2月は思ったよりバタバタして更新が遅くなってしまいました。とはいえちょこちょこ準備はしていたので、今日中にふたつ記事を上げようと思います。エッセイ、論考、習作、企画記事等いろいろやっていくのでぜひ講読よろしくお願いします。
今回は先日「赤いきつね」のアニメCMがSNSで炎上しているのを見て考えたことについて書きます。
僕はふだん性的なことにかんする話はほとんどしていなくて、原稿で書いたのも『ひとごと』に収録された『全裸監督』論くらいだと思う。とくにSNSはそういう話を気軽にできる場所ではないし、僕自身は何にでも口を出してタイムラインがニュースフィードみたいになっているひとを見るとキツいなと思うのでホットな話題について逐一何か言うということはしない。
今回のCMも、燃やされた側にとっても怒っているひとにとってももらい事故のようなもので、両者ともがもらい事故だと思っているからこそがぜん燃えるのだが、とにかくこのCM自体をこまかく表象分析してもしょうがないと思う。むしろ現代の広告や表現や言説の環境のなかでこういうことはこれからも頻発するだろうし、「まなざし」の奪い合いというその闘争の形式自体には出口がないだろう。この文章ではその出口のなさについて、そして性的欲望はそもそも「まなざし」なるものに還元できるのかということについて考えてみよう。
まず、さっき書いたように、個別事例として今回のCMを性差別的か否かをジャッジすることには僕はあんまり興味がない。今回はむしろきわめて境界的なゾーンにあるものだからこれだけ論争になっているのだと思うし、ジャッジする前にこの境界的なありようそのものの組成を考えたほうがいいと思う。
僕個人の印象で言うと「どちらかというと不快」という程度で、しかしいまやたいていの広告は不快なので、そんなことを言っても詮ないと思う。たぶん今回の炎上も、広告一般が不快であることへの鬱憤がまずベースにあって、「赤いきつね」がその恰好のスケープゴートになってしまった側面もあるだろう。YouTubeにもアップされた有名企業の広告だし、ウェブ広告みたいにランダムなものでもないから共有されやすかったのもある。
しかしなぜ不快だったのか。それはやっぱり、さんざん指摘されている潤んだ目や赤くなった頬といった動画の細部に関わっていて、全体として性的に感じられたからだと思うのだけど、性的なイメージであることと不快であることは直接イコールでは繋がらないし、ましてや性的かつ不快であるとしてそれが企業CMとして不適格であるかどうか、不適格であるとしてどういう実際的な対応がありうるかはそれぞれまったく別の問題だ(性的だと思うやつがエロいのだという擁護側の言い分は小学生以下だと思う。何をもって性的だとするかという定義問題に引きずり込むのも目くらましだ)。
不快だったのは、こういう映像を見ると、〈自分のものでない欲望を勝手にトレースさせられている感じがする〉からだ。そしてこの傾向は実写より、いわゆる「萌え要素」(東浩紀『動物化するポストモダン』)が記号化されたアニメのほうが強いと思う。キャンセル・カルチャーvs表現の自由の対立でしばしばマンガ、アニメの表象が論点になるのも同じ理由だろう。
これがこれと組み合わさるとエロい感じがするというルートがあって、あなたもそうでしょと、あるいは、こういう欲望があるんですよとそこに強制的に乗せられることに拒否感を覚える。直接的な表現があるわけではないからこそ、今回はその機械的・人工的な欲望の側面が際立って騒ぎを呼び込んだのだと思う。
たとえば少し前に、奇しくも同じカップうどんの広告で、一人暮らしの部屋で星野源がどん兵衛を食べるとキツネの耳と尻尾をつけた吉岡里帆が現れるというCMがあった。これも多分にマンガ、アニメ的なイマジネーションで、かつ、内容的にもより直接的に性的な場面だ。それなりに批判もあったと思うが、実写であり、最終的に吉岡里帆という個人に(肯定的であれ否定的であれ)リビドーが向くので、「赤いきつね」CMほどの、記号をめぐる解釈学的な論争にはならなかった(そちらのほうがよほど恐ろしいことだとも思う)。
僕が気になるのは、〈誰かの欲望を勝手にトレースさせられる〉ことは、はたして「まなざし」のロジックに回収できることなのかということだ。
