文筆と二次使用

ひとつエッセイを書き終わった。

それは結果として、『ひとごと』に収録された「スモーキング・エリア#2——音響空間の骨相学」と「Tele-visionは離れて見てね」というエッセイの続き、というか、後日譚のようなものになった。

エッセイはぱっと来てぱっと返すもので、とうぜん独立して読み切れるものなので、そのなかでこうして、三つの文章をまたぐテーマ系が生まれるのは独特の嬉しさがある。理論は後からやってくるものだということが体感できるというか。

三つのエッセイには、ひとことで言えば「視聴覚室としての居間」というテーマが通底している。食卓があってテレビがあるというモデルという単純なモデルのあとで、視聴覚機器にあふれた部屋のなかで、どのような団欒のかたちがありうるのか。

たとえば西川裕子の『借家と持ち家の文学史』という、明治以降の日本文学を作家の、そして作品内の人物の居住環境と家族形態の変化という観点から総覧する、新聞連載をもとにした本がある。彼女自身は論争的な書き方をしているわけではないが、風景と内面のカップリングという柄谷的な図式をマテリアリスティックに解体する仕事とも言えるだろう。風景と内面の両極のあいだにある家という中間的なスケールから後発する〈私〉のかたちを辿ること。それは西川の『日記をつづるということ』にも通底する態度だ。

それで、「視聴覚室としての居間」プロジェクトは西川のスタンスを僕なりに引き継ぐ仕事でもあると思う。これまで書いてきた一連の展評/インスタレーション・アート論も視聴覚室の話として統合しうる。日記論の次に一冊の本というスケールで展開するのは部屋の話になるのかもしれない。ちょうど昨日、レビューを書く予定のグループ展を見たのだが、それもインテリアという観点で書くことになりそうで、自分の部屋についての一連のエッセイと美術批評の蝶番になるだろう。

ともかく、今回書こうと思うのは、このようにアイデアが育っていくときに何が起こっているのかということだ。僕はよくアイデアを「転がす」という言い方をするが、その内実はどのようになっていて、とりわけ文筆業という仕事の構造とどのように関わっているのか。とりわけ文章の二次使用という観点から書いてみようともう。

あらためて不思議なのは、文章というプロダクトは二次使用のハードルがとても低いということだ。どこかの雑誌やウェブメディアに書いた文章を、他の版元から出す本に載せるというときに、ダメだと言われることもないし、お金を取られることもない。クライアントワークなのに納品したものの所有権は書き手にあるという、変な構造なのだ。

それが法的なものなのか慣習的なものなのか、詳しいところは知らないが、ともかく、「書き下ろし」が特別感をもつくらいには、二次使用は文筆の世界で常態化している。そして、依頼をもらって文章を書くということを始めてから10年弱が経って、この二次使用のリズムと、自分のアイデアの発展のあいだには強いつながりがあるということに気づいてきた。

『非美学』も博論の二次使用だし、『ひとごと』も書き下ろしたのはまえがきと巻末の解題だけだ。かつて書いたものでも、本というパッケージのもとで刊行されると「今」出たものとして受け取られる。これがもうひとつの不思議なことだ。

このふたつの不思議が交差するところにある、僕なりの方針が、短い依頼原稿も含めてすべて「本」というパッケージを向こうに透かし見ながら仕事をするということだ。日記を書き始めたときもすぐにこれは本になるなと思ったし、ウェブ版美術手帖に展示レビューをいくつか書いていた時期も、これは本にまとめることを前提に書かないとその場で消費されて何も積み上がらないなと思っていた。つまり、極端な言い方をすれば、僕はあらゆる文章を二次使用を前提に書いている。

それがいちばん変なかたちで表れているのが、日記と「言葉と物」という連載原稿の関係だ。「言葉と物」では自分の日記をまるごとブロック引用して貼り付けたりしている。日記はアイデア出しの場でもあって、もちろん引用というかたちを取らずに同じ内容を書くことはできるし、そうしている場合もある。でも、実際リアルタイムで公開された日記をそのまま引っ張ってくるほうが妙な説得力も宿るし、回を追うに従って日記そのものが連載のテーマに食い込んできた。

もっと言えば、日記、「言葉と物」、『非美学』、そして『ひとごと』のあいだには無数の二次使用=自己引用が張り巡らされていて、田中功起さんと対談したときに彼は「マーベル・シネマティック・ユニバース」みたいだと思ったと言ってくれた。

しかしそれは、古きよきインターテクスチャリティを復活させようとか、福尾匠という固有名を断片化させようとか、前のめりでやっていることではなく、「同じ人間が同じ時期に書いたことなんだから」という、むしろ脱力の帰結として起こっているということが面白いと思っている。ハードな哲学書から日記までのスペクトラムが、しかし「同じ」ことなのだと言うのはたやすいが、上述の僕の4つの仕事はそれを実践しようとしている。

あるいは、もっとプラクティカルなこととして、何度も同じ事を言ってみないとその勘所が自分でもわからない、ということがある。たとえばYouTubeに動画も上がっている僕のじんぶん大賞受賞スピーチの、作ることと人間どうしの非対称な関係についての話は、あの5分間のスピーチに圧縮されるまでに、レクチャーや新聞の取材やトークイベントで何度も、それぞれ微妙に違う文脈で話してきた。文字通り「差異と反復」で、繰り返しているうちに変わったり、変わったことに気づかずに繰り返したりしているうちに出来上がっていく。それがアイデアを「転がす」ということで、それを大小様々なスケールで並走させることが、僕にとっての「考える」ということのかたちだ。

あらゆる言葉は誰かが言ったことの引用であるというところまで敷衍するとかえって張り合いがなくなるが、何かを言うことはつねに、かつて言えなかったことを言おうとすることだという感覚がある。僕は自分が喋っている動画を見るのがけっこう好きで、それはたんなるナルシシズムでもないし、勤勉な反省でもなく、言えたことと言えなかったことの境界線を辿るように見返すうちに、それがいまの自分の輪郭として納得されていく感覚がある。そういうセルフモニタリングを介さず、もともと開いた身体で書けるひともいるのかもしれないが、少なくとも僕は、毎日体重計に乗るひとがいるように、すでに言ったこと・書いたことを外的な指標としてそのときどきの思考のサイズ感を測っている。

「語彙力」について

本当の語彙力とは、ある語の使用範囲と価値の変動に敏感であることなのではないか。

高校の頃、初めてノイズキャンセリング機能が搭載されたウォークマンを買って、これから「キャンセル」という語は、予定の取消しみたいなこととは別の文脈でどんどん使われるのだろうなと思った。いまでもそのときの感触をよく憶えている。

「キャンセル」の使用範囲はどのように拡張し、なぜ「セルフ」はセルフサービスの略語として定着し、「民主主義」と「成熟」が結びつくようになったのはいつからなのか。こういう問いこそが言語の問いで、オノマトペや記号接地のハードプロブレム化自体が目くらましに見える。

ここまではこないだツイートした内容で、これに関連して考えたことを書いておこうと思う。

数年前から、ツイッターやYouTubeのコメント欄で、文末に「(語彙力)」や「(伝われ)」と書かれているのを見るようになって、どういう機序でこういう表現が出てくるようになったのだろうと気になっていた。

おそらくこうした表現は「エモい」という言葉の流行と繋がっている。自分が何かを受け取って心が動かされる。しかしそれがどのような感動であったのかということは語れない。なぜならそこから先は自分の話にならざるをえないし、自分語りほど疎まれるものはないから。だから、もっと語彙力があったなら伝えられたものがいま私のなかにあります、ということしか言えない。

したがって本当の問題は語彙の多寡ではなく、自分の話をするための形式の貧しさだ。「語彙力」はその貧しさを隠し、隠すことによって私に「内面」があることを間接的に示すためのついたてのようなものだ。

あるいは、「言語化」という言葉の流行も似たような流れにあると言えるだろう。なんにせよ能力というものは、それを使う場所に依存するものであって、それはたとえば「英語力」というものの捉えどころのなさを考えればわかる。もちろん基礎的な語彙と文法は必要であるにしても、コメント欄に「(語彙力)」と書く人は何かそれ以上のもののことを言っているだろう。そして問題は、コメント欄という場所にあっては、何かそれ以上のものを欲しているというポーズが求められはしても、実際に何かそれ以上のものを語ることには大きなハードルが設けられており、それを超える者は厳しいジャッジに晒されるという学校の教室みたいな経済が働いていることだ。

