日記の続き#76

ばらばらと買った本をばらばらと読んで、遅い昼寝から起きて、米を研いで炊飯器をセットして、この日記を書いている。今日は何を作ろうか。最近作ったもので言うと、こないだ作ったヒレカツは上手にできて、昨晩作ったパスタはちょっと凹むくらい失敗した。まあまあ料理はできると思っていたし、そのなかでもパスタは作り慣れているはずだったのだけど、小さな失敗が積み重なってぜんぜんおいしくなったのだ。彼女にパスタにしようと思うが何が入っていると嬉しいかと聞いて、スモークサーモンだと言うのでまいばすけっとでスモークサーモンとアボカドを買ってオイルのパスタにすることにした。最初の失敗は麺を茹でるお湯に塩を入れ忘れたことで、途中で気づいて具のほうに塩を入れて味を調節しようとしたのだけど、なんだかしょっぱさだけ浮いた感じになってしまった。アボカドは実が堅くて風味が浅かったし、作りながら入れることを思いついた舞茸はちょっとエグみが出ていたし、これはもう牛乳を入れてクリームパスタにするしかないなと思ったら賞味期限が切れていた。料理を失敗したときの独特のやるせなさには、生活のゲシュタルトが崩れ去っていくようなところがある。彼女はおいしいよと言って食べてくれたが、彼女にしたってちょっと失敗するとすぐもう捨てると言い出すので、そのたびに僕がなだめるのだ。ゴミに意味を与え合っていくことで張り合わされる生活、その破れをラカンは現実界(英語だとthe Real)と呼んだわけだけど、生活はその大仰な闖入の大仰さを笑い合うことも含み込んでもいる。それにしても今日は何を作ろうか。お米が炊ける匂いがする。

日記の続き#75

髪を切りに行く。3ヶ月以上切っていなくて、通りがかるガラス越しに見ると頭がもさっと膨らんでいる。ちょっとぶらぶらしようと早めに横浜駅に出たのに、着いた途端気持ちが失せて本屋で本を買って、はずれにあるドトールまで歩いて行って2時間ほど読んで美容院に行った。ひとしきり切ってシャンプー台に移るときにそういえばまた煙草値上がりしたみたいですねと言われ、喫煙席で燻されていたから匂いがついているのかもしれないと思った。通りに出ると路肩に右翼の街宣車が止まっていて、白い街宣車は珍しいなと思っていると聞いたことのないくらいの大音量で叫び始めた。他の音が吹き飛ばされて重さのない空間を歩いているような感じがする。「貴様ら」という二人称を使って北朝鮮に拉致被害者を返せ、ミサイルを撃つのをやめろと繰り返している。そうなるとこれは街宣ではなく呼びかけないし警告であるわけで、われわれはそれをたまたま聞いている第三者だということになる。横浜駅に戻ると拡声器に旭日旗のステッカーを貼った、こんどは黒い右翼の夫婦とすれ違った。男は黒いTシャツにチェックのシャツを腰に巻いて、雨ざらしになったボール紙みたいな合皮の編み上げブーツを履いている。この黒右翼はさっきの白右翼と関係あるんだろうか、しかしどうにも釣り合わなさそうだ。この黒右翼に横浜の路肩から日本海の向こう側に向かって叫ぶ狂気があるとは思えない。高島屋の脇にある喫煙所で煙草を吸って帰った。(2021年10月9日

日記の続き#74

6月19日。昼に起きて配信でTHE MATCHを見た。前半の試合が終わった頃に出かけていた彼女がビリヤニを買って帰ってきてくれて一緒に食べた。最後の那須川天心があまりに強かったので、それまでの試合の幻想が吹き飛び、彼がいなくなってしまったキックボクシングは本当に焼け野原になるんだろうなと思った。それにしても彼と武尊がこのリングで3分3ラウンドふたりきりになるためにこれまでどれだけのものを積み上げてきたのかと考えると、本当にすごいことだと思う。ふたりになるというのはこれだけ大変なことなのだ。対話でも議論でも闘争でも批判でもポジショントークでもなんでもいいが、そういうもので何かしらの関係や地位を作れると思っている人らに、あのふたりが6年間、それぞれが約40試合負け無しで闘い続けて初めてやっとリングで向かい合うことができているという事実を、あなたがたはどう考えるのかと聞きたくなるようなよくわからない怒りがこみ上げてきた。同時に、この試合が実現したという事実は、単純にルールや制度に乗っかったのではないところで自力で、それぞれがあらゆるものを動員して、フェアな関係を作ることができるということをあらゆる関係の非対称性が言われるこの時代に示しているわけで、それはどこまでも素直に尊敬するべきことだと思った。

