくお得だと思う。ぜひ買ってほしい。あと50人。

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5月2日

予約していた鍼灸院に。前に行っていた横浜駅近くとは別のところで、中国人の先生がひとりでやっているところに乗り換えることにした。日本のものより刺激が強いらしく、それも気になるし、いや、それもそうなのだが、何かを決めるときの動機はもっと複雑と言えば複雑で、単純と言えば単純で、もう日記もあとひと月で終わるが、僕はそうした行為の実状をずっと逸し続けてきたような、あるいは、それを逸して散文の貧しさのうちに均してしまうことの自傷的な愉しみに淫してきたような、いや、それこそが書かれる自分と書いている自分のあいだのパテーションとなって自分を保護してくれるような、とにかくそういうぐちゃっとした何かのなかで、鍼を打ちに来た。待っているあいだ置かれていた本のうちからファスティングの本を開くと、カロリー信仰、肉食信仰への批判とセットになった、お決まりの医療産業陰謀論が展開されており、まあ生き方が医学に包摂できるわけもないのだから、それをそれぞれの意見のレベルで考えるか、あるいは生体そのもののありようのレベルで考えるか、そのふたつのレベルは否も応もなく循環するわけで、結局のところ要素還元主義とホーリズムのふたつに出たり入ったりする、しかしその出入り自体はメタ化されないようなものを「内在——ひとつの生」として考えるしかないのだ。先生は肌にアトピーの面影があり、ちょっと中国語訛りで、僕を立たせて後ろから首から足首まで触って確かめる。仰向けにして腹を押して、腸が疲れているが、お酒は飲まないんですよねと聴く。はいと言いながら、コーヒーの飲み過ぎかなと思う。ふつうはうつ伏せの治療がメインだが、うちは内臓から整えるので仰向けの治療が長いのだと話す。鍼が打たれるたびに弦を弾くように線としてそのあたりが響いて、もう効きそうだなと思う。ひととおり打つと、みぞおちのうえに湯たんぽのようなものを置いて、15分ほど目を閉じて深呼吸してくださいと言って出て行った。寝るのかなと思ったがずっと起きていて、うつ伏せになって同じくしばらく鍼を打ったまま置かれて、起き上がると右目だけ焦点が合わなくなっていたが、枕が当たっていたからかと思い息もしやすくなって視界もはっきりしますと言って院を出た。隣の中華料理屋で麻婆豆腐定食を頼むと甜麺醤と花椒が強すぎて肉と豆腐の味が潰れており、ちょっと残念な気持ちでイセザキモールを帰った。歩いていると右目の焦点が合い始めて、視力がぐっと回復した。たぶん相当疲れていて、鍼で戻ったその疲労に眼の筋肉が追いついてきたのだ。

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5月1日

朝起きるようになってもう2ヶ月ほど経つんだと思う。一日が短くなった。夕飯を食べ終わってまだ8時なのに、今日はもう終わりなんだという事実にどう向き合っていいのかまだよくわからない。でも10時に薬を飲めば11時には眠くなるし、起きたらもう朝で、一日の重心が朝から昼にかけてにあるということにまだ慣れない。ストラテラは飲むのをやめてしまった。なんだか勃起障害というか射精障害というか、ぼやっとしたままだらっと出る情けない感じで、調べるとたしかにそういう副作用が出る場合もあるらしく、効果もあるんだかないんだかぼやっとしているし、仕事への取り組みに関しては環境と体調の要因が大きいのだろうから薬のことはまあ忘れることにする。それにしたってADHDの診断のいい加減なことよ。MBTIのほうがまだ設問が多い。あまり医療産業陰謀論みたいなことは言いたくないし、ある程度このSNS、スマホ、サブスクサービス、クソ広告の高度注意社会と付き合いながらやっていくほかない以上、医療化も避けがたいところはあるにせよ、ちょっと人の気持ちに踏み込みすぎ。人の気持ち。チーム友達くらい流行ってほしい。

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4月30日

そう、4月は30日で終わりで、つまり今日が、本来の締め切りの日だ。でもこないだ編集者と話したときにゴールデンウィーク明けの7日でもいいとちらっと言っていたことはずっと頭の片隅にあって、1日をかけてそれが頭のすべてを実効支配した。眼ががびがびになってもう画面を見たくない。ノートはあるがペンはなく、いっそのこと有隣堂で太字の万年筆を買って、そうすればばーっと進むのでないか。実際ガラスケースの前に立つともう気分は白けていて、高いし、試し書きで具合がよかった1200円のゲルインクボールペンを買って店を出た。それでもノート見開き2ページぶんは下書きが進んだ。ちくしょう、ちくしょう。紙のノートがいいのは、一歩一歩文として書くことと、それが行き詰まったときの数歩先にとりあえず石を並べてみることとが同じ面のうえでできることだ。でもそれは下書きで、そろそろ帰って夕飯を作らねばならず、時間切れ。夜は届いた本をぱらぱら見た。妻も疲れているようで、少なくとも原稿を切り上げてご飯を作ってよかったと思った。

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4月29日

家で妻とRIZIN観戦。もうすっかり恒例になっていて、お菓子を買い込んで、選手こそあまり覚えていないが彼女も消極的な試合に文句を言ったり、熱心に見ている。明日が早いからと言って早めに寝て、僕はYouTubeに出てきた朝倉未来と那須川天心がふたりで遊んでいる動画を見た。朝倉が天心を家に呼んで、手に持ったスマホだけで撮影して、寒いからと言って服を買って、東京タワーまでドライブして、フードコートでご飯を食べて、帰ってくる。それだけでよかったのだと確かめるように。それだけでよかったことを知っているだけでもラッキーなのかもしれない。

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4月28日

ここ数日、いつものようにイセザキモールを行ったり来たりしていると、ひとりで道ばたに座って何かを喋っているおじさんのメンバーが増えている。ひとりは関内側の端の、地下街の入口に座って、ビールのロング缶を5本置いているおじさんで、2日連続行きと帰りに同じようにそこにいるのを見た。立川談志みたいなダミ声で脚をテディベアのように前に投げ出して身振り手振りで話している。しっかり骨盤が立っていないと維持できない姿勢だ。もうひとりは、モール中頃のセブンの脇にある灰皿で煙草を吸っていると、背後から話し声が聞こえてきて、電話かと思ったがどこか内容が変なのでちらっと振り返るとひとりで壁を背にしてしゃがんで喋っていた。友達と話すような口調で、神奈川静岡県のほうが東京埼玉県より実は人口が多いのだと言っている。東京埼玉県は一見街が人だらけだが、タワマンは空室だらけで、それを隠すために外に人が出ている。神奈川静岡県は山だらけに見えるが、家がたくさんあるし、東京埼玉県も上のほうは実際山だらけだ。こういう間接引用において僕はいつも口調を地の文に均すが、そこで素通りされているもののことを考える。それは素通りしませんよという身振りが嘘くさくて嫌だからだ。でも素通りできるはずもない。それにしても東京埼玉県と神奈川静岡県とは、どういう観念なのか。東京と埼玉であることと東京埼玉であることが等価になっているのだろうか。僕もずっとラジオで言葉を頭に入れていないと頭のなかがざわざわしてくるが、摂食障害と同じで、言葉の出し入れもとても危うい均衡のうえに成り立っているのだと思う。

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