再校ゲラのチェックを進める。表記統一についての判断にいちいち足を取られるのもどうかなと思う。わりとあらかじめ決まっているほうだとは思うが(たとえばこの「ほう」を僕はいつも開く)、「あつかう/扱う」とか「つながる/繋がる」とか「おこなう/行う」とかに揺れがあり、それはそのときどきの気分で、文章の内容とも無関係ではないのたから、それでいいではないかとも思うが、たとえば同じ見開き内で揺れがあったらそこに気分以上の意味を勘ぐられそうな気もするし、だったらやはり統一するのが無難なのか、とか。他方で「あらわれる/現れる/表れる」は僕のなかではわりと意識的に使い分けているのだが、校閲から開いて統一する提案が入っており、いやー、それはちょっとイージーすぎる感じもする。ややこしいのは、やっぱりこうしようの「やっぱり」と、でもさっきこうしたしの「でもさっき」が毎度衝突することだ。
月: 2024年5月
5月9日
外でゲラ。決断を後回しにするための付箋を家に置き忘れたことに気づいてがっかりする。iPhoneのメモで代用する。
夕飯に鰺のパスタを作る。とてもおいしかった。また作ろう。小倉知巳のペペロンチーノをベースに、アンチョビとパルミジャーノを加えて奥行きを出したレシピ。彼のレシピ動画がいいのは、基本の食材が銘柄とともに固定されていて、それを絶やさないようにストックしておけばあとはその日食べたいものや家にあるもので作れること、そして具材を足すときに必要な工夫も合わせて紹介されることだ。和食は多様な食材がまずあって、それを基本の「さしすせそ」で収束させる傾向があるように思うが、イタリアンの基本食材(パスタ、唐辛子、にんにく、トマト、チーズ、オリーブオイル、ハーブ類)はむしろ、そこからそのつどのメイン食材によって味を発散させるためのものとしてあるように思う。だから「イタリア料理はムラの美学」であるわけだ。こちらのほうが僕の性に合っている。なによりパスタを茹でるのは米を炊くよりずっと早くできるし。
鍋で塩を加えた湯を沸かしながら、材料を着る。にんにくとイタリアンパセリはみじん切り、おろした鰺を一口サイズにする。パルミジャーノをたっぷりすりおろしておく。冷たいフライパンににんにくと唐辛子(ペペロンチーノ・ピッコロならなおよし)とオリーブオイル(安物)を加え、中火で温め始める。鍋にパスタ(ガラファロ1.5ミリならなおよし)を加え、別のフライパンで鰺の身を皮を下にして強めに焼き始める。にんにくの香りが出たらアンチョビのフィレを加える。ゆで時間が残り1分くらいになったら鰺の身を、あとで上に載せる何切れかを残してソースに混ぜ合わせて粗く身を潰す。茹で上がった麺を合わせてパセリ、パルミジャーノ、オリーブオイル(いいやつ)を加え、茹で汁で水分を調節する。皿に盛って切り身を乗せ、粗挽きの胡椒をかける。
5月8日
朝8時までかかって原稿を出して、2時間だけ寝て、7日には原稿が終わっているはずだったので11時から予約してしまっていた鍼灸院に行って、1時から新しい企画の打ち合わせで編集者とサモアールで話した。鍼灸師に右の股関節のこわばりは古いものですかと聞かれ、そういえば高校のころサッカーで軽い疲労骨折になっていたのを思い出した。いまだに右足だけちょっと太いらしい。打ち合わせはゼロからなのでいろいろカードを出して結局3時間くらい話して方向性は見えてきた。夏頃にもういちど話して企画として固めたいと言われたが、枠組みに引っ張られるのも嫌なのでもうしばらく寝かせてほしいと言った。帰って、妻に悪いが夕飯は適当に何か買ってきてくれと連絡して寝た。
それにしても気づけば、ゴールデンウィークに入ってから来週あたりまでめちゃめちゃ忙しい。連載原稿はやっと手放せたが、『非美学』再校ゲラももう戻さなければならず、週明け月曜はフィロショピー初回、火曜は「いてもいなくてもよくなることについてvol.2」公開収録、水曜は『眼がスクリーンになるとき』文庫版追加鼎談の公開収録…… ぜんぶ頭の使い方がちょっとずつ違うし、これらが終わってももう2週間後には連載次回の締め切りで、今回の校正も並行してあり…… まあフリーになってこれだけ仕事が詰まっているのは喜ぶべきことでもあるのかもしれないが。
5月7日
また朝までかかってなんとか原稿を仕上げる。いつも最後は徹夜になってしまうのは、単純な準備や書き方の問題ではなく、気持ちの問題でもあるのだろう。ともかく今回もいいものが書けたと思う。
