体がだるくてほとんど一日中寝ていた。なんだか擬似的な鬱みたいな風邪で、熱も頭痛もひどい咳もないが、ちょっと動くと頭がぼおっとしてきて、スマホやパソコンを見ると眼の奥が引き絞られるように重たくなる。疲れが溜まっていたのだろうから無理に治さない。寝て起きて本を読んで軽くストレッチをする。毎週の京都日帰りと横国の非常勤、隔週で横国と神保町の講読が重なると帰りが夜中12時になり、月末に1万字の原稿の締め切りがあり、毎日本を書くというのは、いま思えばキツかったのかもしれない。週2日出勤なのでなんてことないと思っていたが。
12月27日
しばらく前にKindle Paperwhiteを買って、毎日風呂に浸かりながら普段読まない本を読んでいる。いまは河出文庫の『世界の歴史22 ロシア革命』を読んでいて、考察も論争もなく、短いセンテンスで淡々と書かれていて読んでいて気持ちいい。74年の本。新しくもないのがいい。
「ペテルブルクからモスクワまで鉄道をしく設計図をつくるとき、自分で定規をとって両市を結ぶ直線をひいた。皇帝[ニコライ1世]の指先にあたって、直線が三か所とびだしたが、工事はその曲ったところをそのまま実施にうつした。」
12月26日
風邪が長引いているのに、朝6時に寝て昼1時に起きるリズムになっているのでやたら夜が長い。熱はないので仕事はできる。
先日のワークショップの感想がぽつぽつと届く。面白かったようだ。あれは小学校の「朝の読書」に似ていたかもしれない。
12月25日
クリスマス、だが授業。さすがにいつもの講義をやる気も起きないので、事前にみんなに書いてもらった日記を返却して、グループで読み合うワークショップをする。ふつうに読めば20秒くらいで読めるものを、10分かけて読む。自分はその言葉の並びを使うのか、そこに読点を打つのか、解像度を上げていくほどに、読み飛ばせば読み飛ばせるものから異物感が浮かび上がってきて、そこから逆照射して自分が抱えている規範意識のようなものを自覚する。どうとでも書けるものをどうしてこの人はこう書き、自分はこう書くのか。あと、近づけば近づくほど文章が小さな断絶に満たされたものに見えてくるだろう。これは当時思ったことなのか、書きながら考えたことななのか、書きながら考えたことを当時思ったこととして書いているのか。なぜ話はここで出来事の推移ではなくその背景の説明にスイッチするのか。それがさらに自分がいつも思っていることへスライドするのは、どれだけ書き手が意識的にコントロールしていることなのか。とたんに1000字に満たない文章がわからないことだらけになってくる。説明とタイムキープだけで90分の授業が終わり、横浜駅で花を買って帰った。水炊きと、サツマイモのテリーヌと、花でクリスマスをした。
12月24日
水炊きを火にかけているあいだ、適当に感想をつぶやきながらM-1を見た。システムより人間が見たいよな、とか、君は誰なのかと問われているんだと、思って舞台に立ってほしいな。せっかくウソつくんだから、とか。実際、一緒に生きていくウソを作ることの楽しさこそが、エンターテイメントだと思う。映画や演劇を見たときに限らず、格闘家でもユーチューバーでも、このひとは「いい役者」だと言うとき意味しているのはそういうことだと思う。演劇まわりのひとを端から見ていてつまらないのは、戯曲が演出が、言葉が身体が場がという、制度論と制作論ばかりで、ひとりの人間が生きていて、舞台に立つことという——カサヴェテス的な——側面が見えてこないことだ。現代美術も似たようなものだ。ウソをつくことをシステムに仮託するか、「私」の名のもとに本当のことを言うか。でも大事なのは、このひとはウソをシステムに預けずに、それと一緒に生きていくんだという信頼だと思う。それがウソでもいいわけだが。
12月23日
夜中scrivenerで作業をしていたらcommand+Aを押した拍子にすべてのテクストが消えてしまいたいへん焦った。操作の取り消しもできないし、自動バックアップも数日前のファイルしかなく、ここまでの見直しがすべてフイになってしまう。なんとかTime Machineに繋いでいたので、20分くらいまえのファイルを復元できた。しかしなぜcommand+Aであんなことになったのか。もとのところまで作業をやりなおして、今日は触らないほうがいいと思って寝た。
