日記の続き#52

引き続き5月27日の未明。夜から雨が降り始めて涼しくなったが、日中はもう夏のようだ。珈琲館でアイスコーヒーの大きいやつを注文したけど、結局ぜんぶ飲まなかった。サッカー部員ふうの日焼けした初めて見る男の子が働いていて、高校生かと思ったけど平日だから違うのだろう。最近もう人の年齢がわからなくなってきて、先日京都に行ったときも京都駅を出て喫煙所に入って、なんでこんなところに小学生がいるんだと思ったら大人で、バスで隣に座った会社員ふうの男が通路側の僕に降りるのでどいてくれという身振りをしてそれで初めて彼が小学生だということに気づいた。ネクタイも腕時計もない夏服だと私立の小学生もサラリーマンも同じに見える。まだみんなマスクもしているし。僕はといえば平日も私服でうろちょろしているわけだから、大学生か何かに見えるのだろう。いま新幹線の喫煙ブースは感染症対策でいちどに一人しか入れないことになっていて、ブースの前に常時2,3人の列ができているのだが、僕が2番目に待っているときに、前に待っていた人が入ると同時にその男の上司らしきおっさんが割り込んできて彼と一緒に入って行った。しょうもないやつだなと腹が立ったが口も聞きたくないし、彼ら含め夜の上りの新幹線は車両全体がスーツのおっさんづいていて、僕はあらかじめナメられていたのかもしれないと思った。それにしてもすぐにナメられているかどうかで物事を考えるのはあまりにチンピラっぽいのではないかと、珈琲館の高校生ふう男子のナチュラルなガサツさと接客のくすぐったさを隠すためのガサツさが口先でぶつかっているような口調を聞いていて思った。本当に高校生なのかもしれない。

日記の続き#51

最初の頃にこの「日記の続き」には1日ぶんバッファがある、つまり、今日投稿するのは昨日書いたもので、今日書いたものを明日投稿するのだという話をしたが、その舌の根も乾かぬうちにどこかでバッファを消費し、それからずっとリアルタイムで投稿を続けてきた。今は5月27日の午前2時54分。 長い昼寝をしてまだ眠くないので明日のぶんを書き溜めておこう。リアルタイムに追いかけられるとキツい。内容的にも鬱屈と焦燥の気配が漂い始めているし、ここらでテコ入れしておいたほうがいいだろう。去年の日記はいつからか当日中の更新を諦めて、翌日の昼に起きてから作業をしたり出かけたりする前の時間に投稿するようになった。その日のことをその日のうちに書くと、忘れないように書き留めるという構えになってしまうのだが、睡眠を挟むともうたいていのことは忘れていて執着もなくなっているので昨日あったことでもいいし最近ぼんやり考えていることでもいいしと思えて楽に書けるのだ。日々と日記の形式的な同期はせいぜいタイトルの日付に宿っていればよい。夏休みの最後の日にまとめて日記を書くようなものだ。そういえば僕はそういう子供だった。今は毎日が夏休みの終わりだ。

日記の続き#50

これがどれくらいの人に当てはまるのか分からないので、漠然と「物書き」ということにしておくが、物書きというものは、何をするにもたくさんの言葉がつきまとってくる苦しみのなかにいるものだと思う。批評家、研究者、エッセイスト、小説家等々とそれぞれ最終的にアウトプットされる文章のジャンルによってその内容の傾向も多少異なるだろうが、少なくとも僕はつねに前後左右に2000字ずつくらい引きずりながら生きていて、そのあいだでスクランブル交差点みたいになった頭のなかで何だか分からないまま何かを推敲しているという感じがある。一挙手一投足とは言わないまでも、ある程度の幅のもとでの最近の考え、やりたいこと、あるいはやってきたことについてさあ書けと言われたらすぐ2000字くらい書けるし、30分喋れと言われれば喋れるだろう。やはりこれがどれくらいの人に当てはまるのか分からないけど、結構多いんじゃないかという気もするし、同時にこれは異常なことだと思う。そうじゃない人と話すときに変に思われないようにするのも難しい。相槌が単調になるし、簡単な受け答えに時間がかかる。(2021年9月5日)

