3月10日

校正の続き。「韜晦」とか「馴化」とか、そういう語彙にルビを入れる提案がなされていて、すべて拒否している。なんでも読めればいいというものではない。読めない漢字がちらほらあるほうが、むしろ読めないことに対する神経質さが和らげられるだろうし、漢字が読めれば読めるわけでもない。というのは、ここのところ立て続けに柄谷行人の『日本精神分析』と山城むつみの『文学のプログラム』を読んだからかもしれない。漢字かな交じり文、あるいは訓読は、中国語を書くかのように日本語を読む(ものとして日本語を書く)もので、その「かのように」の数だけいろんな表記が発明されてきたということなのだろう。いずれの議論も話としてはおもしろいがどうにも引っかかるのは、漢字が読めることになっているからかもしれない。カナモジ運動もローマ字運動も潰えた。他方で日本語独自の筆記機械は浸透せずいまだにQWERTYキーボード+ローマ字入力+漢字かな変換で書いている。どうしてか読める文字で書こうということにはならないらしい。

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3月9日

昼ご飯は簡単に済ませようと思って商店街にあるテイクアウト専門の吉野屋で焼肉丼を買って帰ったのだが、しょっぱくて食べられず、肉をほとんど残してご飯だけ食べた。こんなにしょっぱいものだったか。

夜中、ジムに行った。20分走って、1時間トレーニングする。あまりに寒かったので帰りはコンビニで手袋を買って、LUUPに乗って帰った。

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3月8日

夜中から朝まで黒嵜さんと電話。『非美学』のゲラを渡していて、序論と第1章についてコメントしてもらう。彼のコメントのしかたは独特で、読むプロセスにおいて強いられる負荷と、あとでそれが回収されることによる報酬のリズム、キャッシュとそのリフレッシュのリズムを実況するように話してくれる。それが乱れるのは、負荷の宛先に不信が生まれたり、断言がこれまでの話のパッケージとしてなされているのか、これからの話のためのとりあえずの置き石としてなされているのかわからなくなったりするときだ。そういうリズムはなかなか自分で書きながらコントロールできるものではない。校正からの指摘でかえってどういうフレームに定位してなおしていくべきか迷子になっていたのでとても助かった。友達の話、ふたりでやりたいことの話。続きはまた来週と約束する。

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3月7日

腰痛、肩凝り、頭痛、自律神経の失調のアマルガムから博論本初稿提出と同時に抜け出して、やっとメンタル面に気がいくようになったのか、心療内科に行こうと思って、予約していた。歩いてクリニックに向かいながら、本当に行きたいのだろうかと思った。受付でマスクはあるかと聞かれ、ないと思うと言ってバッグを探るとあった。狭い待合の小さい椅子で20問ほどのアンケートがついた問診票に書き込む。診察室は、当然だが他の病院のようにレントゲン写真を挟む板も、シャンプー台のような椅子もなく、白髪を短く刈った太った男の向かいの椅子に、アクリル板を挟んで座った。棋士の加藤一二三やシェフの三國清三のような人懐っこそうな男だ。寝つきが悪いということですが、鬱の傾向がありますねと言われ、そういうつもりじゃないんだけどなと思って、まあそれは性格みたいなものだと思いますと答える。仕事を聞かれ、文章を書いているのだが、締め切り以外に時間の区切りがないので休みらしい休みというものがなく——日記も毎日書いて公開していて、とは言わなかったが——始終頭のなかを言葉が巡っていてなかなか眠れず、そうかと思えば実際机に着いてもなかなか集中できないのだと話す。彼は夜型を矯正したいようだが、そういうことでもないのだと言う。ただ寝ようと思ったときにさっと寝たいのだ。デエビゴという薬を提案される。集中できないのは、どういう理由がありそうかと聞かれる。机に着くと気持ちがざわざわするのだ。だいたいADHDは8歳くらいには決まっていて、そこから高校くらいで落ち着く人は落ち着いて、大人になってまた出る人もいるのだが、どういう子供だったかと聞かれる。小学校のときから宿題はできなかったし、中高は不登校で、大学もろくに行っていなかったが、それでもやりたいことだけやれるように頑張ってきた、それがいまになって、環境と齟齬をきたしているのかもしれない。最後のところは半分ウソで、たんにそろそろ自分の話す番を切り上げるべきだと思ったのだ。あるいはこんな場で自分が自分の生き方を確立してきたことを言うのが恥ずかしくなったのかもしれない。紙を一枚出される。DSMをもとにしたADHDのチェックシートだ。2分で答えてくださいと言われ、チェックして返す。該当する答えが多く「濃厚」ということだったが、思いつく知り合いの誰が答えてもそうなりそうな設問だった。でも、すぐに薬を出して突き放してしまう医者も多いが、うちはある程度様子を見て状況から考えるのだ、コンサータなんて覚醒剤だからね、それにそこまで差し迫った状態でもないでしょう、好きな仕事ができていて、奥さんもいて、と言われる。そうですね、生活に不満はまったくないですと答える。とりあえず2週間デエビゴを飲んでみて、どうすれば薬を飲まずにうまくいくのか考えてみてください、それが宿題ですと言われ、はい、ありがとうございましたと言って別れる。宿題は苦手なのだが。なにか、自分がこれまで守ってきたものを少し明け渡してしまったような、それはそれでいいような、デエビゴ2週間分はその対価としてはあまりにちっぽけなような気がした。