エディタに書いているのが行き詰まると、紙のノートにいま何がどこまで見えているのか書く。最後のセンテンスをまるまる書き写してから、内容というよりその流れからの書き味だけをたよりに次の文を書く、その箇条書きが数歩進んだ先でまた行き詰まり、そうするとこんどはさらに数歩先に出てくるだろうことについて、文としてではなくフレーズ単位の箇条書きがばらばらと並び、最後はキーワードを矢印で結んだアイデア図になる。左上から右下まで、だんだんグラフィカルになった見開きが出来上がって、それを左上からエディタに打ち込んでいく。フレーズの頭出しをしたところを文に置き換えていると、だいたい別の問題が発生して、また同じように見開きぶんの見通しを書く。それを繰り返す。
5月6日
7日午前が「言葉と物」の締め切りで、夜通し書いていたのだが間に合わなかったのでもう1日だけもらうことにした。とはいえ今回はそれっぽい枠組みを作らずにタイトに、直截に書いていて、また新しい書き方ができているという実感があって、嫌な焦燥感はない。
『非美学』の再校ゲラと連載の原稿の作業のあいだにばちっと静電気のようなものが走って、ドゥルーズの「他者」概念が何をしているのか、やっと心の底から理解できた。たとえばこういうことだ。あなたはいま、とにかくぼおっとしている。交差点に並ぶ車のランプの明滅に自分が吸い込まれていくように、あなたは知覚に溶け込んでいく。それは他者がない世界であり、椅子と尻の接面、舌と口蓋の接面、遠くの声や音のすべてに等価にあなたの存在が張り付いていく。そのときふと、「カギの110番」という看板の文字が目に入る。それが他者だ。さっきまで世界は私と溶け合うひとつの気分で満たされていたのに、その文字はカギのトラブルがありうる世界を表現する。だから他者は「世界を過ぎ去らせる」のであり、「過ぎ去った世界に置き去りにすることによって私を作る」のだ。いまや世界は、カギのトラブルがありうる世界になり、私は文字通り「我に返り」、さっきまでの、カギのトラブルの可能性もなく、他者から隔てられる限りでの私もいなかった世界から遅れてやってきたものとして、その遅さにおいてのみ私という資格を与えられる。他者が「可能世界の表現」であるというのはそういうことで、それが看板の文字であれ他人の顔であれ、あなたを我に返らせるものが他者であり、他者はある遅さにおいて我に返らせると同時に、世界をここにはないもので裏張りする。
5月5日
今日はいいことをした。妻とイセザキモールを歩いて帰っていると、カルディの前でおばさんが小さな子供の手を持って膝をついて話しかけている。子供はそれに答えず立ち尽くして周囲を見回している。そのしばらく先、ドンキホーテの交差点の手前で電話を持って中国語で話している女性がいて、その必死な様子を見て、彼女がさっきの子供のお母さんで、子供は迷子なのだろうと思って、お子さんを探してますか、カルディに迷子の子がいましたよと話しかけると返事もなく走って行った。いちおう着いていってみるとやはりそうだったらしく、母親は大泣きしながら子供を抱えていた。妻がよくわかったねと言う。何年もこの道を歩いてきた甲斐もあったというものだ。
5月4日
数年前に妻に買ってもらったSONYのワイヤレスイヤホンが、電池がすぐ切れるようになってきた。乗り換えるならAirPodsProか。
腸が疲れていると鍼灸師に言われて、一日3、4杯飲むコーヒーのせいだろうと思ったので、台湾の凍頂烏龍茶を買って家でコーヒーの代わりに飲み始めた。丸まった茶葉を4つくらいカップに入れてお湯を注ぎ、飲みきったらまたそのままお湯を注ぎ、それだけで4杯ぶんくらいは飲める。
夕方、後頭部が痛かったので頭痛薬を飲んだ。しばらく出ていなかったのだが。鍼でゆるんで血流がよくなってかえって痛くなっているのだろうと合理化する。
5月3日
