6月29日

銀座エルメスでの展示ブックレットにレビューを書いて、これで晴れて「エルメスとコラボした批評家」になったのだが、エルメスともなると単発の出入り業者に対しても求める(原稿とは別の)ペーパーワークの量がすごい。まず、機密保護、労働条件および人権の保護、環境保護等々についてのエルメスグループの倫理規定が書かれた「サプライヤーオブコンダクト」という20ページほどもある同意書が送られてきて、オンライン署名サービスを介してそれに署名をする。それとは別に原稿の著作権についての契約書がこちらは紙で送られてきて、署名をする。さらに見積書をこちらで作成し、向こうの同意を得(同意も何も依頼時点で決まっていることなのだが)、請求書を送る。そもそも原稿仕事で請求書を要求されること自体が毎回ちょっと嫌なのだが(ふつうの版元に要求されることはない。しかし思えば、請求書もなければ契約書もなく、こちらは口座情報を教えているだけで、どういうロジックでそれが外注の業務である、あるいはプロダクトの納品であるということが確定してるのだろうか)、窓口も依頼をくれたキュレーター、企画寄りの事務的なこともする人らしき人、純粋な事務方らしき人の3人に分かれており、見慣れない書類やらウェブアプリやらに囲まれ、ちょっとした『城』気分で、それはそれでよかった。

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6月28日

昼はセブンのあさりだし塩ラーメンで、夜はデニーズで海老とアボカドの冷製ジェノベーゼを食べたので、一日セブン&アイ・ホールディングスにお世話になった日だった。とくにあさりだし塩ラーメンは快作で、一時期見かけなくなっていたのだがまた戻ってきて嬉しい。以前好きだったジャークチキンサンドはもう見なくなって数年経つ。

『デスストランディング2』を買って始めてみた。舞台がアメリカからメキシコ、オーストラリアに移っただけで、良くも悪くも1からの順当な進化という感じで、驚きはない。ちょっと操作感がカクカクする感じもあり、デフォルトのボタン配置が微妙に変わっている。しかし、空っぽの風景のなかを歩いて、尾根を越えて、次の街が見えてきて音楽が流れるときの静かな感動はやっぱり独特。今作はすぐバイクが手に入ってしまうのが、そうしないとせっかちなプレイヤーが離れてしまうのもわかるが、ちょっと残念。

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6月27日

口座残高を見たら国民健康保険料がびっくりするくらい引かれており、何かの間違いかと思って料金の通知書を見るとその通りで、ほんとうに落ち込んでしまった。真剣に法人化を考えるタイミングなのかもしれない。しかし税金も保険料も、翌年払うためにちゃんと貯金を確保しておくという発想がまったくなく、入ったお金はほとんど小遣いみたいに捉えてしまっており、たぶん個人事業主としてやっているかぎりそのマインドセットから脱することはできないのだと思う。

今日はフィロショピーの日記講義で、デカルト、オースティン、ヒンティッカについてのレジュメを作った。〈コギト〉にはそこに至るデカルトの人生を全体化する自伝的な側面と、暫定的道徳によって炉部屋から出たり入ったりする日記的な側面があるというのは発見だった。疑う=思考する限りにおいてしか私の実在が明証的でないということは、逆に言えば私の存在の明証性はきわめて間欠的で、スカスカであるということだ。そしてその隙間風のようなものとして生が私を押し流していく。

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6月26日

頭のなかがつねに世間と繋がっている、それもツイッターを介して、という状況にちょっと疲れて、ツイッターを見るのを月曜の週1回にすることにした。これまで日記を書いてそのリンクをツイッターに投げるということを続けてきて、1日を過ごすなかでも、頭のなかでツイッター用のフォルダと日記用のフォルダが自然と分かれており、それもなんだかなと思ってきた。

さっきインストールしたプラグインでいちおう投稿が自動共有されるはずだが、Xになって以降のAPI制限でそれまで使っていたプラグインが使えなくなり、初めて試すのでうまくいくかわからない。Ulyssesで書き、エクスポート機能でダイレクトにwordpressの下書き記事を生成し、wordpressの編集画面でサブスク用のブロックを追加し投稿すると、自動でリンクがXで共有される(はず)という流れ。こう書いてみるとけっこう複雑だ。

「左手のない猿」の原稿ができた。もともと1000字ちょっとのブログだったものを、依頼を受けて4000字に拡張したのだが、思ったより大変だった。やはり4000字ともなると、ひと息に書き切れる、そのときの思いなしというスケールを超えて独立した作品性がともなわないとそもそも埋まらない字数なのだと思う。こないだ視聴覚室としての居間について書いた原稿に続いて、向こうで英訳してもらってバイリンガルになる。メジャーな媒体より美術の展示に紐付いた媒体のほうが日本語の外に出やすい。

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6月25日(外苑前の人々)

荘子くんの前の用事が押して収録まで時間ができたので、外苑前のベローチェで1時間ほど作業。隣の席の女性ふたりが子宮について話している。ほんとにこういうひとっているんだなと思うと同時に、それはなにかぼやっとした、捉えどころのない、しかしリアルな不全感からの出口を「子宮」として設定しているだけで、そういう口実は生きるうえで多かれ少なかれ必要であるし、難しいところだなと思う。

