5月13日

朝、二度も締め切りを延ばしてもらったのもあって、『非美学』再校ゲラを自分で出版社に持っていく。河出はさいきん神楽坂に移転したらしいが前の社屋を知らないので感慨もない。再校の最後はほとんど、一周目であとでもうちょっと整えたり補ったりしようとつけた付箋を、ただ外していくだけの作業だった。もういい。見たくない。でもなんだか悲しい。そういう気持ち。会議室で編集者に渡して、いくつか全体のチェック事項を伝えて、ビルを出た。神楽坂。何もない。本当に何もない。まずどこも煙草を吸えない。ドトールすらない。喫煙所マップのアプリを開くと、駅の反対側の入り口付近のファミマに喫煙ブースがあるということで、そこに行った。2階のイートインの脇にあるブースで一服して、たぶんここが神楽坂の上限なのだと思い、1階でサンドイッチとファミチキ、カフェラテを買ってそれを昼食にすることにした。店員は中南米系のおばちゃんで、名札に「サラダ」と書いてあって、ポイントカードはありますですかと丁寧に話していた。やはりここが上限なのだ。煙草を吸うと自動的にその街のいちばん優しい空間に行ける。実際、イートインで隣のおじいさんがアイスティーをこぼして、今度は「サビナ」という女性が片付けにきてくれた。帰るともう夕方で、いそいでフィロショピー初回のレジュメを準備した。2時間喋りっぱなしでへとへとになって、しかし頭が冴えて眠れそうになかったのでコーラを買いに出た。

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5月12日

「思考にとって第一のもの、それは不法侵入であり、暴力であり、それはまた敵であって、何ものも知への愛=哲学philosophieを仮定することなく、一切は知への嫌悪misosophieから始まる。思考されるものの相対的な必然性に居座るために、思考をあてにするなどということはやめよう。反対に、思考するという行為の、また思考するという受苦=受動の絶対的な必然性を引き起こし、しっかりと立たせるために、思考するという行為を強制するものとの出会いの偶然性をあてにしよう。真の批判の条件と真の創造の条件とは同じものだ。おのれ自身を前提とするような思考のイメージの破壊と、思考自体における思考するという行為の発生とは同じものなのだ。」
ジル・ドゥルーズ『差異と反復』、上巻372頁

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5月11日

一日中ゲラをやって明日ゆっくりなおすところの目星を付けて、夜にフィロショピー勧誘の配信を1時間ほどした。終わってすぐにそれをひととおり聴き返す。ちょっと変かもしれないが僕は自分が喋っているのを聴くのが好きで、イベントのアーカイブとか、自分の動画をいちばん見ているのは自分だと思う。声は僕が自分で聴くものより薄く乾いている。その声が考えていることが手に取るようにわかる。

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5月10日

再校ゲラのチェックを進める。表記統一についての判断にいちいち足を取られるのもどうかなと思う。わりとあらかじめ決まっているほうだとは思うが(たとえばこの「ほう」を僕はいつも開く)、「あつかう/扱う」とか「つながる/繋がる」とか「おこなう/行う」とかに揺れがあり、それはそのときどきの気分で、文章の内容とも無関係ではないのたから、それでいいではないかとも思うが、たとえば同じ見開き内で揺れがあったらそこに気分以上の意味を勘ぐられそうな気もするし、だったらやはり統一するのが無難なのか、とか。他方で「あらわれる/現れる/表れる」は僕のなかではわりと意識的に使い分けているのだが、校閲から開いて統一する提案が入っており、いやー、それはちょっとイージーすぎる感じもする。ややこしいのは、やっぱりこうしようの「やっぱり」と、でもさっきこうしたしの「でもさっき」が毎度衝突することだ。

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5月9日

外でゲラ。決断を後回しにするための付箋を家に置き忘れたことに気づいてがっかりする。iPhoneのメモで代用する。

夕飯に鰺のパスタを作る。とてもおいしかった。また作ろう。小倉知巳のペペロンチーノをベースに、アンチョビとパルミジャーノを加えて奥行きを出したレシピ。彼のレシピ動画がいいのは、基本の食材が銘柄とともに固定されていて、それを絶やさないようにストックしておけばあとはその日食べたいものや家にあるもので作れること、そして具材を足すときに必要な工夫も合わせて紹介されることだ。和食は多様な食材がまずあって、それを基本の「さしすせそ」で収束させる傾向があるように思うが、イタリアンの基本食材(パスタ、唐辛子、にんにく、トマト、チーズ、オリーブオイル、ハーブ類)はむしろ、そこからそのつどのメイン食材によって味を発散させるためのものとしてあるように思う。だから「イタリア料理はムラの美学」であるわけだ。こちらのほうが僕の性に合っている。なによりパスタを茹でるのは米を炊くよりずっと早くできるし。

鍋で塩を加えた湯を沸かしながら、材料を着る。にんにくとイタリアンパセリはみじん切り、おろした鰺を一口サイズにする。パルミジャーノをたっぷりすりおろしておく。冷たいフライパンににんにくと唐辛子(ペペロンチーノ・ピッコロならなおよし)とオリーブオイル(安物)を加え、中火で温め始める。鍋にパスタ(ガラファロ1.5ミリならなおよし)を加え、別のフライパンで鰺の身を皮を下にして強めに焼き始める。にんにくの香りが出たらアンチョビのフィレを加える。ゆで時間が残り1分くらいになったら鰺の身を、あとで上に載せる何切れかを残してソースに混ぜ合わせて粗く身を潰す。茹で上がった麺を合わせてパセリ、パルミジャーノ、オリーブオイル(いいやつ)を加え、茹で汁で水分を調節する。皿に盛って切り身を乗せ、粗挽きの胡椒をかける。

