6月12日(日記と財布)

日記を始めてから気持ちのざわつきが落ち着いている。べつに誰が感想を言ってくれるわけでも、いいねがたくさんもらえるわけでもないが、こうして毎日更新しているというだけで、読者に対して単純接触効果的な安心感をいだくことができるのは不思議だ。他者がいることにできることへの自己満足というか、自己満足による他者の設定というか、なんだかわからないがいずれにせよ変だ。ともかく僕はものすごく単純なんだと思う。竹ひごとたこ糸と輪ゴムで作れる。

昼、もはや週1以上で通っている関内のバーガーキングでチーズワッパーを食べていたら電話がかかってきた。ふだん電話はだいたい無視するのだが、市外局番が08から始まっていて、岡山の実家の番号は0866から始まるので、財布を見つけた広島の警察からの電話かもしれないと思って出てみるとやはりそうだった。現金はなくなっていたが保険証・免許証はあるようで、すごく助かった。郵送で送ってくれるらしい。同時にうっすら、なくしたときの、泣き止んだ後のようなすがすがしさを返してくれと思った。財布は返ってくるのだが。

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6月11日(ニーチェ孫引き)

空気にまとわりつくような雨で、洗濯物がたくさんたまっていたので、2回に分けて洗濯する。長い昼寝をした。デリダの講義録、『生死』を読んだが、こんな日でもなければゆっくり読む気にもなれないくらい陰気な本だ。それにしても哲学者はなぜ自伝ばかり書くのだろうか。ニーチェ『この人を見よ』からの孫引き。

「きょう私は私の四十四回目の一年を葬ったが(begrub)、それはけっして徒労ではなかったのだ。それはもう葬られてもかまわなかったのだから[強調されています:ich durfte es begraben:私はそれを埋葬する権利があった]——この一年のうちで[四十四回目の年において]生命(Leben)であったものは、救い出され(gerettet)、ist unsterblich、不死になっている。Unwertung aller Werte〔一切の価値の価値転換〕の第一書、ツァラトゥストラのLieder〔歌〕、『偶像の黄昏』、鉄槌【ルビ:ハンマー】で哲学する私の試み——これらはみなこの一年に、しかもこの一年の最後の三か月の間にでき上がった贈り物なのだ! どうして私は私の全生涯に感謝せずにおられようか[強調されています:Wie sollte ich nicht mainen ganzen Leben dankbar sein]?——そして、だからこそ、私は私自身に私の生涯を語り聞かせようとしているのである[私は私に私の生を物語る、復誦する:Und so erzähle ich mir nein Leben]。」

併記されている原語はドイツ語で、[角括弧]はデリダによる補足、〔亀甲括弧〕は日本語訳者による補足だ。邦訳書の傍点をここでは太字に置き換えている。こういうものを読むというのはどういうことなのだろうと思う。僕はドイツ語ができないが、こういう場合はほとんど読めると言っていいくらいに読める。しかしそんな紙の船みたいなリテラシーがその軽さによってもっていたような価値がなんなのか、なんだったのか、僕自身わからなくなりつつある。

この講義は1975年になされたもので、ドゥルーズ&ガタリが『カフカ』を出し、フーコーが『監獄の誕生』を出した年だ。生きることと書くことのもつれた関係についての3つの解答が出揃った年とも言える。

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6月10日(日記ワークショップ)

火曜日は雨が多い。立教に行く日で、たぶんもう4度目の雨だ。今日の授業は日記ワークショップ。事前に書いた日記をもってきてもらい、4人グループで回し読みする。ひとつの日記を読むのに10分かける。導入として、われわれがいかに多くの文章に触れて生活しているか、それをどれくらい読み飛ばしているか、ということを話す。いぬのせなか座山本さんの文章の「主観性」の話と、言語の統計的な性格がどのように生成AIに使われているかという話も紹介する。文章の主観性は「私は〜と思う」といった表現だけに表れるものでもない。われわれは辞書と文法書を使って言葉を組み立てているのではなく、高度に適当な統計的パターンを知覚している。普通に読めば1分くらいで読めてしまうものを、穴が空くほどじっくり読んで、実は無数に転がっている自分では選択しえないような言葉の並びから書き手の体の輪郭を探る。このワークショップは数年前日記屋「月日」でのレクチャーで最初にやって、これまで何度かやってきたが、どこでやってもとても盛り上がる。それにタイムキープをするだけでいいので楽だ。