日記の続き#73

名前を書こうとして「ふくおた」を打ったら「ビリヤニ」と変換されて、そのことについてツイートしようと「ビリヤニ」と打ったら今度は「表象文化論」と変換された。前々からMacの入力ソフトが変な学習をしていることは気になっていて、ここはひとつと思ってジャストシステムのATOKをインストールしてみた。入力ソフトを変えるのは初めてだ。ライブ変換じゃなくなったし、変換候補のウィンドウのデザインが違うし、確定しようとして改行してしまったりでまだ強い違和感があるが、慣れるまでしばらく使ってみよう。去年読んだトーマス・マラニーの『チャイニーズ・タイプライター』が面白くてそれから梅棹忠夫の『日本語と事務革命』や武田徹の『メディアとしてのワープロ』を読んだりした。QWERTYキーボードでローマ字入力し、それを漢字仮名交じり文に変換するという、考えてみればとても奇妙な書記システムにわれわれは適応してしまっているわけで(その意味でフリック入力は重要な抵抗行為だ)、これはなんなのかと気になったからだ。武田の本には最初のATOKの開発者のインタビューが収録されていて、当時は変換用の辞書を一から人力で作っていたらしい。それがフロッピーになって、ワープロに挿していたわけだ。その歴史に敬意を込めて今回はATOKにしてみた。ローマ字入力とフリック入力の次に来るものはなんだろうか。いまのところ音声入力技術の発達が期待されているのかもしれないが、もはや「入力」すらしなくなるかもしれないなとも思う。

日記の続き#72

ドトールの喫煙ブースに入ると、もう腕落としちゃうしかないんじゃない、でもあいつ腕落としたら脚落とすタイプかもという声が聞こえてギョッとして、あまりそちらを見ないように煙草に火をつけた。台に肘を置いて向き直るように視野の端で声の主を見ると、金髪にフェイクファーの黒いパーカーを着た女性が壁に背をもたせかけてしゃがんで電話していた。真っ白の厚底スニーカーから鋭角に飛び出した日焼けした膝が黄ばんだ照明を受けて光っている。いずれも誇張されたシルエットの黒と白で挟んで、脚を細長く見せるためだけに選ばれたような格好だ。服を着ていない部分を見せるために服を選ぶというのは僕にとっては尋常ではない感じがした。まさか本当に腕を切り落とす話をしているとも思えないが——たぶんリストカットをやめられない知人の話でもしているんだろう——とはいえ水商売とかですらなさそうな非カタギ的な服装だし、なんだってここらの喫煙ブースはそういうろくでもない話をしているやつばかりなんだと思った。こないだはコメダに詐欺にあった「社長」と彼をなだめているんだかからかっているんだかわからない「マネージャー」がいたし、いつかはこのドトールであいつも殺人教唆で7年くらったからなあと、高校の部活仲間を思い出すみたいに話しているおじさんがいた。時代の闇の象徴とされるような突発的な暴力とは違う、分厚い歴史のなかで醸成される悪や暴力もある。そういうもののほうが僕にとっては異質に感じられる。喫煙席から喫煙ブースへの移行にともなってその密度が増しているのだ。人を馬鹿にしたような小ささのセリーヌのバッグを提げてその女性が出て行った。(2021年11月6日