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5月8日

朝8時までかかって原稿を出して、2時間だけ寝て、7日には原稿が終わっているはずだったので11時から予約してしまっていた鍼灸院に行って、1時から新しい企画の打ち合わせで編集者とサモアールで話した。鍼灸師に右の股関節のこわばりは古いものですかと聞かれ、そういえば高校のころサッカーで軽い疲労骨折になっていたのを思い出した。いまだに右足だけちょっと太いらしい。打ち合わせはゼロからなのでいろいろカードを出して結局3時間くらい話して方向性は見えてきた。夏頃にもういちど話して企画として固めたいと言われたが、枠組みに引っ張られるのも嫌なのでもうしばらく寝かせてほしいと言った。帰って、妻に悪いが夕飯は適当に何か買ってきてくれと連絡して寝た。

それにしても気づけば、ゴールデンウィークに入ってから来週あたりまでめちゃめちゃ忙しい。連載原稿はやっと手放せたが、『非美学』再校ゲラももう戻さなければならず、週明け月曜はフィロショピー初回、火曜は「いてもいなくてもよくなることについてvol.2」公開収録、水曜は『眼がスクリーンになるとき』文庫版追加鼎談の公開収録…… ぜんぶ頭の使い方がちょっとずつ違うし、これらが終わってももう2週間後には連載次回の締め切りで、今回の校正も並行してあり…… まあフリーになってこれだけ仕事が詰まっているのは喜ぶべきことでもあるのかもしれないが。

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5月7日

また朝までかかってなんとか原稿を仕上げる。いつも最後は徹夜になってしまうのは、単純な準備や書き方の問題ではなく、気持ちの問題でもあるのだろう。ともかく今回もいいものが書けたと思う。

エディタに書いているのが行き詰まると、紙のノートにいま何がどこまで見えているのか書く。最後のセンテンスをまるまる書き写してから、内容というよりその流れからの書き味だけをたよりに次の文を書く、その箇条書きが数歩進んだ先でまた行き詰まり、そうするとこんどはさらに数歩先に出てくるだろうことについて、文としてではなくフレーズ単位の箇条書きがばらばらと並び、最後はキーワードを矢印で結んだアイデア図になる。左上から右下まで、だんだんグラフィカルになった見開きが出来上がって、それを左上からエディタに打ち込んでいく。フレーズの頭出しをしたところを文に置き換えていると、だいたい別の問題が発生して、また同じように見開きぶんの見通しを書く。それを繰り返す。

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5月6日

7日午前が「言葉と物」の締め切りで、夜通し書いていたのだが間に合わなかったのでもう1日だけもらうことにした。とはいえ今回はそれっぽい枠組みを作らずにタイトに、直截に書いていて、また新しい書き方ができているという実感があって、嫌な焦燥感はない。

『非美学』の再校ゲラと連載の原稿の作業のあいだにばちっと静電気のようなものが走って、ドゥルーズの「他者」概念が何をしているのか、やっと心の底から理解できた。たとえばこういうことだ。あなたはいま、とにかくぼおっとしている。交差点に並ぶ車のランプの明滅に自分が吸い込まれていくように、あなたは知覚に溶け込んでいく。それは他者がない世界であり、椅子と尻の接面、舌と口蓋の接面、遠くの声や音のすべてに等価にあなたの存在が張り付いていく。そのときふと、「カギの110番」という看板の文字が目に入る。それが他者だ。さっきまで世界は私と溶け合うひとつの気分で満たされていたのに、その文字はカギのトラブルがありうる世界を表現する。だから他者は「世界を過ぎ去らせる」のであり、「過ぎ去った世界に置き去りにすることによって私を作る」のだ。いまや世界は、カギのトラブルがありうる世界になり、私は文字通り「我に返り」、さっきまでの、カギのトラブルの可能性もなく、他者から隔てられる限りでの私もいなかった世界から遅れてやってきたものとして、その遅さにおいてのみ私という資格を与えられる。他者が「可能世界の表現」であるというのはそういうことで、それが看板の文字であれ他人の顔であれ、あなたを我に返らせるものが他者であり、他者はある遅さにおいて我に返らせると同時に、世界をここにはないもので裏張りする。

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5月5日

今日はいいことをした。妻とイセザキモールを歩いて帰っていると、カルディの前でおばさんが小さな子供の手を持って膝をついて話しかけている。子供はそれに答えず立ち尽くして周囲を見回している。そのしばらく先、ドンキホーテの交差点の手前で電話を持って中国語で話している女性がいて、その必死な様子を見て、彼女がさっきの子供のお母さんで、子供は迷子なのだろうと思って、お子さんを探してますか、カルディに迷子の子がいましたよと話しかけると返事もなく走って行った。いちおう着いていってみるとやはりそうだったらしく、母親は大泣きしながら子供を抱えていた。妻がよくわかったねと言う。何年もこの道を歩いてきた甲斐もあったというものだ。

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5月4日

数年前に妻に買ってもらったSONYのワイヤレスイヤホンが、電池がすぐ切れるようになってきた。乗り換えるならAirPodsProか。

腸が疲れていると鍼灸師に言われて、一日3、4杯飲むコーヒーのせいだろうと思ったので、台湾の凍頂烏龍茶を買って家でコーヒーの代わりに飲み始めた。丸まった茶葉を4つくらいカップに入れてお湯を注ぎ、飲みきったらまたそのままお湯を注ぎ、それだけで4杯ぶんくらいは飲める。

夕方、後頭部が痛かったので頭痛薬を飲んだ。しばらく出ていなかったのだが。鍼でゆるんで血流がよくなってかえって痛くなっているのだろうと合理化する。

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