日記の続き#255

財布と、携帯と、煙草とライターと、車の鍵がポケットにある。松江から山陰道を西に向かって宍道ジャンクションで南に折れて、あとはひたすら1キロ以上のトンネルが連なる道で山脈を貫く。ハンドルに乗せた手が腕の重みで痺れてくる。尾道で東に折れて山陽道に入って福山で降りる。ジョリーパスタでご飯を食べて、駅の近くに取ったホテルに車と荷物を置いて、近くを歩いた。このあたりも8時閉店のお店ばかりだ。駅ビルのお店で弁当を買って、部屋に戻って食べた。(2021年8月12日

日記の続き#254

来年から非常勤の授業がふたコマ増えそう。ひとつは院生向けの授業で、これは論文講読にしようと思う。1年間修士の学生の研究発表を聴いてきて、「書いてあることを書いてあるとおりに読む」こと、そして「研究テーマと研究対象は違う」ということ、このふたつがどうにも飲み込めていないひとが多いのではないかと思う。そしてこのふたつが組み合わさって、ぼんやりしたテーマに合致する手近な対象をもってきてそのうちの都合のよい要素を並べる、二重のチェリーピッキングのような研究になる。個別の作品なりテクストなり、そうした小さなものの細かい分析から大きい問いを引き出すことが人文学のダイナミズムだと思うのだが、細かくやることと大きく出ることとのあいだのテンションが弛緩してしまっている。「小さなものを細かく分析しつつ大きな問いを引き出しそこに一定のパースペクティブを与えている論文」を各自の関心に基づいて探し共有し、事前に全員が読んだうえで担当者がレジュメを作成し発表し議論する授業にしよう。

日記の続き#253

黄金町でやっているRAU試を見に行く。横国で平倉さんと藤原さんが数年前からディレクションしているワークショップの成果展だ。関内から黄金町にかけての平地を挟み込むような野毛山と山手の地形を辿るフィールドツアーのマップが配布される。もう暗いので歩くのはまた後日にしようと思ってゆっくり映像を見て、すぐ近くのジャック&ベティという映画館で上映されている同企画の特集までの時間、これもすぐ近くの珈琲山という喫茶店で時間を潰すことにした。ここは家から近いし煙草が吸えるしコーヒーも美味しいのだが、いつ来ても大きな音でクラフトワークの同じアルバムが流れているのであまり寄りつかなくなってしまった。他方で壁中にデヴィッド・ボウイのポスターが貼られていて、久しぶりに来たらそれが『戦場のメリークリスマス』のリマスター版のポスターに入れ替わっている。せめて音楽もボウイに、あるいはせめてクラフトワークとかわりばんこにしてくれたらいいのだが、今日もクラフトワークがヴォコーダーを通して「フクシマ、ホウシャノウ」とマントラのように繰り返している。ぜんぜん読書に集中できない。それにしてもなぜよりによってNO NUKESのアルバムなのか。左京区に店ごと転送してやったほうが古田新太似の店主も幸せなのではないか。そうすればこの80年代−文化−左翼の結界も緩むだろう。早めに店を出て映画館に移ると、チケット売り場で前に並んでいるのが平倉さんだった。

日記の続き#252

帰りの新幹線で名古屋駅に停まると、30人ほどの力士が乗り込んできた。思い思いの浴衣を着て、香水の甘い匂いが車両いっぱいに広がる。背もたれから飛び出した頭に乗った丁髷が列になって文鳥のようにぴょこぴょこと動いている。オーディブルで聴いている『それから』は「だいすけ」のところに甥の「せいたろう」が遊びに来たところで、ホットチョコレートを淹れてやるとそんなことより相撲を見せに連れて行ってくれとせがんだ。気づくと眠っていて、この新横浜はあの新横浜なのだろうかとしばらく考えて急いで飛び出した。