つまり単純に適応ということで見れば「(語彙力)」ほどふさわしいものもない。しかしそれってしょうもなすぎないかというのが考えるべきことであって、実際の語彙力はその問題から目を逸らさせるための口実のようなものだ。だから、いちばん手っ取り早い解決は、引用リツイートやコメント欄という場で、コンテンツについてものを言うということをやめて、もっと他人の干渉の少ない場、教室みたいに目に見えないルールが張り巡らされていない場で書くことだ。たとえば日記帳。日記帳に「ヤバすぎる(語彙力)」なんて書かないだろう(書くのかもしれないという気もしてきたが)。あと単純に字数の問題だ。2万字書いて最後に「(語彙力)」と書く人はさすがにいないだろう(さすがに)。

あと、オノマトペや記号接地のハードプロブレム化自体が目くらましなのではないかということについて、これはいつかまとまった文章にしたいのだが、現段階での考えをメモしておく。

オノマトペはそれ以外のタイプの言葉より身体的であるとされがちで、そうであるがゆえに単一の言語を超えた特徴をもつとされがちで、そうであるがゆえに普遍的な人間本性のようなものと接しているとされがちだと思う。ルソーが擬音語を最初の言語だと考えたのは有名な話だ。

しかしこの、身体→超言語→人間本性というなし崩し的な敷衍は疑わしく思う。むしろ人間本性を超言語的なものに期待する気持ちが先にあって、その行き場としてオノマトペという身体的な感じがするものが採用されているのではないか。「身体的な感じがする」ことこそがオノマトペの効果、つまり意味なのであって、オノマトペ自体はその他の語とおなじく単なる語、なんであってもよい記号の連なりである。

いやいや、「がちゃがちゃ」と「ふわふわ」という音を聞けば、日本語話者でなくても前者のほうが「硬い」感じがするでしょうよと言われるだろう。でも、特定の音素と物理的な質感のあいだに一言語を超えた類縁性があるとしても、すぐさまその類縁性が「身体的」だということにはならない。まだうまく言えないが、そのギャップはそんな簡単に超えていいものではないはずだと思う。

気散じさんのためのiPad mini執筆術

ここ最近対談やら遊びやらで都内に出て人と会う機会が多く、生活リズムも気温も乱れており、疲れが出たのか数日前から風邪気味です。

ちょうど以前から予約していた耳鼻科の診療日が月曜日で、そこで鼻と喉の炎症がかなりきているということで抗生物質をもらって飲んだからか熱が出たりはしていないのですが、頭がふわふわして、体に力が入りにくいです。声もいつもと違うところから出ているような。

先日出た『新潮』に掲載されたヴェネチア・ビエンナーレ評は好評なのですが、エゴサで見つけるより直接伝えられる感想のほうがずっと多く、連載「言葉と物」のときからそうなのですが、もうSNSって感想空間じゃないのかなと思います。SNSが感想空間だった20代を過ごしてきた身としては寂しいものだなと。僕自身去年からずっと毎日何かの告知や宣伝をしているようで、人様のことはぜんぜん言えないのですが。

宣伝といえば、来週金曜、21日に批評家の福嶋亮大さんとの対談があります。面識もないし喋っているところを動画で見たこともないのでどんな感じになるかわかりませんが、ヌルい話にならないことはたしかです。仲良しどうしが関係性を再確認するだけのようなトークばかりですからね。あと、このブログももっと読んでほしいので購読よろしくお願いします。

それで、最近はずっと、外での作業はもっぱらiPad miniでしています。僕は仕事の大半を近所の喫茶店でやっていて、締め切りに追い込まれたとき以外は家ではメールの返信等の雑務くらいしかやりません。

これまではMacBook Airを持ち歩いて、家に帰るとそれを閉じたままモニターに繋いでクラムシェルモードでデスクトップ的に使うというかたちでやってきました。仕事(?)として文章を書くようになってからの7, 8年ずっとこれだったかも。

これはこれでシンプルでいいのですが、USB-Cハブを抜いたり繋いだりすることも煩わしいと言えば煩わしいですし、なによりMacBook Airは大きくて重たいです。それに、僕のような基本的にはテキストデータしか扱わない人間にとって、ラップトップPCというのはそれだけでオーバースペックで、よいしょと開いた画面の広がりですら、大袈裟に言えば家具の組み立て説明書を広げたような、ここから順番通りに何かを選んでやるべきことをやらねばならないのだという圧のようなものがあります。それと同じ理由で反対に、スムーズにいろいろできるのですぐに気が散ってしまう。

iPad miniを外出専用機とすることでこうした困難は解消しました。この文章では「A4サイズからの解放」「縦置きという解答」「マウスなしという暴力」「心配ない。われわれにはギガぞうがいる」「オススメアプリ」というトピックに分けて、iPad miniで執筆することの軽やかさ・静けさについて書こうと思います。安い・小さい・軽いという以上の、ラップトップにはない積極的なメリットが、iPad miniにはあります。ぜひ参考にしてください。ガジェット系ブログみたいで楽しいですね。

A4サイズからの解放

iPad mini(第6世代)を外出時のメイン機材にしてよかったことのうち、自分にとってもそれが嬉しいこと自体が驚きだったのは、荷物がA4サイズから解放されたことです。MacBook AirがだいたいA4サイズで、何年ものあいだ僕にとって、外に出かけるということはA4サイズのものを鞄に詰めることとほとんどイコールでした。たしかに学生時代は授業で配られるプリント類も自分の発表資料も基本A4で、クリアファイルもつねに持っていて、A4をひとつの基準とする根拠のようなものがありました。

しかし紙なんてほとんどもう持ち歩きませんし、どこかで配られても折ってしまえばいいのです。あのクリアファイルというものがあるから、A4のものをA4のままぴしっと管理しなければならないというプレッシャーが生まれるのであって、その逆ではない。

それに、これは次のトピックにも関わることですが、MacBook Airを持ち歩くということは、A4のものを横長に広げて使うということ意味します。それはほとんど人間の体と同じ幅で、道具としてはかなりデカいです。それに、デスクにA4の紙を横長に広げて使うのならA5ノートを広げれば同じことです。何が言いたいかというと、それ以上折り曲げられもしないA4サイズのものを持ち歩くのは不合理だということです。さらに言うと、MacBook Airは閉じた状態でA4サイズなのであって、それで作業をするのはA3用紙を縦に広げるようなもです。ここまでくるとほとんど模造紙で、動画の編集ならいざ知らず、文章を書くのに向いているはずがありません。

(めちゃくちゃなロジックで楽しくなってきました)

他方で、僕は11インチのiPad Airも持っているのですが、これはこれでたんに、片手で持つには重すぎるという理由で鞄に入れられることはなくなりました。こちらは紙で言うとだいたいB5サイズですが、B5ノートを常用するひとであれば11インチのiPadでもいいかもしれません。しかし11インチは中途半端だし、ラップトップの代わりという感じが強く、縦置きにすると圧迫感があるので、やはりminiまで振り切りたいところです。

少なくとも僕にとってのポイントは、本も単行本はA5だし、ノートもA5で、iPad miniもA5(よりひと回り小さい)で、主たる荷物のすべてが同サイズにまとまることの気持ちよさです。MacBook Airを持ち歩いていたときに比べると大きさも重さも半分で、気持ち的にも「せいぜいキロバイト単位の文章というものを扱うとはこれくらいのことなのだ」というフィット感があります。

縦置きという解答

とはいえ、iPad miniだけで執筆しているわけではなく、Bluetooth接続のモバイルキーボードを繋いで、本体の背面に着けたMOFTのスタンドで縦置きにして使っています。

このスタンドは横置きにもできるのでそれで動画を見たり漫画を読んだり、あるいはペンシルで書き込んだりすることもあるけど、キーボードで作業するときはもっぱら縦置きでエディタやアウトライナーを開いています。