日記の続き#49

日記についての理論的考察§9各回一覧
昨日の続きで〈メタテクスト/プレーンテクスト〉について。一般的に言って、ある文がメタに機能するかプレーンに機能するかというのは文脈による。しかし、多少ややこしい話になるが、文脈によってメタとプレーンを割り振れるという発想自体が、文章に対してメタな視点に立つ物言いである。つまりメタテクストとは己をプレーンテクストから切り離す垂直的な運動に宿ると考えたほうがおそらく正確で、たとえば、タイトルと本文の分割とか、章立てと本文の分割とか、段落中の「キーセンテンス」と「サポートセンテンス」の分割とか、そういうアカデミック・ライティング的なカスケード構造はそうした垂直性の典型だ。日記にはそういう垂直性に抗う側面があると思う。というのも、形式的にメタであるところのタイトルが血も涙もないただの日付で、これがメタが高層化することをブロックするからだ。日付を書いてしまえば、本文で記述的になろうが分析的になろうが内省的になろうが思弁的になろうが扇動的になろうが、それをその日のそういう私としてプレーンに受け取ってもらえる(気がする)。これはべつにマジカルな話ではなく、たんに私が書きつける日付に、このひとは昨日も書いたし明日も書くだろうというヒューム的で投機的な信用が宿っているからだと思う。

日記の続き#48

日記についての理論的考察§8各回一覧
イベントレスネス/イベントフルネスの話はいったん区切りがついたことにして仕切りなおし。イベントレスネスが日記の内容面での具体的な条件(カントにとって超越論的なものはそこから論理的に演繹される可能な経験の条件で、ドゥルーズにとってそれは論理的なオプションの格子を食い破る実在的な経験の条件として捉えなおされるべきものであった。この違いはちょうど、イベントフルな日記の抽象性とイベントレスな日記の具体性に対応する)だとすれば、それに対応する形式面の条件はプレーンテクストだと思う。僕はこの言葉をメタテクストとの対比で使っている。情報理論の用語で「メタデータ」とは文字や画像のデータがいつどこで誰によって作られたものか記されたものを指すが、これを敷衍して、あったことや思ったことを書いたものをプレーンテクスト、それを書く意味や外在的な状況を記したものをメタテクストと呼んでいる。これは相対的な概念で、たとえば本のタイトルは本文に対するメタテクストだが、本の本文のうちにも主題を宣言したりその意義を説明するメタテクスト的なものが含まれる。実体としては底も天井もないが、メタに向かうかプレーンに向かうかという傾向はある程度腑分けすることができる。長くなりそうなのでまた次回。

日記の続き#47

にわかに忙しい。日記本を——もう1日数冊のペースに落ち着いているが——送ったり、日記本についてのエッセイを書いたり、日記本についてのトークイベントの企画のやりとりをしたり、日記本をめぐる選書企画の本をピックアップしたり、テーマは別だが日記についても話したインタビュー(する側)の原稿をなおしたりしている。これはなんだろうと思うと、普通に本を出したあと仕事が群生するのと同じ事態が起こっており、しかも中身を書いたのも本を作ったのも売るのも宣伝するのも僕なので、本としての規模は小さいが仕事が僕に集中しているのだ。とてもありがたいことで、それは希望でもあるのだが、あらためて本が出るというと人々が「おっ」と特別な視線を向けるのは不思議なことだと思う。ずっとひとりで書いていたし、本もBOOTHだけで粛々と売ることになるだろうと思っていたのだが、書店で取り扱ってもらえたり書店員や編集者から諸々のプロモーションの機会をもらえたり、執筆時の長い孤独が報われたようだ。ネットに書き続けているだけだと僕が書き手で、あとはいるかもわからない読者か非読者という貧しい世界に閉じ籠もりがちだったのを、本を作ることでデザイナー、印刷会社、書店員、編集者といった顔の見える仲介者たちが開いてくれたという感じがある。ものを作るのは大事という話。

日記の続き#46


いつもの珈琲館。ライターを忘れたのでマッチを借りた。常連らしきおばあさんを、ひとりで歩いて来られるだけ元気じゃないですかと言いながら、店長が手を取って立ち上がるのを助けている。もう片方の手で彼女は棒の部分に蛍光テープを貼った杖を持っていた。先が4つ又に分かれていて、自立するようになっている。自立する杖。とても哲学的なオブジェだ。いつか何かの名前に使いたい。自立する杖が教えてくれるのは、先端が分かれていない普通の杖は自立しないということだ。人を支えるためのものが自立しないというのは考えてみれば不思議な感じがするし、杖にとって自立するしないがオプショナルであるというのはもっと不思議だ。そして杖の自立があってもなくてもいいのなら人間の自立はなおさらじゃないかという気がしてくる。しかしいろんな事情のもとにある個々人の生き様はともかく、哲学は自立する杖にならなきゃいけないと思う。何かを支えることもできるし、ほっとかれても気にしない。(2021年4月21日

