まあいっかと思って一日飛ばしたので二日ぶん書く。
7月18日
金曜日で、フィロショピーの「日記の哲学」5回目。プラトンの『パイドロス』を2時間で解説する。ほんとによくできた本だと思う。次回は最終回で、デリダの「プラトンのパルマケイアー」について。『パイドロス』を読んで「パルマケイアー」を読むのが、いちばん手っ取り早いデリダ入門だと思う。フロイト「快原理の彼岸」を読んで「思弁する:「フロイト」について」を読むのでもいいが、いずれにせよデリダは読解対象のテクストを読んでから読まないと、つまり、脱構築とは何かという理論的なことだけでなくそれがどうなされるかという実践的なことを体感しないと、何が面白いのかわからない。
それにしても、「読む」ことを哲学することそのものに埋め込むという、ハイデガー以来の伝統はこれからどうなるのだろう。
7月19日
ターニャ・M・ラーマンというアメリカのキリスト教福音派を主に研究している宗教人類学者の『リアル・メイキング』を読み始める。シットとシッポで話した「交換様式F(ファクト、フィクション、フェティッシュ)」的な話だなと思って買った。僕なりに言えば、フィクショナルな対象を「いることにする」ための具体的な手続きと、それによって形作られる社会性についての本。面白いのは、ラーマンの研究が、人類学における「存在論的転回」とバッティングするということだ。デスコラやヴィヴェイロス・デ・カストロは、たとえばある部族においてジャガーが人間だと見なされるのは、そう「信じている」のではなく端的にそれを「知っている」のだと考えた。知と信、世俗的なものと超越的なもの、自然と文化の分割それ自体が西洋的な文化なのだという逆転。『リアル・メイキング』は存在論的転回を経たうえであらためて信の問題に帰ってきているわけだが、理論的なポテンシャルがどこまで活かされているのかはまだよくわからない。