8.3インチの縦位置の画面。いまもそのかたちで執筆していて、エディタの1行あたりの文字数を数えると全角28字。フォントのポイントはたぶん9-10くらい。見たほうがわかりやすいと思うのでスクショを貼っておこう。

めちゃめちゃちょうどよくないですか? なにがいいかというと、「これで全部」感があっていいのです。逆に、ラップトップの横長の画面でエディタを開くと、ウィンドウの外のものがつねに見えてしまうし、全画面表示にしても左右の余白が広すぎて「覆い隠している」感があったりサイドバーがつねに目に入ったりして、どうやっても「これで全部ではない」感が残ります。ウィンドウの両脇につねに他の可能性がちらつくというか。

つまるところ、パソコンの横長のディスプレイというものは、マルチウィンドウのためのものであって、シングルウィンドウで集中することととても相性が悪いのだと思います。

パソコンのソフトであっても、テキストエディタというものは基本縦長でウィンドウを広くことを想定して作られていると思います。横書きで、全角25−35字くらいで行を折り返して、左右に5字ぶんずつくらい余白が残るのがおそらくちょうどよくて、これはなんということのない、A5版の書籍の横書きのレイアウトそのままです。

ひとつ難点があるとすればiPad miniは縦書きには向かないことです。縦書きにこだわりがあってiPadを使いたい人は11インチ横置きで使うのがいいかもしれません。難しいのは、僕が知る限り、縦書き対応のエディタはすべて、縦書きにしてもメニューの位置は変わらずインターフェイスの上下にあり、行幅がとても狭くなってしまうことです。これが、縦書きのときはメニューが左右に移動するものが出てくると、iPad mini横置き&縦書きというスタイルの選択肢が増えるかもしれません。僕個人はPCでももともと縦書きはしないので気にならないのですが。

マウスなしという暴力

iPad miniとキーボードだけ、ということは、マウスはなしです。最初は外出用の小さなマウスを買って使っていたのですが、たんに丸っこいものが荷物にひとつあるということが煩わしくなって、ある日いちど、マウスを鞄に入れないままえいやと外に出てみました。

するとどうでしょう。ぜんぜん気が散らなくなるのです。ここまで書いてみて気づいたのですが、この執筆術があまりにADHD特化型なのではないか、普通のひとはもっと普通に集中できるのではないかという気がしてきました。

ともかく、マウスというものはかなりの曲者で、なにより触っていて気持ちよすぎます。とくに近年のApple製品は、マウスであれトラックパッドであれタッチスクリーンであれ、サッサッスッスッと撫でるだけでめくるめくいろんなことが起こるので、その知育玩具的な快楽につられて気づくと別のアプリを開いてタイムラインをキューっと引っ張ったりしています。

これが先ほどの横長のディスプレイと組み合わさってしまうと、このひとつの縦長のエディタだけに集中せよというのは、なんというかほとんど、認知的拷問のようなものではないでしょうか(そうだそうだ!)。

マウスがないとそのような手遊びはできません。もちろん画面に手を伸ばして画面に触れれば同じことはできます。しかしそもそも自動的な手遊びというものは、机の上に両手があり、しかし作業が止まっている状態で発生するので、もともと手元にあるものをいじることはあっても、そこからさらに手を伸ばしてしまえば、それはもう手遊び→気散じではなく気散じ→手遊びになってしまっています。まだできるのにそれを途切れさせる前者を防ぐことが肝要なのであって、後者はむしろ休憩のタイミングの指標でしょう。

iPadなのでマウスなしでも実質的な制約はありません。机からマウスを追いやり、キーボードと、エディタだけが占める縦長の画面に向かい合うことで、「自分の仕事は上から下に文章を連ねることなのだ」ということが、ほとんど身体的な説得力をもって、気の散りがちなわれわれにしっかりインストールされます。

ちなみに僕はマウスなしに慣れて、行頭・行末に移動したり複数選択したりのショートカットキーを自然に使えるようになってきました。

心配ない。われわれにはギガぞうがいる

しかしみなさんは、ネットはどうするのか、Wi-Fiがないと使えないのは不便だし、かといってセルラーモデルは高いしSIMまで契約しなきゃいけないぞと思われているのではないでしょうか。心配いりません。われわれにはギガぞうがいます。ギガぞうは月額500円で登録できるWi-Fiのサービスで、ドトールもタリーズもベローチェもスタバも、ギガぞうアプリから契約・設定すればスポットに入ると自動でWi-Fiに繋がるようになります。

店のフリーWi-Fiに繋いだり自分のスマホからテザリングしたりするひと手間ふた手間が解消されるだけといえばそれまでなのですが、それが結構大きいですし、パソコンだって条件は同じです。それに、ギガぞうは500円プランで5台まで登録できるので、iPadメインではないとしても、外出先で作業をすることが多い人は契約しておいて損はないと思います。

オススメアプリ

最後に、iPad miniで使っている執筆関連のアプリを紹介します。ちなみにiPad miniには仕事で使うアプリ以外入れないことにしており、SNSアプリはなく、通知はすべてオフにしており、Safariですらホーム画面には入れていません。

  • Ulysses
    • メインのエディタ。シンプルでMacとの同期もスムーズで註も書けるのがいい。この記事もこれで書いて、エクスポート機能を使ってサイト(Wordpress)の下書きボックスに直接飛ばしている。原稿の場合はdocxとしてエクスポートしてPCで確認・整形して編集者に渡す。
  • Workflowy
    • 原稿のアイデア出しから粗い下書きまでに使う。フィロショピー等の講義レジュメはこれで最後まで作る。これもMacとの同期がストレスなくできる。アウトライナーの機能面としては僕が説明するまでもないでしょう。
  • PDF Expert
    • ゲラの赤入れとPDF文献を読むのに使う。A4のPDFでも拡大すれば読むのにストレスは感じない。
  • Noteshelf3
    • ペンシルでノートを取るのに使う。手書きは紙のノートを使うことのほうが多く、あまり使わない。フィロショピーで図を描いてリアルタイムで画面共有するときには便利。ノートアプリもいくつか試したがこれがいちばんいいと思う。
  • Kindle
    • Kindle。本を読むのに使う。マンガが唯一のiPad mini内の娯楽。

気づけば5000字も書いてしまいました。今回からコメント欄を設置しているので気軽にコメントしてください。また次回!

【あてなき企画書】哲学すること/しないこと入門

よく、それがまだ何なのかわからないタイトルを思いついて、とりあえずツイッターにメモしたりする。本なのかもしれないし、エッセイなのかもしれないし、レクチャーなのかもしれないし、場所なのかもしれない。「スパムとミームの対話篇」とか「郵便的、置き配的」とかはタイトル先行で書いた文章で、あるいは『非美学』も「非美学=麻酔論(Anesthetics)」というかたちでタイトルだけはずいぶん前からストックしていた。まだ内実のない言葉をワーキング・タイトルとして置いて、それを埋めていく過程で思いもしなかったところに連れて行かれる。僕はプロットを作るとどうにも書いている気がしなくて何をしているのかわからなくなってしまうのだが、この書き方はプロットを作ることの代わりのようなものなのだと思う。

「哲学すること/しないこと入門」もいつか何かにはなる言葉だと思うが、これはもう見るからに本のタイトルなので本になるとして、どんな内容になるのか、「企画書」というかたちでフォーマットや章立ても含めて構想してみようと思う。良し悪しだけど、僕はどうしても企画レベルから考えないとコンテンツの方向性が定まらない。トータルな見せ方から切り離して文章を文章として書くことに魅力をぜんぜん感じないのだ。

大ざっぱに言って、哲学はいつも、哲学することが偉いことで、哲学しないことはダメなことなのだとしてきた(ハイデガーの日常性への「頽落」という言い方にもそれは端的に表れている)。哲学入門書ともなれば、あからさまに権威的な見た目はしていないとしても、「誰でもできるんですよ/誰しもしてるんですよ」という優しい感じもそれはそれで、かえって哲学しないことの後ろ暗さを強めている感じがする。