日記の続き#45

起きてパンを食べて、彼女がジムに出かけて行って、珈琲館で作業をした。日記本についてのエッセイを1000字ほど進める。悪そうな人がスイス銀行の話をしていてウソみたいだった。日記本は作りの説明をするとそのまま日記のコンセプトの説明になるので面白いと思う。近くの寿々喜家でラーメンを食べた。ここのスープはしっかり濃厚だけどどこか上品で、家系ラーメンはもうここでしか食べないと決めている。他は露悪的なまでにギトギトした、チャーシューまで脂身だらけのお店ばかりで、地域的に家系のお店は多いが前を通ると濡れた犬みたいな匂いがする。カルディまで歩いて行ってコーヒー豆を買って、有隣堂をぶらぶらした。「もう1冊が嫁の心……あ、嫁の心得ですね。それでは嫁の家出と嫁の心得の2冊でお調べいたします」と店員が電話口で言っているのが聞こえて、心得を学びつつ家出を画策するのはどういうことなんだろうと思った。歩いて帰りながらコーヒースタンドで買ったカフェラテを飲んで、公園の隅で煙草を吸っているとユスリカが頭上で群れていた。彼らはどれくらいで解散するんだろうかとしばらく見上げていたが、30センチほど水平に移動するばかりだったので諦めて帰った。

日記の続き#44

今日は髭剃りの話。髭はいつも風呂で剃る。そのほうが剃ったあとシャワーで流せて気持ち悪くないから。人に会ったりする日だけ出かける前にあらためて洗面所で剃る。今日T字剃刀の替え刃を買った。8つで4000円もしてバカみたいだ。電動シェーバーはいちど買ってしまえばずっと使える。でもあの、どのブランドのものも一様にカブトムシみたいに黒くてずんぐりしたフォルムが許し難い。あの形にはこの世界で男が置かれている何かの立場が表れていると感じる。あれを使うことで何かを引き受けることになってしまう感じがして怖い。しかしそれは何なのか。それは、毎朝あの、無数の刃をモーターで高速回転させるカブトムシみたいな黒い太い棒を自分の顔に押し付けるということだ!ああ嫌だ!(2021年6月22日)

別の話。昨夜『日記〈私家版〉』のページで日記読者からの推薦コメントを募集したのだけどまだ1件も来ていない。恥ずかしいのでこのまま数日来なければ何もなかったかのように消そうと思う。YouTubeのコメント欄くらいの気分の短文でいいのでよければお寄せください。

日記の続き#43

日記についての理論的考察§7 (各回一覧
ドゥルーズは90年代初頭の段階で「イベント=出来事」が完全に商業的な領域に飲み込まれてしまったことを嘆いていた。モノ消費からコト消費へとよく言われるけど、30年前からそういう傾向に対して警戒していたわけだ。ドゥルーズ初期の『意味の論理学』は物体的な因果性をはみ出す出来事の存在論を体系化した本だったけど、そういう非物体的な次元はその後20年ほどで「付加価値」に置き換わってしまった。もちろん彼はそれでもうイベントなんて言ってたってダメだと言ったわけでなく、むしろイベントの商品化に抗うような出来事論を組み立てていった。これと似たような道筋を辿ったのが「コンセプト=概念」で、ドゥルーズはこれについても、概念は哲学が創作するものであるはずなのに商品の気の利いた惹句になってしまったと述べている。老境の彼は自分が長年取り組んできたものが資本の運動に簒奪されていく寂しさを感じていたのだろう。そういうのってどういう気持ちなんだろうか。哲学ってコンサルに使われてるんですよなんてとてもじゃないけど彼には言えない。僕なりの応答として、出来事が体験であり概念が広告であることがほとんど所与になった世界で、そういう世界が作った通路の吹き溜まりにイベントレスな日々を、コンセプトレスな散文で書いている。