直感としてはむしろ、まなざしのロジックは擁護側と批判側のあいだのある種の共犯関係を形作るのに寄与しこそすれ、それを解体するものにはならないだろうと思う。そもそも「性的まなざし」という言葉を振りかざしている者のうちどれくらいがサルトル、ラカン、ローラ・マルヴィのいずれかでも読んでいるのかという話でもあるが、こうした物言い自体マンスプレイニング以外のなにものでもなく、哲学由来の議論の俗流化とある種の理論的武器の「無敵化」は裏表の関係にある。
あのCMを見て、なんか嫌な感じ、気持ちがざわざわする感じがするのは、はたして「ここには女性を記号的に扱い一方的に消費する男性のまなざしがあるぞ」と推論したからなのだろうか。その推論自体めちゃめちゃ記号的でないだろうか。僕にはそれが、記号化された欲望に引き込まれたことへの記号的な反発に見える。そこでは「女性」も「男性」も「消費」も「まなざし」も引用符に括られる。擁護側と批判側の共犯関係は、対象がアニメだからそのようなことができるのだという点にかかわっている。吉岡里帆を引用符に括られたものの束に還元することの暴力性(実際のところ有名人は多かれ少なかれそういうことをされる運命にあるが)を前にすれば多くの者が踏みとどまるのに対して、アニメ相手なら良識的な人びとですらそういうブレーキが効かなくなる。
たしかに、フロイト以来のフェティシズム理論を持ち出すまでもなく、人間の性的欲望は多かれ少なかれ記号化されているだろう。その不自然さこそが人間の自然であって、記号の外のリアルで純粋な性を神秘化するほうがよっぽど危うい。
しかし他方で、まなざしのような、見る主体と見られる客体、能動と受動を截然と分けて、主体的で能動的なものを絶対的な始点とするような概念を所与としたとたんに、そうした構造がどこから来たのかということは問えなくなってしまう(それこそフロイトの「子供が叩かれる」がすでに取り組んでいた問題だ)。
フーコーは「革命によってわれわれは王の首を切り落としたが、政治理論はいまだ王に依存している」と言った(大意。たしか『知への意志』)。これは平たく言えば政治学が「絶対者」に依存しているということなのだが、今回の論争もまた性的欲望の一方向性、そのなかでの男性の優位という「王」に依存している。そしてまなざしという概念はこのふたつが交差する地点にある。
匿名的、機械的、記号的な欲望のレールに引き込まれた者が、それに対して「これは私の欲望じゃない」と拒否感を覚えること、反対にそのような暴力的な誘引にこそ欲望をかき立てられること、それを知的に再構成して批判してみせること、その知的な再構成の人為性を再演して嗤ってみせること、これらすべてが同じゲームのルールに従っている。そのルールは、見せられる(「見られる」ではなく)ことの受動性という側面を秘匿(否認?)しつつ、すべてを見る/見られるの関係のもとに回収することだ。
フロイトは「子供が叩かれる」で、表面的なサディズム/マゾヒズムのシーソーゲームの根底には根源的なマゾヒズムがあるのではないかと考えた。あるいは『眼がスクリーンになるとき』という本で僕は、ベルクソンとドゥルーズの知覚論・映像論を、見せられることの受動性(眼=スクリーン)が主体的で能動的なまなざし(眼=カメラ)に先行するような理論として再構成した。そういう系譜もあるが、SNSでの論争にはどちらの陣営にとっても都合が悪いので省みられない。
まなざしのゲームにおいて否認される、しかし実際はそれに先行する受動性とは、そもそもわれわれが性的欲望をインストールされてしまっていること、その「そもそも」に対する受動性だ。まなざしに性的欲望が宿るより前に、性的なものとしてまなざしを作る欲望があるのだとも言える。
あらゆる画面にわれわれを「釣る」ためのイメージがこびりついている。それ自体が何かをまなざしているのではなく、むしろそれはわれわれを「まなざす者」というポジションに押し込めるために、セックス、金、美醜にかかわる情動をパッケージングした記号をちりばめている。時限爆弾をリレーするようにまなざしを自分以外の者に押しつけることはその構造を解決しない。だとすると、「釣り」的でもなく、純粋でナチュラルな身体性に寄りかかるのでもないセクシュアリティこそが開発されなければならないだろう。「たとえば?」、「え、僕に聞いてます?」