収録は終始ダウナーな感じで、とにかく今日は、あらゆるコンビニのガラスが結露するようなまとわりつくような湿気で、そういう気分が反映されるのはいいことだとも思う。

駅に戻っていると急に雨が本降りになって、カートに乗った外国人が陰鬱な面持ちで信号を待っていた。カートを乗り回すのは勝手だが楽しそうにしとけよ、と思った。

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6月24日(末續慎吾)

YouTubeで末續慎吾と武井壮の対談動画が出てきて、アスリートの話を聴くのが好きなので見てみたら、末續は2003年のパリ世界陸上で200m3位というその後も並ぶ者のいない偉業をなし(まだ彼の日本記録も破られていない)、その先を求めるプレッシャーのなかで苦悩し、いちどかなり深刻に精神を病んでしまっていたらしい。いま彼は45歳で、100mで世界陸上の出場を目指して再起している。いや、目指していたのだが、その対談のあと、いまから2週間ほど前、全国大会に出場するための基準タイムを目指す最後のレースで基準の10秒3に到達せず、その夢も途絶えてしまった。それでも10秒8は出ていて、とんでもないことだなと思うのだが、レースのあと彼は泣いていて、三浦カズがいたずらに現役を延ばすようなものとはぜんぜん違ったのだろうな、45歳で10秒台前半を実現する走りに到達している自信がマジであったのだろうなと思う。それは世界陸上銅メダル、20秒03という20年以上破られていない日本記録というものの外に自分のアイデンティティがあるのだということを示す復讐のようなものですらあったのだろう。

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6月23日(日本人的)

家を出ると前の道が工事でほとんど塞がっている。パイロンで仕切られた端っこに向かうと、黒人の作業員が軽くお辞儀をしながら手をかすかに差し出して誘導してくれた。その動作はきわめて日本人的で、同時に、ちょうどその現場を抜けたところにあるセブンのサンティアゴさんという中年の女性店員のことが頭をよぎった。ブラジルかペルー出身とおぼしき彼女の言葉にはうっすら訛りが残っているが、レジに商品を持っていき、PayPayの画面を差し出すと、ピンク色の尖った爪をした右手にスキャナを持ち、そこに軽く左手を添える所作が、やはり否応なく日本人的で、こうしたことが習得可能であるのだということに、そこにあったのかなかったのかわからない摩擦に、いつもちょっとたじろいでしまう。

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6月22日(TOKIO松岡)

TOKIOの国分太一の活動休止を受けた報道で、松岡昌宏が自身が主演する舞台の劇場を囲む取材陣に対して、コメントをせずただ無言で3秒間頭を下げ続けたという記事があり、その時点でうっすら面白かったのだが、「かほく市在住の50代女性は「観客はみんな松岡さんを応援する雰囲気だった。菜箸をドラムスティックのように操るシーンもあった。いつかまたTOKIOとして演奏して歌ってほしい」と話した」という記述があり思い切り笑ってしまった。とてもいいニュースだ。

トランプが議会の承認なしにイランの核開発施設を爆撃した。「世界の警察」から降り戦争をせず自国の利益を追求するという当初のMAGA的な理念との矛盾を指摘する向きもあり、実際内部の対立もあるということだが、どうなるか。理念の暴走と理念なしの化かし合いのどちらが怖いのか。あるいはそれらが同じことであるのが怖いのか。

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6月21日(野良犬)

いちおう禁煙していることになっているので、煙草を吸っているのを妻に見られるのがうしろめたく、昼食のチャーハンのためにネギと卵を買いに出て外で吸っていると、白い犬が横切った。前から近所にいる野良犬で、いちおう首輪が着いていて、まわりのひとも特段気にしている様子がない。野良犬がいる街に住めてよかったなと思いながら煙草を消すと地面に1000円札が落ちていて、それを拾ってネギと卵を買った。

フィリップ・サボの『フーコー『言葉と物』を読む』は期待していたのだが、思っていたよりずっと難しい本で、しかも第2部の解説がメインで、第2部はどうにかこうにかわかるので問題は第1部なのだがと思う。『言葉と物』を読み通すより早く読めるというだけで、拾える構造の粒度はそんなに変わらない気がする。『言葉と物』の通読を断念したひとのための本という感じがする。だとするとやはり必要な本だ。

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6月20日(グレッグ・イーガン)

授業のリアクションペーパーの採点。グレッグ・イーガンの「貸金庫」と「百光年ダイアリー」について話した回で、冒頭にイーガンを知っているか訊いたら200人中ゼロ人で、『三体』やテッド・チャンについても5、6人手が挙がるだけだった。でもやってみたら、これまでの10回でいちばん反応がよく、リアクションペーパーの内容もふつうに考察として面白いものが多かった。やはり物語というものは強いのだなと思う。

日記論で難しいのが、『アンネの日記』にせよカフカやウィトゲンシュタイン、あるいは島尾敏雄のものにせよ、 日記そのものを取りあげても、個々の日記自体は当然たんなる日記なので、なかなか理論的な議論に繋げづらいということだ。その点、イーガンの短編は、ダイレクトに日記にかかわるものでありながら作品そのもののうちに書くことと生きることをめぐる問題が埋め込まれており、こういうものを見つけるのはなかなか難しい。

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