起きたときから喉に違和感があって、風邪を引き始めているようだった。薬が入った引き出しにトラネキサム酸があったので、寝る前に飲んだ。
12月22日
『非美学』初稿チェックの続き。3章後半まで進む。先が見えないまま当たりをつけるように書いた箇所を整えて回収していく。あまり振り返らないようにしながら6章を書いていたので、頭のなかで勝手に前半はぐちゃぐちゃで、ここまで書いてきたいまから振り返るとさぞ不格好に見えるのだろうと思っていたが、思っていたよりずっとよく書けている。ちょっと新しいことを書くと自分が賢くなったような気がするが、そんなことはなく、そうであるとしたらそのちょっと前からもう賢いのだ。
12月21日
なんだか妙に急かされるのでやったほうがいいのかと思いiPhoneをアップデートすると、ホーム画面に「ジャーナル」というアプリが追加されていた。開いてみるとその日の行った場所や撮った写真を自動的にセレクトして、日記をつけるのをサポートするアプリらしい。調べてみるとサードパーティ向けのJournaling Suggestions APIも公開されているようだ。ちょうど「日記と哲学」の授業の初回で、「君らのiPhoneは君らがどこに行ってネットで何を見て誰にどういうメッセージを送っているか理論上知ることができて、Apple Watchがあれば脈拍の上下までわかる。ここにARグラスが追加されることを考えてもいい。デバイス内外の行動履歴と生理学的データ、映像と音声をもとにAIが日記を代筆することは技術的にはすでに可能であるだろう。村上春樹風の日記を書いてくれと言えば、勝手に自分の一日を村上春樹的に書いてくれるかもしれない。そういうものがあったら使いたいか」と聞くと、誰の手も上がらなかった。「であれば逆に、なぜ自分で書くのか。しかも進んでSNSのようなひとの目に触れる場所で」、と聞いた。その直前にSNSをやっているひとの数を調べたら、200人全員が何かしらやっていたのだ。「この授業ではそういう、書くこと、書かされること、プライバシーと自己提示、それらと社会や技術の関係について考えます」。以下Appleの記事より引用。
パーソナライズされた提案と、振り返りを促すプロンプト
賢く厳選されるパーソナライズされた提案は、初めて訪れた場所、撮影した写真、演奏した曲、達成したワークアウトなどのモーメントをユーザーが思い起こして書きとめるのに役立つよう設計されています。ユーザーのアクティビティにもとづく提案には、有意義な洞察を可能にするために書くことを促すプロンプトや、ユーザーが感謝、思いやり、目標などに意識を向けるのに役立つ、日々の振り返りを促すプロンプトが含まれます。ユーザーは「提案」に表示されるコンテンツの種類をコントロールでき、自分が選んだ「提案」でジャーナルを作成できます。
12月20日
京都駅で降りて、山陰線のホームにあるうどん屋で鶏天うどんを食べて円町駅まで在来線に乗って、そこからタクシーで立命館まで行く。西大路通沿いのスーパーから原付のおばあさんが急に合流してきて、タクシーが急ブレーキを踏んでスピードが漸減するのに合わせるように運転手はクラクションを鳴らし、僕はあぶなーーと間延びした声を出した。何考えとんねんババアと言って運転手がもういちど強くクラクションを鳴らし、僕はたまったもんじゃないっすねと言った。キャンパスの手前のファミマで降ろしてもらって、一本煙草を吸う。それは会話ではなかった、と思う。誰もが何かの代わりに話していた。
12月19日
一日中寝ていた。昨晩寝たのが1時頃で、昼の1時に起きて日記を書いておにぎりを食べたら眠くなって、もういちどベッドに戻ると次に起きたら5時だった。スーパーに行って晩ご飯の材料を買って帰って料理をして、帰ってきた妻と一緒に食べるとまた眠くなって、次に起きたらもう夜中だった。それで、朝まで起きて仕事をしていたら寝室にいる妻から少しは寝たほうがいいよと声をかけられ、1時間ほど横になって支度をして京都に出かけた。