6月19日

Twitterのトレンドに「#THEMATCH2022」が入っていて、今日で武尊対天心からちょうど1年経ったらしかった。あらためてあの試合はいま、この世界で、まだ「ふたりきり」になることが可能なのだという希望を見せてくれた15分間だったと思う。昨夜は昨夜で、毎回まず確実に泣いてしまうので妻が寝てから見ることにしている『だが、情熱はある』の第11話を見て、僕はやはりこういう、人生と芸の懸隔がそのまま芸に跳ね返るような、そうして「生であれ芸であれ」というままならなさの肯定に至るような話に惹きつけられるのだと思う。生がそのまま芸なのなら作品はいらないし、逆もまたしかりなのだが、そうじゃないからこそ作品は、その不一致への謙虚な自覚として出てくるんだと思う。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月18日

北海道の国道で高速バスとトラックが正面衝突し、双方の運転手に加えバスの乗客3人が死亡したというニュースが流れてくる。バスの後方を走る自家用車のドライブレコーダーで撮影された動画が公開されている。視界を遮るもののない平原を貫くかすかなカーブの中腹で、車線を越えてトラックが迫り出してくる。撮影者の悲鳴とともにカメラ=車は停車する。衝突の勢いでトラックの荷台から飛び出してきた豚が奇妙なほど見やすく画面に収まっている。何頭かはその場に横たわり、何頭かは体を起こして歩き回っている。たった10秒ほどの動画だ。見えるが数えられない豚、見えないが数えられる人間。この動画がこんなにも痛ましいのは、これがある種の切り返しショットだからだと気付く。これはバスの向こう側に広がっているだろう光景の反映なのだ。豚は食肉処理場へ向かう途中だったらしく、どうせすぐ殺されるのだから豚がかわいそうと言うのは偽善だというコメントがついている。それはそうだろう。でも善がそれほど確かなら、誰がわざわざ偽善を言うだろう。

「一匹の鼠の断末魔、一頭の牛の屠殺が、思考のなかに現前したままであるのは、憐れみの情からではない。その現前は、人間と動物のあいだの交換ゾーンとしてあるのであって、そのゾーンにおいてこそ互いに何かが相手のなかに移行する。」
ドゥルーズ+ガタリ『哲学とは何か』

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月17日

ひとつの作業のなかで、土を耕し、種を撒き、枝を間引き、実を収穫する。そういうそのつど一であり多であるビオトープのようなものに自分の仕事がなりつつある。たとえばある原稿のプロットをしばらく作っているとツイートしておこうと思うような方法論上のアイデアが浮かんだり、買おうと思っていた本を思い出すことが問いの定式化につながったりする。でもそういう放埒は自分はいま「これ」をやっている、やるべきなのだという規範意識と相性が悪く、その裏切りとして、あらゆる作業が他の作業からの逃避に思えてしまうということとセットである。この両義性の外にあるのは? ひとつの原稿の連続性。でもそれが自分のワーキングメモリに収まらないほど長く、次の一手にそれまでのすべての手がくっついてくるような構造の原稿である(一=多がそこで反復されている)場合には? わからない。章立てやトピックなど、寄りかかれる切れ目が役立たないのなら。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月16日

朝まで連載2回目のゲラの差し替え・加筆ぶんを書いて、寝て起きてシャワーを浴びて馬車道のサモアールで博論本の編集者との打ち合わせ。暑いのでTシャツで出かけたいが、冷房がキツいと体調が悪くなるので冬に使っていた腹巻きを着けてみた。外に出ても暑苦しさを感じることはなく、かえって生地が密着しているのが快適だった。打ち合わせを終えてイセザキモールに入ってプロントのテラス席に着くと、隣の席の若者が三ツ矢サイダーとファミチキを分け合って食べている。イヤホンで会話は聞こえないままそれを眺めて煙草を吸っていた。帰って寝ていると妻が帰ってきて、デニーズにご飯を食べに行った。彼女の目当てのオムライスが販売終了になっていて、残念そうだったのでTwitterで「デニーズ オムライス」と調べて販売再開に向けてがんばるという公式のツイートを見せた。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月15日

戦争は戦場の上空を飛び回り、あらゆる時間のなかでの実現に対して中立的で、勝者と敗者に対して、臆病者と勇者に対して中立的で無感動impassibleである。もっと恐ろしいことに、戦争は決して現在にあることなく、つねにいまだ来るべきもの、つねにすでに過ぎ去ったものであり、したがって戦争が無名の者に吹き込む、「無関心」の意志としか呼びようのないような意志によってしか把握されない。それは致命傷を負った兵士の意志であり、もう勇敢でも臆病でもなく、もう勝者でも敗者でもありえず、そうして彼方に、〈出来事〉が留まるところの彼方に留まり、恐ろしい無感動をおびた兵士の意志である。いったい戦争は「どこ」にあるだろうか。だからこそ兵士は、逃げながら自分が逃げるのを見るし、飛びかかりながら自分が飛びかかるのを見る[……]。
——Gilles Deleuze, Logique du sens, Minuit, 1969, p. 122(ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』小泉義之訳、河出文庫、二〇〇七年、上巻一八三頁).