日記の続き#71

6月15日午後9時。京都から横浜に戻る新幹線車内。非常勤先で6つの研究発表を聴き、5つに質問・コメントをして脳が疲れた。と言ったものの、僕は脳が疲れるということにはなかば懐疑的で、耳と側頭部と胸骨・胸郭を掌底でぐりぐりと骨から皮膚を引き剥がすようにマッサージするとそれだけでかなりスッキリする。でもこのスッキリもシャキッとするということではなく無意識の強張りがほどけてリラックスするという感じで眠くもなるので、やはり脳が疲れているのかもしれない。脳に疲労が存在するとして、それは筋疲労とどう違うのだろうか。脳と言えば、僕は物心がつくと同時にその柔らかい頭に「脳がスポンジ状になる」という狂牛病問題の報道が飛び込んできたトラウマを抱えた世代の人間だ。

というところまで書いてやめて、帰って寝て起きて翌日の午後3時。珈琲館。なんで狂牛病の話なんかしようとしていたのか思い出せないが、ともかく僕が8歳くらいから中学くらいまで、つまり2000年から2008年くらいまでの時期は、やたら食品関連の事故や不祥事のニュースが多かった気がする。狂牛病、段ボール餃子、不二家、雪印、ミートホープ、船場吉兆、生レバーの販売禁止。大人になるともう世界には不味いものがなくなっていた。こないだセブンイレブンでパテ・ド・カンパーニュのバゲットサンドが350円で売られていて驚愕した。パテとピクルスと粒マスタードだけの、それぞれの角を取って媚びるようなソースもない素朴でおいしいサンドイッチだ。こういうのは僕が子供の頃、小林聡美が主演する恐ろしく退屈な映画でしか見たことがなかった。それにしてもあの『かもめ食堂』に始まる一連の退屈な映画はなんだったのか。あの退屈はなんだったのか。観光地で帆布のバッグを買うおばさんの退屈だ。食品偽造と『かもめ食堂』的な退屈とスポンジ状の脳のゼロ年代。僕のなかでそれらはずっとわだかまっている。

日記の続き#70

引っかかる引っかからないで言えばぜんぶ引っかかるのだ。あるコラムが「フェミ系」の人に向けての揶揄であるということで誌面の写真がツイッターで拡散され批判されていた。その内容と同じくらいどの雑誌のものかも言わず誌面の写真を貼ることが引っかかる。引っかかる引っかからないで言えばぜんぶ引っかかるけど、ツイッターは素材の投下とそれへの反応のセットが怖いくらい効率化されていて、制裁を加えてよい引っかかりももう写真やハッシュタグや語彙のレベルで圧縮されてパターン化されている。でも文章なんてもともと引っかかりの塊だ。他人の書いたものを400字読めば絶対自分はこういう言い方はしない・できないという箇所が出てくるだろう。それは潜在的、一次的には不快だが、憧れに転ぶこともあるし、怒りに転ぶこともある。引っかかりには書き手と自分の体の距離が表れていて、表面化した感情にはすでに第三者からの目線が入り込んでいる。サッカー選手が大袈裟に転んで見せるように。それは「シミュレーション」と呼ばれる。ぜんぶが審判へのパフォーマンスになるとゲームは崩壊する。問題は一方でコンタクトの技術が蒸発すること、そして他方で、世界に審判などいないということだ。逆に言えば引っかかりへの解像度を上げることと、自分がいったい誰を・何を審判だと思っているのかと考えることはいつもセットであるということだ。(2021年6月13日

日記の続き#69

午後4時。ファミマで『日記〈私家版〉』8冊の発送作業をしていつもの珈琲館に来た。 もう在庫は残り3冊だ。これが売れれば完売ということになる。あとは書店の在庫だけだ(もともと合計30冊ほどしか卸していないので、これもそんなにやきもきしなくてもすぐ売れるだろう)。発売からちょうど1ヶ月で365部売り切ったわけで、ひとりで作ってひとりで売った本としては上出来じゃないかと思う。とはいえもっとうまくやれたなと思うところはいくつかある。たとえば今回はどんなにお世話になっている人であっても献本はしないし、個人的な刊行の報告もしないという方針を立てていた。まあ方針というほど立派なものではなく、たんに自分の日記を読んでくれと言ったりましてや勝手に送りつけたりというのは変な話だなと思ったからだ。でも次にまた別の本を自分で作ることがあったら、プロモーションの種まきを刊行前からいろいろしておくべきだなと思った。今回は動き出しが遅かったので刊行記念のトークイベントや選書フェアが行われるときにはもう売り切れという変なことになってしまった。でもまさか書店から注文が来るとは思っていなかったのだ。いわんやイベントをや。まあ書籍に「絶版」はつきものだがそれを「完売」と言ってお祝いすることは見たことがないので、刊行&完売記念ということでやればいいのかもしれない。読みたきゃ全文ここにあるわけだし。