日記の続き#251

京都行きの新幹線。眠いが眠れないので諦めて日記を書く。昨日からAmazonのオーディブルに登録して、なんとなく漱石の『それから』の朗読を聴いている。頭のなかの推敲を追い払えるのでいい。主人公は僕と同い年で、親と兄の稼いだ金で暮らしているのになんの負い目も感じていない。

昨夜、作業の帰りに大通公園を歩いていて、前で電話をしながら歩いていた男が不意に向きを変えた。ぶつかるような距離ではなかったが、通話している人とぶつかるのはいいモチーフかもしれないと思った。ワイヤレスイヤホンが普及して大きな声で独り言を話す人と通話をしている人の区別がつかなくなったというのはよく聞く話だが、いずれの場合にもそれが不安をもよおすのはひとりで喋っていること以上に普通の歩行者と違う空間を歩いているからだろう。サッカー選手が前半終了の笛を聞いたとたんに一斉にベンチのほうに向きなおるように不意に向きを変える。そういえばあの瞬間には不思議な官能がある。さっきまでボールをめぐってなされていたあれは、かりそめのことだったのだという。あるいはそれは、選手の動きを見てやっとハーフタイムの笛だったのだと遅れて気づくことで同期がズレるからかもしれない。さっきまで見入っていたあれに、私は遅れているのだという。

日記の続き#250

深夜、松のやでカツ丼を食べていると高校生らしき息子とその母親が隣に座った。母親の言葉はおそらく中国語訛りで、息子には訛りがない。友達のお兄ちゃんが詐欺で捕まったと言うと、ひったくりかと聞かれて、ひったくりじゃなくて詐欺だ、盗んだのではなく騙したのだと言った。

日記の続き#249

朝までモロッコ対ポルトガル、フランス対イングランドの試合を見ていて、やっと寝たら11時くらいにインターホンで起こされた。アパートの入口ではなくいきなり部屋のドアのチャイムが鳴ったので妻がいぶかしがっていたのだが火災報知器の定期チェックの人だった。とりあえず部屋着を羽織ると先端に何かカップ状の機械がついた長い棒を持った女と年上の男が小さくなりながら入ってきて、天井についている報知器ひとつひとつをそのカップで覆って回る。男がスニーカーを手に持って部屋を横切ってベランダに出て行く。いちいち後ろを着いていくのも変だし、立っていればいいのか座っていればいいのかわからず、寝ぼけたまま妻と部屋の真ん中で立ち尽くしていた。

日記の続き#248

日記について調べていて正岡子規が『ホトトギス』で読者からの日記の投稿を募っていたことなどを知って、歴史というのは大事だなあ、ひととおり原書を見てみなければと思ったのだけど、そんなことを思ったのは初めてかもしれない。阪大に入ったとき、当初は比較文学専修に入ってラテンアメリカかロシアの小説を読みたいと思っていたのだが、各専修の紹介のオムニバス授業で比較文学の教授が漱石や芥川の掲載誌や初版本の研究をしていると話していてそんなジジイの趣味みたいな研究の何が面白いのか、小説なら文庫で読めるじゃないかと興ざめして入るのをやめた(もうひとりの教授はたしか近世のイギリスの黄禍論の研究者で、これもつまらなそうだと思った)。かといって作品だけから何か言えるし言うべきだというテクスト主義を大2病として打ち遣る気にもなれない。日記についての本を書くことになったらこのふたつをどうブリッジするかということが問題になるだろう。

もうひとつ昔話。ふと思い出して『眼がスクリーンになるとき』が刊行されたときの合評会のレポート記事を読み返した。千葉雅也さんが小倉拓也さんの『カオスに抗する闘い』に、堀千晶さんが僕の本にコメントして応答する会だ。レポートによると堀さんが『眼がスクリーンになるとき』には政治性も歴史性も欠如していると指摘して(いろんなひとから言われたことだ)、僕は「政治的なこと」について書けば政治的な文章になるわけではなく、リテラリティという概念に結晶する、『シネマ』と映画の、あるいはベルクソンのテクストとの関係から取り出される「見る」こと、「読む」ことの意味の変容それ自体が政治的な射程をもっているのだと答えたようだ。26歳のときだ。よくやっていると思う。