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3月6日

校正は自分より雑な人間にやってほしい。いや、丁寧で雑な人間がいい。必ずしも間違いとは言えない細かい指摘ばかりが続くとなんだか文章が疎遠に感じられてしまう。まあもうそれでいいのかもしれない。半分自分のものでないのだ。また2週間ぶりに編集者が関内まで来てくれて打ち合わせ。デザイン、広報、次の企画について話す。書き終わったがまだ本にはなっていない。

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3月5日

ようやく連載原稿を渡せた。もうこんな思いはしたくないが、またするんだろう。そもそも先月博論本の初稿を出したときにすでにそう思っていたのだ。ずっと書きたかったことは書き方を変えないと書けない。

博論本の序論と第1章のゲラだけをもってドトールに出かける。このあたりは幾度となく読み返したところなのでいまになってなおすところはあまりない。むしろ書き進めたあとで振り返ってあれが足りなかった、これが不整合だと書き変えたところが浮いており、その部分をまるごと取り去ったり、押しつけがましい反復を減らしたりする。

雨が降って、寒い夜だった。家の机で作業の続きをしていると眠たくなってきて、歯を磨いて寝室に移った。まっすぐに眠気を感じて寝るのなんていつぶりだろうと思った。

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3月4日

昨日水道橋にいたわけだから、今日また神保町に出てくるのは、もったいない感じもする。もう講読も15回目になるが、まだどういうルートで神保町に出るのがいいのかわからない。浅草線に乗り入れる京急で三田まで出たり、東横線で渋谷まで出たりする。いつからか帰りのルートは三田線で内幸町に行って、そこから新橋駅まで5分ほど歩いて上野東京ライン(わかりにくい名前だ)で横浜まで戻るのが習慣になっている。なにより品川と川崎にしか停まらないので速いし、疲れていたらグリーン車に乗れる。それで、行きもそのルートで行くことにして、新橋で降りて神保町に移動する前に見つけたドトールに入って準備をした。内装が完全に仕事場として利用することを想定したかたちになっていて、とてもいいドトールだな、こういうのは東京にしかないなと思った。ひとりひとりに与えられたスペースにゆとりがあって、東京の悪いドトールのように体の幅ほどに区切られたスペースに押し込められることもない。いわゆるフラグシップの店舗なのかもしれない。喫煙ブースはふたりしか入れないのだが、あるだけありがたい。灰皿の上の壁に葉巻を持って本のページをめくる手元を写したモノクロ写真が架けてあって、敵意はないとアピールしていた。

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3月3日

松江の義両親が趣味で習っている仕舞の発表会で東京に来ている。仕舞とは能の演目の一部を衣装などを簡略化して演じるものらしく、それがどういうものでどういう感じで見るものなのかわからず不安だったが、前々からちゃんと来るようにと念をおされていたので静かに観念して妻と水道橋まで出て、彼らが泊まっている東京ドームホテルのロビーで待ち合わせる。名古屋から来た義姉も合流して交差点を渡ったところに能楽堂があって、用意されていた高そうな弁当を三人で食べる。親戚がふた家族くらい来たり、義父の友人の早稲田の教授が来たり、お世話になっているらしい先生が来たりして、なるべくニコニコしながら半分そこにいないみたいになるべくランダムなタイミングで煙草を吸いに立っていた。そろそろ出番だというので客席に入る。発表者はそれぞれ5分ほど、謡だけの発表はひとりの鼓を、舞の発表は四人の囃子と四人の謡を伴って演じる。伴奏者たちはプロらしい。ぽんぽん進むので存外見やすかった。浅く坂になった客席が四角い舞台を正面と向かって左側から臨み、舞台には立派な屋根が劇場の天井とは別に架かっている。ミュージックステーションみたいなものだと思って見ればいいのだと思う。義父が謡を、義母が舞を発表したのを見て、ロビーで親戚一同の集合写真を撮って、かっこよかったです、またチャンスがあれば見させてくださいと言って明日が締め切りなのでと断ってひとり先に帰らせてもらった。実際そうなのだ。少し仮眠して朝まで原稿を書いていた。

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3月2日

昼、商店街のベトナム料理屋でフォーを食べる。別皿に盛られたパクチーを乗せて、レモンを搾る。スープのコクとみずみずしい香り、スライスオニオンの鼻をつく辛さ。一様に半透明のもやしとライスヌードルを一緒に箸に絡めてすする。中国人(たぶん)の客がベトナム人の店員と日本語で話している。近くの天丼屋の店主が入ってきて、若い店員にプリンを渡しながら、いつものお姉さんはと聞く。結婚式でベトナムに帰っているらしい。この街に住んでよかったと思う。この街のおかげで人として成長できたと思う。

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3月1日

結局締め切りを週明けまで延ばしてもらって、気持ちに余裕が出て、休み休み書いていた。

昨日から続けて、もう5回ほども小さな地震があって、家が静かに揺れている。

調べ物をしていて、2019年にFedExがアメリカ通産省を提訴したという記事に行き当たった。アメリカはファーウェイなどの中国企業に対する禁輸措置を多用しており、FedExは執行機関でもないのにもかかわらず膨大な積み荷(一日に約1500万個)の監視を強いられ、ひとつでも違反があれば多額の罰金(25万ドル)を課されるのはあんまりだということらしい。もっともなことだ。

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