はたして哲学すること/哲学しないことをどちらも等量でリスペクトするとはどういうことなのか? そこから始めることによってこそ哲学の実践性を考えることができるのではないか? というのが、この本のテーマだ。どこからこの問いにアプローチするべきだろうか。

まず外側から考えると、入門書である以上、値段は1000円台に抑えたい。だとすると新書がいちばん手っ取り早いが、とくにこだわりはない。いずれにせよそうなると字数は10-12万字になるだろう。

これなら書けるなという手応えはある。『非美学』を書き終わって、3回くらい哲学入門のレクチャーをする機会があって、この本で自分が何をして、それは哲学をどう再定義するものなのかということが、だんだんつかめてきている。

哲学は哲学の普遍性に寄りかかってきた。哲学は他の諸学問より高位にある「万学の祖」であり、個別のあれこれについてではなく自由や真理や善、存在といった普遍的なテーマを扱う。あるいはときに子供を「哲学者」と呼ぶように、哲学は無垢な人間性の発露とされる。それってウソじゃん、と思うし、哲学の面白さはそういう深くて偉くて無垢な感じとはぜんぜん違うところにあると思う。

それに対して、ドゥルーズは〈普遍〉を真っ向から拒否する哲学を構想した。彼は哲学とは「概念を創造すること」だと言ったが、これはひとりで沈思黙考するのでもなく、みんなで対話するのでもなく、ものを作ることをモデルとして哲学を再定義しているのだと言える。

ひとりでするにせよみんなでするにせよそこには人間しかいないが、哲学は何か具体的なものを作ることであるなら、そこには人間とものがある。「概念」とは何かという話はいったん脇に置いて、作るということは基本的には哲学者にとって書くことだとすると、そこには書く人間、書かれた文章、そして読む人間がいる。普遍的な真理や普遍的な人間性という幻想を哲学から剥奪して、物作りを哲学のモデルにすることには、おもに三つの批判的な意義があると思う。

  1. 哲学を頭のなかや天上のどこかある蜃気楼のような「観念」に閉じ込めず、目に見え耳で聞こえるものを生み出す営みとして考えること。
  2. 誰でも哲学するわけでもないしするべきでもないということをポジティブなものとして捉え返すこと。
  3. 哲学することで作られたものを媒介とした、人間どうしの非対称な関係をポジティブなものとして捉え返すこと。

これらは『非美学』で言うところの「見て、書くこと」と「異種形成性」が交わるところにあるアイデアだ(逆に言うと『非美学』はそういう話として読めばいいのだということが、いまになってわかってきた)。この、ドゥルーズの哲学観を全体の軸にしつつ、哲学の歴史を総ざらえするというのが本の大枠になるだろう。

もうひとつの補助線は、あらゆる哲学は「抽象的なもの」をどのように定義するかという側面と、それを実際の社会のなかでどう処遇するかというふたつの側面をもっているというアイデアだ。これ自体「概念の創造」の言い換えであり、また古くからある形而上学と倫理学、認識と実践の二元論の捉えなおしでもある。

プラトンの「イデア」はまさに抽象的なものそのものを措定する試みであり、それは人間を統治する人間をいかにして選ぶのかという政治的−実践的な問題への切実な応答でもある。そしてここにはすでに人間を統治する人間としての哲学者と統治される人間としての非哲学者の分割が埋め込まれている。

哲学史とはこのふたつの側面のバリエーションであるとするなら、哲学することの意味の変容にはつねに哲学しないこと、哲学しない者の位置づけの変化がともなっている。

目次としては、この観点からプラトン、デカルト、カント、ベルクソン、デリダ、そしてドゥルーズを見ていく哲学史の流れに沿ったものになるだろう。章立てを固有名詞で作ることがいいのかどうかは迷いどころだが。

書けそう! でもやるとしても来年以降ですね。まだ入門書を書くには人生経験が足りないという感じもあるし。

性的なのは、まなざしなのか

2月は思ったよりバタバタして更新が遅くなってしまいました。とはいえちょこちょこ準備はしていたので、今日中にふたつ記事を上げようと思います。エッセイ、論考、習作、企画記事等いろいろやっていくのでぜひ講読よろしくお願いします。

今回は先日「赤いきつね」のアニメCMがSNSで炎上しているのを見て考えたことについて書きます。

僕はふだん性的なことにかんする話はほとんどしていなくて、原稿で書いたのも『ひとごと』に収録された『全裸監督』論くらいだと思う。とくにSNSはそういう話を気軽にできる場所ではないし、僕自身は何にでも口を出してタイムラインがニュースフィードみたいになっているひとを見るとキツいなと思うのでホットな話題について逐一何か言うということはしない。

今回のCMも、燃やされた側にとっても怒っているひとにとってももらい事故のようなもので、両者ともがもらい事故だと思っているからこそがぜん燃えるのだが、とにかくこのCM自体をこまかく表象分析してもしょうがないと思う。むしろ現代の広告や表現や言説の環境のなかでこういうことはこれからも頻発するだろうし、「まなざし」の奪い合いというその闘争の形式自体には出口がないだろう。この文章ではその出口のなさについて、そして性的欲望はそもそも「まなざし」なるものに還元できるのかということについて考えてみよう。

まず、さっき書いたように、個別事例として今回のCMを性差別的か否かをジャッジすることには僕はあんまり興味がない。今回はむしろきわめて境界的なゾーンにあるものだからこれだけ論争になっているのだと思うし、ジャッジする前にこの境界的なありようそのものの組成を考えたほうがいいと思う。

僕個人の印象で言うと「どちらかというと不快」という程度で、しかしいまやたいていの広告は不快なので、そんなことを言っても詮ないと思う。たぶん今回の炎上も、広告一般が不快であることへの鬱憤がまずベースにあって、「赤いきつね」がその恰好のスケープゴートになってしまった側面もあるだろう。YouTubeにもアップされた有名企業の広告だし、ウェブ広告みたいにランダムなものでもないから共有されやすかったのもある。

しかしなぜ不快だったのか。それはやっぱり、さんざん指摘されている潤んだ目や赤くなった頬といった動画の細部に関わっていて、全体として性的に感じられたからだと思うのだけど、性的なイメージであることと不快であることは直接イコールでは繋がらないし、ましてや性的かつ不快であるとしてそれが企業CMとして不適格であるかどうか、不適格であるとしてどういう実際的な対応がありうるかはそれぞれまったく別の問題だ(性的だと思うやつがエロいのだという擁護側の言い分は小学生以下だと思う。何をもって性的だとするかという定義問題に引きずり込むのも目くらましだ)。

不快だったのは、こういう映像を見ると、〈自分のものでない欲望を勝手にトレースさせられている感じがする〉からだ。そしてこの傾向は実写より、いわゆる「萌え要素」(東浩紀『動物化するポストモダン』)が記号化されたアニメのほうが強いと思う。キャンセル・カルチャーvs表現の自由の対立でしばしばマンガ、アニメの表象が論点になるのも同じ理由だろう。

これがこれと組み合わさるとエロい感じがするというルートがあって、あなたもそうでしょと、あるいは、こういう欲望があるんですよとそこに強制的に乗せられることに拒否感を覚える。直接的な表現があるわけではないからこそ、今回はその機械的・人工的な欲望の側面が際立って騒ぎを呼び込んだのだと思う。

たとえば少し前に、奇しくも同じカップうどんの広告で、一人暮らしの部屋で星野源がどん兵衛を食べるとキツネの耳と尻尾をつけた吉岡里帆が現れるというCMがあった。これも多分にマンガ、アニメ的なイマジネーションで、かつ、内容的にもより直接的に性的な場面だ。それなりに批判もあったと思うが、実写であり、最終的に吉岡里帆という個人に(肯定的であれ否定的であれ)リビドーが向くので、「赤いきつね」CMほどの、記号をめぐる解釈学的な論争にはならなかった(そちらのほうがよほど恐ろしいことだとも思う)。