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6月9日(天ぷら屋のボウル)

朝までかかって『置き配』の序文を仕上げた。メールで送信予約をして、誰に共有することもできないが嬉しくて目が冴えて眠れなかった。なんとか2時間ほど寝てシットとシッポの収録へ。事務所の近くの天ぷら屋で荘子くんと昼ご飯を食べた。おじいさんがひとりでやっているカウンターだけの古いお店で、定食は800円からある。揚がったものをどんどん皿に乗せてくれる。衣のボウルには粉が山のように盛られ、その裾野だけが水に浸っている。食材に合わせて水気を調節するためだろう。それを見て、物作りってこういうことだよなと思った。レシピ通りに決まった割合で混ぜると感覚がおろそかになるし、食材ごとに違う割合のボウルを用意するのも馬鹿げている。砂浜のようなボウル。それは食材の水気や油の温度や火入れ加減も含むマルチモーダルな状態を乗りこなすためのものだろう。料理が口に入る瞬間をゴールにするとその手前に定点を作ることは裏切りになる。勉強になった。

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6月8日(誰でもなくなりかけた話)

財布をなくしてもう1週間経つが、クレジットカードとキャッシュカードの停止と再発行以外まだなにもできていない。現金はなくてもぜんぜん困らないが、免許証も保険証もなくし、パスポートはちょうど4月に期限が切れたところだったので、いまは身分証というものをひとつももっておらず、誰でもなくなっている。しかしこうなると、再発行のための身分証がないわけで、八方塞がりなのではないかと思い、Geminiに相談してみた。まず住民票を取ってそこから保険証・免許証を再発行するといいということなのだが、身分証なしで住民票が発行できるかは自治体によるということで、はっきりしない。という話を妻にしたら、私が住民票をもらえばいいんじゃないかと言われ、たしかにそうだと言った。

いちばん美味しいラーメン屋こと寿々喜家に行くと、ちょっと並んでいて、まあちょっとだからと言って妻と並んでいると、明日から営業時間が午前6時から午前1時になるという手書きの張り紙があった。これまで夜9時には閉まっていたので夜の営業時間が延びるのは嬉しいが、朝6時から家系ラーメンを食べるひとがいるのだろうか。午後6時の間違いなんじゃないかと言いながら空いた席に座ると、帰りがけの客が店員に寝れないんじゃないと声をかけていて、店員は4時間睡眠だと言っていたので、ほんとうに朝6時から開店するのだ。昼から始発までのほうが絶対いいと思うのだが。

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6月7日(禁煙しながら煙草を吸う方法)

禁煙4日目。今日は4本吸った。外で吸っていると蚊に刺された。

『置き配的』の序文を書いていて、やっと、自分のなかでこの本のことを完全に肯定できるようになってきた。もう連載が終わって丸1年ほど経つ。それくらい時間がかかるのだ。ほんとに変な本なのは間違いなく、やぶれかぶれになりながら書いたのも確かなので、まとまっていないとか、奇を衒っているとか、そういうふうに思われるんじゃないかと自信をもてずにいたが、これが自分の素直な書き方だし、それは自分以外の誰もできないことだと思えるようになってきた。『非美学』の刊行からも今月末でちょうど1周年なので、あらためて振り返り・解説の文章を書いてみようかなと思う。『非美学』を引っさげてのベルギー行きの機運も見えてきたし。

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6月6日(「続・左手のない猿」へ)

ある写真家の作品集への寄稿依頼があって、作品の批評というより、作品に直接関係なくてもいいからエッセイ的な文章を、ということだった。僕はそもそも現代美術と関わったのが展示内企画で『シネマ』について5時間連続で講義するのが最初だったし、どうしてか「作品に直接関係なくてもいい」というかたちで関わることが多い。とはいえ何でもいいわけではないだろうし、「左手のない猿」について書いたブログを送って、これを膨らませてちょっと思弁的なエッセイにするのはどうかと提案すると、作品集も1万2千年前にホモサピエンスが定住を始めたことが作品集のテーマでもあるので、ぴったりだと返ってきた。すごい偶然ですね!と言ったが、それがはまるだろうということには確信があった。作品の感じや依頼の文面やタイミングでそういうのはわかる。