フィロショピーの企画説明配信のための台本を作って、夜、こないだ買ったコンデンサーマイクを繋いでYouTubeで配信をした。購入者が100人いくといいなあと思ったが、まだ50人弱。直前で伸びることを信じつつ、また広報を打っていくほかない。今回はしっかり準備したのもあって結局ひとりで追い立てられるように2時間も喋ってしまったが、次は手ぶらでゆっくり喋る回をやってみてもいいかもしれない。それにしても僕は、自分で考えて何かするほうが性に合っているのだなと思う。その意味でフィロショピーはあんまり大きくしたくない。いまなんとなく妄想しているのは、関内あたりに小さな場所を借りて、そこに来ればタダで講義が聴けるようにすること。でもそれもちゃんと回るという確信があるていど得られてからのことだ。久しぶりにマイクに向かってひとりで喋って疲れた。コーラを買いに出て飲んで、歯を磨いて寝た。動画の最後に話したが、購入者には擬似的な会員制度として次回購入に使える20%オフのクーポンを配ることにしていて、次はベルクソン『物質と記憶』とデリダ「プラトンのパルマケイアー」(feat.プラトン『パイドロス』のセットにしようと思っている。そうすると全24回の講座が20000+16000=36000円で買えて、4つで20世紀哲学の本流を抑えつつ、自分で読み進める力もつくはずなので、ものすごくお得だと思う。ぜひ買ってほしい。あと50人。
5月2日
予約していた鍼灸院に。前に行っていた横浜駅近くとは別のところで、中国人の先生がひとりでやっているところに乗り換えることにした。日本のものより刺激が強いらしく、それも気になるし、いや、それもそうなのだが、何かを決めるときの動機はもっと複雑と言えば複雑で、単純と言えば単純で、もう日記もあとひと月で終わるが、僕はそうした行為の実状をずっと逸し続けてきたような、あるいは、それを逸して散文の貧しさのうちに均してしまうことの自傷的な愉しみに淫してきたような、いや、それこそが書かれる自分と書いている自分のあいだのパテーションとなって自分を保護してくれるような、とにかくそういうぐちゃっとした何かのなかで、鍼を打ちに来た。待っているあいだ置かれていた本のうちからファスティングの本を開くと、カロリー信仰、肉食信仰への批判とセットになった、お決まりの医療産業陰謀論が展開されており、まあ生き方が医学に包摂できるわけもないのだから、それをそれぞれの意見のレベルで考えるか、あるいは生体そのもののありようのレベルで考えるか、そのふたつのレベルは否も応もなく循環するわけで、結局のところ要素還元主義とホーリズムのふたつに出たり入ったりする、しかしその出入り自体はメタ化されないようなものを「内在——ひとつの生」として考えるしかないのだ。先生は肌にアトピーの面影があり、ちょっと中国語訛りで、僕を立たせて後ろから首から足首まで触って確かめる。仰向けにして腹を押して、腸が疲れているが、お酒は飲まないんですよねと聴く。はいと言いながら、コーヒーの飲み過ぎかなと思う。ふつうはうつ伏せの治療がメインだが、うちは内臓から整えるので仰向けの治療が長いのだと話す。鍼が打たれるたびに弦を弾くように線としてそのあたりが響いて、もう効きそうだなと思う。ひととおり打つと、みぞおちのうえに湯たんぽのようなものを置いて、15分ほど目を閉じて深呼吸してくださいと言って出て行った。寝るのかなと思ったがずっと起きていて、うつ伏せになって同じくしばらく鍼を打ったまま置かれて、起き上がると右目だけ焦点が合わなくなっていたが、枕が当たっていたからかと思い息もしやすくなって視界もはっきりしますと言って院を出た。隣の中華料理屋で麻婆豆腐定食を頼むと甜麺醤と花椒が強すぎて肉と豆腐の味が潰れており、ちょっと残念な気持ちでイセザキモールを帰った。歩いていると右目の焦点が合い始めて、視力がぐっと回復した。たぶん相当疲れていて、鍼で戻ったその疲労に眼の筋肉が追いついてきたのだ。
5月1日
朝起きるようになってもう2ヶ月ほど経つんだと思う。一日が短くなった。夕飯を食べ終わってまだ8時なのに、今日はもう終わりなんだという事実にどう向き合っていいのかまだよくわからない。でも10時に薬を飲めば11時には眠くなるし、起きたらもう朝で、一日の重心が朝から昼にかけてにあるということにまだ慣れない。ストラテラは飲むのをやめてしまった。なんだか勃起障害というか射精障害というか、ぼやっとしたままだらっと出る情けない感じで、調べるとたしかにそういう副作用が出る場合もあるらしく、効果もあるんだかないんだかぼやっとしているし、仕事への取り組みに関しては環境と体調の要因が大きいのだろうから薬のことはまあ忘れることにする。それにしたってADHDの診断のいい加減なことよ。MBTIのほうがまだ設問が多い。あまり医療産業陰謀論みたいなことは言いたくないし、ある程度このSNS、スマホ、サブスクサービス、クソ広告の高度注意社会と付き合いながらやっていくほかない以上、医療化も避けがたいところはあるにせよ、ちょっと人の気持ちに踏み込みすぎ。人の気持ち。チーム友達くらい流行ってほしい。