僕が気になるのは、〈誰かの欲望を勝手にトレースさせられる〉ことは、はたして「まなざし」のロジックに回収できることなのかということだ。

直感としてはむしろ、まなざしのロジックは擁護側と批判側のあいだのある種の共犯関係を形作るのに寄与しこそすれ、それを解体するものにはならないだろうと思う。そもそも「性的まなざし」という言葉を振りかざしている者のうちどれくらいがサルトル、ラカン、ローラ・マルヴィのいずれかでも読んでいるのかという話でもあるが、こうした物言い自体マンスプレイニング以外のなにものでもなく、哲学由来の議論の俗流化とある種の理論的武器の「無敵化」は裏表の関係にある。

あのCMを見て、なんか嫌な感じ、気持ちがざわざわする感じがするのは、はたして「ここには女性を記号的に扱い一方的に消費する男性のまなざしがあるぞ」と推論したからなのだろうか。その推論自体めちゃめちゃ記号的でないだろうか。僕にはそれが、記号化された欲望に引き込まれたことへの記号的な反発に見える。そこでは「女性」も「男性」も「消費」も「まなざし」も引用符に括られる。擁護側と批判側の共犯関係は、対象がアニメだからそのようなことができるのだという点にかかわっている。吉岡里帆を引用符に括られたものの束に還元することの暴力性(実際のところ有名人は多かれ少なかれそういうことをされる運命にあるが)を前にすれば多くの者が踏みとどまるのに対して、アニメ相手なら良識的な人びとですらそういうブレーキが効かなくなる。

たしかに、フロイト以来のフェティシズム理論を持ち出すまでもなく、人間の性的欲望は多かれ少なかれ記号化されているだろう。その不自然さこそが人間の自然であって、記号の外のリアルで純粋な性を神秘化するほうがよっぽど危うい。

しかし他方で、まなざしのような、見る主体と見られる客体、能動と受動を截然と分けて、主体的で能動的なものを絶対的な始点とするような概念を所与としたとたんに、そうした構造がどこから来たのかということは問えなくなってしまう(それこそフロイトの「子供が叩かれる」がすでに取り組んでいた問題だ)。

フーコーは「革命によってわれわれは王の首を切り落としたが、政治理論はいまだ王に依存している」と言った(大意。たしか『知への意志』)。これは平たく言えば政治学が「絶対者」に依存しているということなのだが、今回の論争もまた性的欲望の一方向性、そのなかでの男性の優位という「王」に依存している。そしてまなざしという概念はこのふたつが交差する地点にある。

匿名的、機械的、記号的な欲望のレールに引き込まれた者が、それに対して「これは私の欲望じゃない」と拒否感を覚えること、反対にそのような暴力的な誘引にこそ欲望をかき立てられること、それを知的に再構成して批判してみせること、その知的な再構成の人為性を再演して嗤ってみせること、これらすべてが同じゲームのルールに従っている。そのルールは、見せられる(「見られる」ではなく)ことの受動性という側面を秘匿(否認?)しつつ、すべてを見る/見られるの関係のもとに回収することだ。

フロイトは「子供が叩かれる」で、表面的なサディズム/マゾヒズムのシーソーゲームの根底には根源的なマゾヒズムがあるのではないかと考えた。あるいは『眼がスクリーンになるとき』という本で僕は、ベルクソンとドゥルーズの知覚論・映像論を、見せられることの受動性(眼=スクリーン)が主体的で能動的なまなざし(眼=カメラ)に先行するような理論として再構成した。そういう系譜もあるが、SNSでの論争にはどちらの陣営にとっても都合が悪いので省みられない。

まなざしのゲームにおいて否認される、しかし実際はそれに先行する受動性とは、そもそもわれわれが性的欲望をインストールされてしまっていること、その「そもそも」に対する受動性だ。まなざしに性的欲望が宿るより前に、性的なものとしてまなざしを作る欲望があるのだとも言える。

あらゆる画面にわれわれを「釣る」ためのイメージがこびりついている。それ自体が何かをまなざしているのではなく、むしろそれはわれわれを「まなざす者」というポジションに押し込めるために、セックス、金、美醜にかかわる情動をパッケージングした記号をちりばめている。時限爆弾をリレーするようにまなざしを自分以外の者に押しつけることはその構造を解決しない。だとすると、「釣り」的でもなく、純粋でナチュラルな身体性に寄りかかるのでもないセクシュアリティこそが開発されなければならないだろう。「たとえば?」、「え、僕に聞いてます?」

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カテゴリー: 日記

1月26日ver.2

深夜、お腹が減って、夜中でも開いているいちばん近所の店が松のやで、その松のやに行った。とんかつ定食の食券を買って水を注いで席について、これから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝する店内放送を聴きながら番号で呼ばれるのを待っていた。

壁にはこれもまたこれから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝するポスターが貼られており、店を見渡すと、松屋グループの廃油が飛行機の燃料に使われている旨を知らせるポスターも貼られていた。なんと年間で東京大阪間を238回飛ぶ量の廃油が提供されていて、それは「FRY to FLY Project」と呼ばれているらしい。久しく見ない愉快なニュースに元気が出た。ピンチョン的なユーモアというか。豚を揚げる。飛行機を飛ばす。なんだっていいのだ。

去年から突然、イセザキモールのキャッチには居酒屋、ホストクラブ、中国系マッサージ、風俗、ガールズバーに加えて、コンカフェの店員が並ぶようになった。こんな街ではコンカフェは続かないだろうと思っていたが、ベンチコートの季節になってもまだチラシを配り続けている。コンセプトもなにもないだろうと思っていたのだが。

18で大阪に出て、夜に街を歩くのはとても新鮮な経験だった。中崎町、お初天神、兎我野、夜になってもたくさんひとがいる梅田の東側のそのあたりをひとりでよく歩いていた。朝まで開いている喫茶店もあった。キャッチをひとりやり過ごすごとに大人になったような気がしていた。

イセザキモールの天敵は夕日である。関内駅から一直線に西南に伸びるその商店街の先端にちょうど太陽が沈むので、4時頃になるとやりきれないほどまぶしい西日に貫かれる歩行者と、それに気づく様子もなく逆光で黒いシルエットになっている歩行者に二分される。夕日といえば山に沈むものだったが、ここではそういうことでもない。

ベローチェの2階席の正面は大きい窓になっていて、道を挟んで目の前の関内駅に電車が滑り込んでくるのが見える。とつぜん店内が明るくなって目を上げると、窓を横切る京浜東北線の車体に小さい太陽のかたちがくっきり丸く浮かび上がり、反射光をこちらにダイレクトに投げかけている。16時25分。この季節のその時間だけ、夕日、京浜東北線、ベローチェの2階席が対称な位置を取るのだ。額に手をかざす歩行者たちと背中合わせで同じ光に貫かれ、一瞬にして意識が戸外に染み出していく。

曽根さんの《Perfect Moment》というプロジェクトの話を思い出す。ある遊園地の、あらゆる遊具のいちばんの瞬間がすべて完璧に一致する瞬間を収める映画を制作するプロジェクトで、その制作の様子が一連のラフなドローイングで描かれており、まだ実際の映画は作られていない。一方でそれを「まだ」というのも変な話だし、他方でドローイングとして割り切って作られているわけでもない。それは両立する。その、スペルミスだらけの英語の書き込みがなされたドローイングのなかで、ディレクターである曽根さんはたしか、したたかに酔っ払っていて、女の子に気を取られたりして、完璧な瞬間が刻々と迫るなかみんなに急かされていた。

1月26日

深夜、お腹が減って、夜中でも開いているいちばん近所の店が松のやで、その松のやに行った。とんかつ定食の食券を買って水を注いで席について、これから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝する店内放送を聴きながら番号で呼ばれるのを待っていた。

壁にはこれもまたこれから食べる豚がいかに優れた豚であるかを宣伝するポスターが貼られており、店を見渡すと、松屋グループの廃油が飛行機の燃料に使われている旨を知らせるポスターも貼られていた。なんと年間で東京大阪間を238回飛ぶ量の廃油が提供されていて、それは「FRY to FLY Project」と呼ばれているらしい。久しく見ない愉快なニュースに元気が出た。ピンチョン的なユーモアというか。豚を揚げる。飛行機を飛ばす。なんだっていいのだ。