午後はずっとフィロショピーの準備。8時まで準備して、8時から2時間喋る。自分としてもかなり手応えがあったが、コメントでも好評だった。絶対おもしろいのでぜひ受講してほしい。まだ3期目だが「日記の哲学」はフィロショピーの最高傑作になりそう。

集中して準備をするために煙草を3本吸ってしまった。これでもう最後の箱も吸いきったのでこれからが本当の禁煙ということになる。いまのところ大きな変化はないが、視力が上がった気がする。

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6月5日(ライフとログ)

どうしても朝までにやらなければいけない仕事がなかなか終わらず、昨夜1本の半分煙草を吸ってしまった。今日このまま寝ればやっと丸1日禁煙できたことになる。いずれにせよ3日の夜からほとんど吸っていないわけだが、どうしても納得いかないのが、禁煙を始めてから喉が痛くなりはじめたことだ。痛かったのが治るのならいざしらず。

明日の「日記の哲学」はグレッグ・イーガンの「百光年ダイアリー」と「貸金庫」の話をしようと思って、読み返していた。SF小説を題材に授業をするのは初めてで、どんな感じになるか楽しみだ。どちらもほんとにすごい作品だと思う。「百光年ダイアリー」は、時間が逆行する銀河にデータを転送することで、未来の自分の日記を読むことができるようになった世界の話で(金持ちは動画を送れる)、自分が死ぬまでに書いた日記のすべてを読みながら育った主人公が、書かれていた通りの出来事を辿り、書かれていた通りに書きながら日々を生きる。これだけ見ると非現実的な思考実験のようだが、まさに講座のテーマとして掲げている「ライフが先なのかログが先なのか」問題をど真ん中で扱った作品でもある。

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6月4日(誕生日、というか)

誕生日なのだが、とくに特別なことはしておらず、なにより昨夜から禁煙しているので、煙草が吸いたくて誕生日どころではなかった。そわそわして作業に集中できず、今日だけで近所のカフェを4つもはしごして、歩いて気を紛らわせていた。

明日締め切りの文章があるのですが、それを仕上げるために、今日までは吸っていいことにしていいでしょうか。誰か。

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6月3日(禁煙、というか)

広島で財布を失くして、悲しいし、諸々の再発行は面倒なのだが、同時に、どこかちょっと嬉しく、どこかちょっとすがすがしい。それで、煙草もやめることにした。明日誕生日で33歳になるし、ふと、30代のテーマは「10代になると同時に40代になること」だなと思った。20代の頃は10代が恥ずかしかったが、30代になると20代の頃が恥ずかしい。そして僕にとって煙草は20代のエンブレムで、そういうものとして保存するためにも、いまがやめどきなのだろうと思う。

ものを失くすというのは、フロイト的には典型的な神経症の症状だ。僕は精神的に追い込まれると、スマホや財布を失くしたと思い込んで必死に探して、諦めたと思ったら家の電子レンジの上とか、どうしてそんなところに置いたのかと思うようなところにあるのを見つけたりする。その裏面で、いわば、財布に溜まっている「キャッシュ」を削除するのは無意識的な断捨離のようなもので、広島で失くすというのは、そういうことでもあるのだろうと思う。

いまは『置き配』の初稿を書き終わりつつあって、ひとつの作品を仕上げるというのは、脱皮に似たところがあって、新しい皮膚に当たる風が恐ろしいような感じがする。煙草を吸っていて、煙草を吸っていない状態になるために煙草を吸っていることに気づいてしまった。それはちょっとショックで、つまり僕は、煙草を吸わなくてよくなるために煙草を吸っているのだ。それはちょっとショックで、つまり、煙草を吸わないということが煙草をいちばん吸っているわけで、それは禁煙というより、煙になることなのだ。しばらく経つと胸がムズムズするが、それは煙草が吸いたいからではなく、煙草を吸わなくなりたいからなのだ。ということを考えながら大学の喫煙所で煙草を吸って、煙草とライターをゴミ箱に捨てて、授業をした。

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