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月14日

京都に行って帰る。行きでちらし寿司の弁当を、帰りにとんかつの弁当を食べる。大学まで3時間で行って、3時間授業をして、3時間で大学から帰る。週にいちどの対称な一日。新幹線から外を見る。田んぼに水が張られ始めている。籾まき、田植え。祖父の家で手伝っていた。いや、籾まきはともかく、田植えはほとんど手伝うことはない。機械が入れない田んぼの隅に苗を植え込むだけだ。周囲の溝で大きなかえるを掴まえたり、高い柵で囲われた消火のための真四角な貯水池に石を投げたり、歳の離れた従兄弟が犬笛でシェパードを呼ぶのを見たりする。倉庫みたいな小屋に住んでいて、大人の靴のような糞をする。あのシェパードはいつ死んだのだろうか。その従兄弟にはもう20年以上会っていない。ずっと家の中にいるらしい。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月13日

まだ11時前だが明日は京都の日で早起きなので書いておく。ふたつの喫茶店で多動症的に作業をする。プロットを作り、書き終わった箇所を読み返し、途中で思いついた別の原稿のアイデアをメモし、本に付箋を貼り、忘れていたメールを返し、アマゾンで本を買い、いつか何かになりそうだと思ったアイデアをツイートする。「愚かさbêtiseとは「思考することを知らない」ことであり、白痴idiotとは「知らないことを思考する」あるいは「知っているのに思考しない」ことであるとして、ポスト構造主義的な動物論(bêtiseは動物bêteの派生語)の向こうを張って白痴に賭ける、とするなら」。ここではもうこれだけ採れれば十分だと思って食器を返して店を出る。歩きながらさらに「「欺かれぬ者は彷徨うles non-dupes errent」というラカンの箴言も思い出す(動物は欺かれるから彷徨わない)。これは「父の名Nom-du-père」の駄洒落になっていて、どちらもノンデュペールと読む」、とさっきのツイートにぶら下げてつぶやく。思考と知が分離した存在としての白痴=人間。知を想定された主体を前に彷徨う。動物は彷徨わないからルアーにかかる。かつて「ポシブル、パサブル」という論考でデコイとルアーという対概念を使ったことを思い出したり、東浩紀の「想像界と動物的通路」はこの話に繋がりそうな議論だったような気がすると考えたりしながら大戸屋でからあげ定食を食べた。レジに伝票を持っていくと「おーてーやポイントカードはお持ちでしょうか」と聞かれ、「ないです」と言ったあとで「おーてーや」が「大戸屋」であることに気がついた。関内の高架をくぐってカフェドクリエに移るために信号を待っていると、子猫の声が聞こえた。目の前に停まったバンに男が靴箱よりひと回り大きいほどの白い段ボール箱を積んでいて、地面に重なった箱のいくつかがかすかに揺れ、その中から猫の声が聞こえる。手前にある小さなペットショップに「出荷」されるのだろうか。いや、バンに積み込んでいるのだから、そこから「回収」されているのだろうか。箱に開けられた穴から中に敷かれた新聞紙が見える。屈む男の腰で引っ張られたベルトが不格好に撓んでいる。青になったので信号を渡った。愚かにも。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月12日

夜書かずに寝てしまい朝。昨日は中森さん・黒嵜さんと3年ぶりの鼎談の収録だった。京急から浅草線に乗り入れる電車で蔵前の筑摩書房に向かう。蒸し暑くてかえって電車の空調が体に当たるのが不快だった。イヤホンの音量をむやみに上げたみたいに、膝に乗せた鞄の硬いビニールが半袖の腕に当たる感触が誇張される。時間が余ったので駅前の喫茶店で煙草を吸って、デイリーヤマザキでおにぎりとお茶を買って出版社に向かう。1階のロビーに黒嵜さんと編集者がいて、中森さんを待つあいだにおにぎりを食べた。こういう会社らしいところに来るの珍しいですねと言いながら会議室に入って、夕方まで話す。例の如く打ち上げの「う」の字を聞く前に帰った中森さんを送って黒嵜さんと喫茶店で反省会をした。ふたりとも疲れていて早めに切り上げて帰って、お風呂に入って寝た。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月11日

日曜日。よく寝た。起きたのも遅かったし、昼寝も長かった。ときどき雨が降って、蒸し暑いので窓を閉めてエアコンをつけると、お腹がゆるくなった。

投稿日:
カテゴリー: 日記

6月10日

どうしてか家を出てすぐのところにあるセブンイレブンがしばらく前から煙草の販売を休止している。休止というのは、終了ではなくまた戻ってくるはずだと店員に聞いたからで、そうするといちばん近い煙草が買える店はセブンの隣にあるまいばすけっとになる。ところがまいばすけっとは12時で閉まるので、夜中は少し歩いて阪東橋駅前のファミリーマートまで買いに行かねばならない。僕は煙草はひと箱なくなるごとに買うのが好きで、残っているうちに何かのついでに買っておいたり、いちどに何箱か買ったりすることはない。だいたい一日ひと箱吸うので、その概日リズムと、買いに出るのが夜中になったり昼間になったりする揺れを感じる、というか、そういう時間を走らせておくのが好きなのだ。それで、昨夜の明け方に煙草が切れて、ファミリーマートまで歩いた。半袖半ズボンだとちょっと寒いくらいで、せっかくなので店のなかをぶらぶらしてみる。どういうわけかいまだにファミマでは香水を売っている。中学生が買うのだろうか。こうしていると一人暮らしの頃みたいだ。煙草と一緒にコーヒーも買って、大通公園の石のベンチで一本吸ってから帰った。

投稿日:
カテゴリー: 日記