年始からじんぶん大賞受賞の知らせがあったりして、気持ちが落ち着かない状態が続いていた。受賞自体は発表の直前に知らされていて、その時点でひととおり喜んでしまったので、発表以降はむしろネガティブな反応ばかり気になってしまったのかもしれない。なぜだかずっと悔しくて、ほんとに悔しくて、ちくちょうちくしょうと思っていて、松のやのおかげでやっと、受賞したのにこれだけ悔しがれているのならまだ大丈夫だなと思えるようになった。それにしても、これもまた嫌味と思われそうだが、賞は体に悪いですね。いまはまた楽しくなってきた。これもまたウソつけよと思われそうだが、『非美学』も基本的には楽しく生きていくための愉快な本ですからね。ドゥルーズの本はぜんぶそうだし。

サブスクを始めてふたつの記事はなんだか思いのほか気張って書いてしまったので、今回は近況と、この場で今後やりたいいくつかのことについて気楽に書こうと思う。

フィロショピー第2期ももう折り返しに突入していて、第3期はいちど趣向を変えてふつうの連続講義にしようかなと思う。テクストと講義を往復するのに疲れたひともいるだろうし。初夏に日記本が出る予定なので、それに合わせて、非常勤でやっていた日記と哲学の講義をブラッシュアップさせて全10回くらいでやろうかな。権力は発言を抑圧するのではなくむしろ奨励すること、そのなかで書いたり表現したりすること、その両義性の場として生きることを考えること、日記は反自伝であること、等々を実際自分が3年続けて日記を書いて考えたことや、ドゥルーズ、フーコー、デリダの言語論・文学論を使って話したい。SNSも含む、個人的な表現と制度の交差点として日記を考えることもできるし、そういう身近な話からフランス現代思想にも入門できる。いい企画だと思うのでお楽しみに。

直近でヤバいのは、もうすぐ締め切りのヴェネチア・ビエンナーレのレビューがまだぜんぜん書けていないことだ。そもそもヴェネチア・ビエンナーレなんかにいま誰が感心をもっているのか。まあ独立した文章として面白いものになるよう書けばいいのだと思う。こないだ書いた曽根裕さんの個展に寄せたエッセイ(会場で販売されているブックレットに掲載)を書いたときに、曽根さんと自分のあいだにある空間のちょうど真ん中に置くように書く、つまり、自分に引き寄せたり彼の作品にすべてを預けたりせずに、両者の接する線をなぞるように書くということができた感覚があって、それを拡張できればいいなと思う。あれは新しい感覚があった。実際評判もいいし。ギャラリストのミヅマさん(80歳で、めちゃめちゃ元気)も気に入ってくれて、曽根さんもそうだが、SNSなんか歯牙にもかけない元気な老人に自分の仕事が届くと嬉しい。僕含め若者も中年もイライラしすぎだから。それで言えば曽根さんはもっとも愉快に『非美学』を読んでくれているひとのひとりだと思う。

元気を削がれた要因のひとつに先日のゲンロンの若手批評イベントがあったと思う。批評はどうあるべきかという話で、僕としてはどうもこうもなく批評の外にあるものと関わってこその批評なのだからと思って盛り上がりを横目に見ながら魚豊についての文章を書いたりしたのだけど、ともかくあれはそれぞれの仕事の内容についての話がなくて、「批評」という言葉がその迂回のために機能しているようで自分が出ているわけではないのにダメージを受けてしまった。まあそれだけ気にしてしまっているということでもあるのだが。

サブスク上でやりたいことのひとつは、相談を募集して、それに回答するのではなくただ相談文を添削し、そのビフォー/アフターを公開することだ。いま「ビフォー/アフター」と書いて思ったが、それこそ僕は匠で、「リフォームの匠」が出てきたときはイジられたりもしたし、企画タイトルは「添削の匠 相談文ビフォーアフター」とかでいいのかもしれない。

この企画を思いついたのは、まず、「相談」って強いなということで、SNS上でも質問・相談を文章のかたちで募って解答するマシュマロやmond(こう書いていま、ひょっとしてこれって「問答」から来ているのか?と気づいて恥ずかしくて鳥肌が立った。いや、「添削の匠」も十分恥ずかしいか)サービスが流行っていて、解答せずに添削だけするのはいい感じのスカし方かなということがひとつ。あれで何かが解決しているようには思えないし、相談者と回答者の非対称な相互承認自体が「拗れ」の要因でもあるはずで、それは回答者の道徳的スタンスとは別の構造的な問題だ。

もうひとつは、こないだフィロショピーで講座の感想をエッセイとして募る「フィロショ感想文コンテスト」をやって、応募作すべてを僕が添削してリライトしてもらったのだが、そのプロセスがとても面白かったことだ。実際、大学に行ってレポートを書いても点数がつくだけで細かく添削してもらうことはほとんどないし、応募者の方々からも添削・改稿によって晴れ晴れとした気持ちになったという感想をもらった。悩みは答えではなく添削を必要としているのかもしれない。哲学の世界でもよく「うまく問いを立てられた時点で仕事は9割終わっている」という言い方がされるけど、それと似たようなことが悩み事にも言えると思う。

あと、ここではもっと創作というか習作というか、もうちょっと実験的な文章も書いていきたいし、誰かに寄稿依頼したり、動画や音声を上げたり、いろいろやってみたいことがある。

論より証拠より説説

水曜日のダウンタウンの最大の歴史的な発明は、ドッキリやリアリティショーの新しいかたちにあるのではなく、「説」という言葉の使い方にあるのではないかと思う。

開いた口を模したフレームのなかに大正レトロ的(?)なキッチュなフォントで書かれた「説」はもはやネットミームにもなっている(いまググったらすぐに「ロマン雪」というフォントだと出てきた)。特徴的なのは「〇〇という説」とか「〇〇の説について」ではなく、「ビートルズの日本公演で失神した人、今でもビートルズ聴き続けてなきゃウソ説」や「ドッキリの仕掛け人、どんなにバレそうになってもそう易々とは白状できない説」のように、長いセンテンスの末尾にただ「説」と付けるという、ちょっとつんのめるような感覚のあるフォーマットを使っていることだ。

これはおそらくライトノベルのタイトルから来ているものだろう。たとえば「転校生が死んだ姉にそっくりでどうしたらいいのかわからない件」(思いつきで書いた架空のタイトル。ちなみに僕には姉も妹もいないのでシスコンではない)みたいな「件」と水ダウの「説」の用法は、直接の参照関係があるというより、サブカルチャーのなかで培われた言語感覚としてつながっているものだと思う。

加えて、「ドッキリの仕掛け人、」や「失神した人、」のように名詞句を冒頭に置いて助詞を省く書き方はツイッター構文そのままだし、タイトルのフォーマットだけ見ても、バズるべくしてバズったサラブレッド的なミームであることがわかる。

しかしより重要なのは言うまでもなくタイトルのフォーマットではなく、「説」とその「検証」というこの番組の内容がもつ誘引力で、ここには陰謀論の跋扈や保守とリベラルの共依存的な泥仕合といった同時代的な社会状況を考えるヒントがあると思う。

ところで、『チ。』と『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』の作者である魚豊(ずっと「うおとよ」と読んでいたが正しくは「うおと」のようだ)こそ、現代でもっとも深く「説」の問題に切り込んでいる作家だろう。『チ。』は文字通り地動「説」をめぐる闘いの話であり、『ようこそ!FACTへ』は陰謀論というトンデモな「説」がもつ危険なもっともらしさを扱っている。この2作に共通するテーマは、まず説さえぶち上げてしまえば、そしてそれが人々の欲望をある程度焚き付けるものであれば、論も証拠もいくらでも後付けでき、人々の急進性・狂信性をどこまでもドライブするということだ。

したがって『チ。』と『ようこそ!FACTへ』の関係は、前者が社会的しがらみを潜り抜けて「科学的真理」に到達した人々を描き、後者が行き場のない社会的憤懣によって「見せかけの真理」に踊らせられる人々を描くというような、単純な色分けで済むようなものではない。むしろ本当に恐ろしいのは、両作品がメビウスの輪のように互いの背後に滑り込み合っていることだろう。このような複雑な関係が、『チ。』は巨悪との闘い、『ようこそ!FACTへ』はメンターとの出会いによる主人公の能力の覚醒という、少年マンガ的でさえある広く共有されたテンプレートに沿って作られていることも驚きだ。