日記の続き#247

風邪と言っても喉が痛くて鼻水が出るくらいで、キムチ鍋を作って食べてゆっくりお風呂に浸かってたくさん寝たら治った。でも日中はどうにも頭がぼおっとしてここのところ毎日進めていた翻訳に取りかかる気が起きないので『存在と時間』を読み進めた。現存在は要するに、〈可能的なものとして世界に放り込まれて在る他ない存在者〉なのだが、この可能的であること=他でありうることと在る他ないことのあいだのブリッジはどうなっているのか。可能性についてハイデガーは、(1)現存在に固有の範疇としての可能性は、トンカチで釘を打つことが「できる」というような知的に見出される対象化された可能性とは異なると述べ、(2)現存在にとって可能性は、まず何らかの基体が据えられそのうえに可能性が付与されるというようなものではなく、現存在は「根源的に」可能的なのだと述べる。ここから〈可能的に在る他ない〉、つまり現存在には可能性以外の可能性がないという規定が出てくる。だからこそ寄る辺ない「在る」ことは重荷であり、その重荷への直面としての「気分」は世界を開きつつ、当の気分に世界は閉じ込められることになる。気になるのは(1)と(2)の循環関係だ。現存在の可能性が対象的な可能性と異なるのは前者が根源的だからであり、可能性が根源的に備わっているのは現存在が他の存在者と違うからだ、という循環がある。くしくもハイデガーはいわゆる「解釈学的循環」について、「肝心なのは、循環から抜け出すことではなく、当を得た仕方でその中に入っていくことである」(高田珠樹訳229頁)と述べている。「存在するとは別のしかたで」(レヴィナス)ではなく「当を得たしかたで存在へ」ということなのだが、それにしてもなぜこの場合「当を得る」ために可能性が賭け金にならなければならないのか。(2022年1月6日

日記の続き#246

夕方、くぬぎ屋のワンタンスープを食べる。鶏のスープに粗く挽いた肉だけのワンタンと肉とエビが入ったワンタンが3つずつ、明るい緑のチンゲン菜、刻んだ白ネギが浮かんでいる。ラジオから氣志團の新曲と、坂本龍一の「千のナイフ」をサンダーキャットがカバーした曲が流れてくる。それをiPhoneのシャザムで検索してライブラリに入れて、店を出て歩きながら聴きなおした。

関内のルノアールで作業をしていると、気づくと音楽が止んで空調の音が奇妙に籠もって聞こえる。音楽を再生しようとしてもiPhoneの側が受け付けず、かといってブルートゥースが切れているわけでもない。諦めて店を出ようと精算をして店の外にあるビルのトイレに行くと、くぐもった囁き声と、ときおり鼻をすするような音が聞こえてきた。店の客の何かと混線しているのだろうか。エレベーターで1階に降りると、廊下が暗く、出入り口のシャッターが閉まっている。ビルの開館時間は過ぎていて、ルノアールだけが開いているのだ。エレベーターに戻ってまたドアが開くと、なぜか何かの操作盤が並ぶ地下に降りていて作業着を着た男が乗り込んでくる。あいかわらずイヤホンからは遠くの声が聞こえている。男が1階で降りて僕はもといた2階で降りて、ルノアールの中を突っ切って店の正面の階段からやっと外に出た。異音を振り払うように歩いていると、その音の一部が歩行音とゆるやかに同期していることに気づいた。ノイズのその部分は左耳だけから流れている。右耳を取って振ってみるとその音が強くなる。どうやら外音処理の何かがおかしくなって、右耳で拾った音が左耳から流れているようだ。どこかにある何かと混線しているのかと思ったら、まさか左右の耳で混線していたとは。そのまま逆さ眼鏡のようになったイヤホンで街を歩いて帰って、イヤホンのソフトをアップデートしたら直った。それにしても怖かった。そしてイヤホンの分際でアップデートを要求するようになるとは。