とりわけ『ようこそ!FACTへ』は、主人公が陰謀論に絡め取られていく過程のディティールを通して——「良識的」な人々にある欺瞞も含めて——現代社会を描いたドキュメントとしても読めるものだ。

(*以下『ようこそ!FACTへ』結末の記述あり。そのあと僕なりの「説」地獄への処方箋を示します。)

主人公の渡辺は、高卒の非正規雇用社員として働く自身の境遇に不全感を抱えながらも、「論理的思考」が得意であるという自認を拠り所として生きている。そして彼にとって論理はロジカルツリーという各要素のつながりや分岐を矢印で図示したダイアグラムに宿る。

このダイアグラムの危うさは、あらゆるタイプの関係を矢印ひとつで因果関係に回収してしまうことにあり、ディープ・ステートとの闘争を画策する組織FACTの「先生」と出会うことで渡辺の能力は覚醒する。たまたま隣り合っていること、たまたま似ていること、たまたま繰り返されることが理由・意味の連鎖に絡め取られていき、世界全体がひとつの必然によって統べられる。とはいえこれは「伏線」の回収や「考察」に熱中する傾向と別種のものではなく、陰謀論者を他者化しないという倫理は本作を貫いている。少年マンガ的な物語類型の使用は批評的なパロディでもあるだろう。

興味深いのは、本作において必然性への閉じ込めが、具体的な距離感あるいはスケール感の失調として描かれていることだ。「東京S区第二支部」という矮小なスケールでの出来事と世界全体の不均衡が短絡するが——しかしそのような不条理な短絡なしに、ひとは「世界をよくしたい」などと思えるだろうか——反対に、渡辺の日常への回帰は遠いものの遠さ、近いものの近さの自覚としてなされる。それは夕日とピザまんの、滑稽な美しさをたたえた対比にも表れているだろう。しかし説明的に描かれているわけではないこの対比をこのように解釈して距離を潰してしまうこと自体がすでに多かれ少なかれ陰謀論的であり、魚豊の資質にはある種の底意地の悪さと区別できない冷徹なリアリズムがあると思う。

ところで、『ようこそ!FACTへ』のテーマが〈誰もが程度の差はあれ陰謀論者である〉ことにあったとするなら、僕が『群像』で連載していた「言葉と物」(とくに第2-3回)のテーマは、〈誰もが誰かを陰謀論者とすることで自身の「現実」を安定させている〉ことであった。前者が「説」の排他的な感染力を問題としているとするなら、後者は「説」をもつことへの畏れとないまぜになった嫌悪感を問題としている。

それはたとえば「思想つよ笑」という揶揄に端的に表れている。誰もが誰かを「狂信者」にすることで自身の実生活の「実」性を護っている。そして、「テロとの戦争」の時代から「コロナとの戦争」の時代への推移と軌を一にしつつ、もはや狂信者は特定の地域や人種として代表されず、誰もが自身にとっての「アルカイダ」と闘っている。引用リツートやスクリーンショットという武器で。

誰もが陰謀論者だという観点も、誰もが自分以外を陰謀論者にしようとしているという観点も、結局は同じ事態を表している。それはあらゆる発言が「説」としてしか機能しないという事態であり、論も証拠も、社会的な立場や属性もひとつの説に向かう矢印に絡め取られる。

しかし言葉は矢印ではない。そして言葉が矢印ではないということは、もはやある程度の長さにおいてしか——といっても2000字程度でも十分なのだが——示されないだろう。われわれが書くのは、たとえ矢印の両端をまたぐ距離を埋めるためであっても、それをまさしく距離として経験することである。われわれが読むとき、それがひとつの矢印をそこから復元するためであっても、そこからこぼれ落ちるものが確実にわれわれの脳裏に残響する。

われわれは夕日を見たり、ピザまんを食べたりする。夕日とピザまんが考察によって接続されるのはそのあとでのことだ。そして逆光によって浮かび上がる東京S区の街影は、どこまでもその接続に無関心だ。

言説の無力化装置としての文化について

どうも、あけましておめでとうございます。日記の更新をやめてから半年ほどが経ちました。そのあいだに『非美学』、『眼がスク』文庫版、『ひとごと』が出て、「言葉と物」の連載が完結し、10年代から考えてきたことにひと区切りついた感じがします。ツイッターはまだ思考の種を撒く場所としても使うつもりだけど、種から苗にするための場としてこのサイトを使っていこうかなと思います。これからここで書くものは基本サブスクにして、月4本くらいをめどにエッセイ的な文章を書いていくつもりなので、ぜひ講読よろしくお願いします。

さて、年始早々おどろおどろしいタイトルだが、最初の記事ということでトーンを測りながらなるべく気軽に書いていこう。

文化って言説を無力化するよなあというのは、ここ数ヶ月のあいだ、毎日数秒ずつくらい頭をよぎっていたことで、しかしそれが深まるわけでも展開されるわけでもなく、ただ「言説の無力化装置としての文化」という言葉が、ポップアップしてきてはスワイプする、つねにいくつか僕の頭の中にあるそういう言葉のうちのひとつになっている。

言説が無力化されるということは、文字通り、「言葉から本来持つべき力が抜け落ちる」ということで、それはたとえば、ものすごく「正しい」意見を見かけたときに感じるある種の乖離感として現れる。

こういうことを考えるきっかけになったのが、Kindleで読みやすい本を探していたときに見つけた『柄谷行人浅田彰全対話』(講談社文芸文庫)で、この本でふたりは、戦後日本について、天皇制について、冷戦崩壊について、アメリカの中東政策について、いまでもほとんどそのまま通じそうなくらい正しい話をしている。とはいえ読んで数ヶ月経ったいまでは具体的な内容はぜんぜん憶えておらず、この本が僕に残したのは「めちゃめちゃ真っ当なことを言っていると思うけど、この正しさってなんにもならなかったよな」という感慨だけだった。ちょっとちぐはぐなたとえだが、ものすごいスピードで互いにさまざまなテクニックを駆使しながらラリーをしている卓球の映像で、しかし延々どちらも球をこぼさないので一向に点が入らず、気づかないうちにどこかでこの映像はループしているんじゃないかといぶかしんでしまうような閉鎖性がそこにはあるように思われた。テクニックはすごい、観ていて飽きない、でもゲームは進まない。

ここで考えたいのは彼らの発言の内容に実際どれくらい正当性や実効性あるか(あったか)ということではなく、あくまでそれが与える印象としてのある種の乖離感についてだ。それは言ってしまえば僕が勝手に感じたものであり、したがって原因は文章の側にではなくむしろいま僕の心のどこかに巣喰っている虚脱感にあり、それにどうにかこうにか形を与えてみたい、そしてそこにたんなる僕の個人的な境遇や性向を超えたものがあるならそれを取り出してみたい、というのが、この文章のモチベーションだ。

文化は言説を無力化する、というのは、一方で極大まで敷衍すればフィクション全般に言えることでもある。舞台上で演じられる殺人は実際の殺人を無力化したものだからだ。でもそれはここで掘っても詮ないことだ。

他方でその感覚は、僕がふだん自分の仕事の方針を決めるときの具体的で実践的な勘のようなものにも関わっている。こっちに進んでみよう。

僕は自分のための警句みたいなものとして、「友達の友達圏」に気を付けろとよく頭のなかで唱える。友達は友達でいい。それは人生のギフトだ。しかし友達とばかり仕事をしていてもしょうがない。そして新しい仕事というのは、とくにまだ若くて仕事の規模が大きくない場合、まったく知らないひとからではなくたいてい友達の友達圏からやってくる。そのたびごとにあなたは、あなたの仕事がひとつの文化のなかに落ち着いて無力化するか、そこからはみ出して独特のオーラを獲得するかの分岐点に立っている。友達の友達圏に気を付けろ。それは相互承認の居心地のよさと引き換えにあなたをスポイルする。

この話で思い出すのは、『眼がスクリーンになるとき』という最初の本を出したのと同時に、ある雑誌の濱口竜介特集に寄稿依頼があって、それを断ったことだ。2018年で、僕は26歳だった。まだ商業誌にまとまった文章を書いたことはなく、普通に考えれば一も二もなく引き受けるべきだ。でも僕は、当時めちゃめちゃ調子に乗っていたのもあるが、原稿料を倍にしてくれれば書くと言って実質一方的に断った(実際締め切りも原稿料もめちゃめちゃな条件だったのだ。倍にしてくれと言ったらどなたも一律なのでそれはできないと返され、それはそちらの事情で一律だから安くても我慢しろというのはおかしな話だと言った。企画の面白さとか熱意があればいくら安くても書くつもりだが、実際熱意があるひとは他の条件もちゃんと考えてくれる)。

要は舐めんなよと思っていたということで、「濱口竜介」、「蓮實重彦」、「黒沢清」といった名前からなるネットワークとしての友達の友達圏になどぶら下がるつもりはなかった(実際ちょうどその時期、僕の指導教員だった平倉さんが濱口さんを大学に呼んで連続ワークショップをしていて、僕はそのアシスタントをやっていて、文字通り友達の友達的な距離だった。僕などにも丁寧に接してくれる素晴らしい方だったが、僕とは見ている世界がぜんぜん違うなと思った。作品もいくつか見ているがその印象は変わらない)。しかしそれは同時に、どこまでも打算的な判断でもあって、ドゥルーズ『シネマ』の解説書を出して濱口竜介の作品を評してというのは、あまりにわかりやすいし、書いていたらもう「そういうひと」になってしまっていただろう。いっさい映画作品の名前を出さずに『シネマ』を解説するという『眼がスク』のある種の反権威主義的なスタンスは何だったのかということにもなるし。

友達の友達圏としての文化によって無力化されるのは、つまるところ、「自分がひとりの人間であることのヤバさ」みたいなものなのだと思う。映画批評にしろ哲学研究にしろ文フリを中心とした若手批評界隈(このあいだ初めて文フリに行ったのだが、驚いたのは批評島の閉鎖性以上に、当の閉鎖性について誰もが自戒を込めて語っていたことだ。そして来年も再来年も同じことを自戒を込めながらやるのだ)にしろ、あるいはお笑いの世界にしろ格闘技の世界にしろ、ひとつの文化に養ってもらうことと引き換えにひとりの人間としての自分の拡張性というか、放埒さみたいなものを手放してしまうひとは多い。文脈と人脈。それはどちらも個々人のいびつさを均すものだ。儲かる儲からないで言えばひょっとするとそっちのほうが儲かるのかもしれないし、そういう世界のほうが安心して見られるのは確かだ(人文知と「ゆる言語学ラジオ」的なものの接近に僕はそういう傾向を見ている)。したがってこれは実益の問題というより最終的には生き方の問題だ。

たとえば漫才の世界には「人(ニン)」という価値観がある。これは僕の理解では、漫才を閉じた世界として仕上げることとはべつに、芸人の人間性が芸に表れていることを指す言葉で、「ニンがよく出ている」と言ったりする。つまりニンを評価するということは、舞台の外の芸人の生き方の表れとして舞台上の芸を評価するということで、それは「キャラ」とも「素」とも少し違うと思う。むしろ様々な場面でのキャラのギャップみたいなもの(たとえばラジオと漫才とロケ番組でのオードリー春日のキャラのギャップ)が漫才という場にフィードバックされて、それを客が面白がるということだろう。

あらゆる文化にはニンを抑圧する側面があり、それが「様式」や「制度」と呼ばれる。それだけ見れば民主的なものにも見えるが、結局たいてい東京という都市や大学という権威に人脈が集中したひとつの「階級」の場である。それが気に入らないという気持ちもないではないが、そういうものは今後AIのほうがよっぽどうまくやるだろうとも思う。人間はほっといてもいろんなことを感じるし、それがめちゃめちゃ偏っていたりする。それぞれの人格はほとんど出鱈目な出来事の集積で形作られている。そしてそのほとんどを憶えてすらいない。そのある種のスカスカさみたいなものを、ひとつの文化に自分を押し込めることで埋めてしまうのではなく、そのままで面白がることは、勇気の要ることだと思う。でもそういう勇気くらいしか、僕が他人に示せるものはないんじゃないかと思っている。そして僕にとっては、それ自体スカスカなデータ形式である文章がそういうことをやるのにちょうどいい。だからここでもバラバラと書いていこうと思う。

2019-2024年という時代について——2024年10月の近況

今年もあと2ヶ月、早いものだなあ、とはまったく思わず、とっとと終わってくれと思う。でもまあ、やっと区切りがついたのに終わったら休めないからこれでいいのか。

今日、「言葉と物」の第11回にして最終回のゲラを編集者に返した。この回はもともと8月末締め切りだったのをいまは書けそうにないとひと月延ばしてもらい、さらに9月末締め切りを2週間ほど延ばしてもらってやっと初稿が書けた。しかももともともう1回書く予定だったのを急遽最終回に変えてもらって。

どうにも書けなかったのは、まだ終わっちゃダメだと思っていたからで、二度目の締め切りのあとやっと、これまでの10回ぶんをじっくり読み返して、これはもう終わっているのだということに気がついて、気がついたとたんに自分を慰めてあげたい気持ちになり、これまで書いたことをひとつずつ集めなおして、それが全体としてどういう問題に応答するものなのかということを、新しい観点から書いた。必要だったのは新たな解答ではなく、これまで書いたものが解答であるような問題だったのだ。「言葉と物」というタイトルからして、それ自体はテーマというより方法論的な指針を指しているが、やっとこの連載がどういう問題にドライブされているかということに名前を与えることができてほっとしている。

少しさかのぼって9月、もうすぐ刊行される『ひとごと——クリティカル・エッセイズ』の序文を書いた。これももう、僕としては完全に「総括」で、2017年あたりからこれまで書いてきたこと、『非美学』も連載も単発原稿も日記も含めてすべて、8000字ほどのこの序文が圧縮・代表しているということでいい、これを読んでくれたら僕のことはもうわかったということにしてもらっていいと思えるようなものになった。総括なんかせずに「伸びしろ」感を出して引っ張ったほうが得という世界だけど、個人的にそういうタイミングだからというのもあるが完全に総括の季節で、そういう時期にこうしてモニュメンタルなものを書けてよかった。

今年の初めに最終章だけで半年くらいかかった『非美学』を書き上げて、6月に刊行されて——同月に日記が終了し——8月に新たな鼎談を付した『眼がスクリーンになるとき』文庫版が出て、来月『ひとごと』と「言葉と物」最終回が刊行される。あと日記と連載の書籍版が来年出せれば、それでひとつのチャプターが区切られるだろう。そのあとのことはそのあと考えようと思う。

もしかしたら、これまでのところの書き手としての自分のいちばんの功績は、「2019-2024年という時代をちゃんと書いたこと」になるのではないかと思う。コロナ禍以降と呼ぶのがいちばん手っ取り早いのだが、やっぱり2019年の京都アニメーション放火事件や「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」を巡る騒動からひとつながりだと捉えている。生成AIの急激な発展と普及、ウクライナとパレスチナへの侵攻、リベラルな普遍主義の終わり……この時代のことを『非美学』、『ひとごと』、「言葉と物」、そして日記という4通りのしかたで圧縮できたことは、ラッキーと言うほかないが、これからどんどん折に触れて立ち返られるものになると思う(思う)。

なかでも、とりわけ僕にとっては、日記は日増しに不気味な存在になっている。2021年1月から2024年6月という、個人的にも『非美学』リライトの苦闘のなかで前後不覚になっていた3年間が保存されているというのは恐ろしいことだ。あれが本になるとはどういうことなのか。

ともかく、直近のものとしては来月初旬の『群像』に載る「言葉と物」最終回、中旬に出る『ひとごと——クリティカル・エッセイズ』をよろしくお願いします。いまちょうどフィロショピー第2期の講座も販売開始しているので、こちらもぜひ。来月・再来月にかけて書店トークイベントや書店フェアの開催もいろいろ予定しております。詳しい告知はツイッターで追っていただきたく。

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