追記。午後10時。在庫ゼロになった。完売!

日記の続き#68

6月13日。作業メモより。

  • 『非美学』第3章の第3節の下書きが終わったところで、数日スタックしている。
  • どうしてか:これを原稿にしてから次節に取り掛かるか、次節の下書きに移るか迷っている。
  • それにともなってツイッターやYouTubeに逃げている時間が増えている。
  • 互いが互いの逃げ場になりつつ、そこに均衡が生まれてしまった場合、くさくさした気分だけが堆積していく。恐ろしいことだ。
  • ここのところ記事やツイートの反応が引きっきりなしにきていることも、このざわざわした居心地の悪い均衡に関わっている。
  • そのほか微妙に頭に引っかかっている仕事もいくつかあり、それらすべてが蜘蛛の巣のように多方向にピンと張り詰めているのだ。
  • それを打破するためにこうして、千葉さんの真似をしてworkflowyでフリーライティングをしてみている。
  • こうしてみると、細かいことや生活リズムを整理したうえで大きい原稿に取りかかる——逼迫しているわけではない——のがいいのかもしれないとも思う。
  • でも「細かいことが整理される」なんてことは一生来ないので、長い目でやる作業の時間と細かいことを処理する時間を分ければ良いのだろう。
  • 最初の問いに戻る。
  • 内容の面からみると、手が止まっているのは第4節をどういうストーリーにするかということの見通しが立っておらず、それが第3節の堅牢性によることなのか判断がついていないと言い換えられる。
  • 第3節をしっかりやればおのずと次の道も見えるだろう、いやしかし…… と。
  • あらためて第3節の論旨ひとことで言うなら、『千のプラトー』には〈動物になること〉と超越的な〈人間であること〉のあいだに、内在的な形態としての人間というレベルが想定されており、これが本書の倫理的・批判的価値の源泉となっているということだ。
  • 人間を人間中心的=超越と人間形態的=内在にレベル分けしたうえで、後者を前者に宿りうる特殊な習性=錯覚として埋め込みなおすこと。
  • これが具体的には、イェルムスレウの二重分節の議論がどのように読み替えられているかということに沿って展開されるわけだが、これはかなり込み入った操作であり、気になっているのはこれがちゃんとできているのかということだ。
  • まあ……、できているとして進めるよりほかないだろう。
  • それで、できているとして第4節はどうするか。

(以下略)

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カテゴリー: 日記

日記の続き#67

6月12日。ここ数日うまくいっていない感じがするので、初心に帰って日記らしい日記を。日記飽きた!!とつぶやきそうになったのだがやめた。べつにいつやめたっていいと思うが、そういう気持ちになっているときは日々に対して抱えている屈託を日記に対する苛立ちにすり替えているだけで、でも日記は黙々とそのすり替えさえ受け入れるものでもあり、誰だってそういうものをひとつくらいもっていたほうがいいのだ。と思ったら彼女が座って手にバンテージを巻いており、こんな夜中にバンテージを巻く配偶者があるかと言ったら、こないだジムのタイ人トレーナーのクンさんに習った巻き方を試しているのだと言った。昨夜は彼女がジムから真っ赤な液体をペットボトルに入れて帰ってきて、それは何かと聞くとクンさんがお気に入りのシロップを水に混ぜてくれたのだが、甘すぎて飲めないのだと言っていた。たしかに置いているだけで蟻が寄ってきそうな甘い匂いがする。今朝、というかもう昼だったが、起きたら彼女は今度はサバットの練習に出かけていて、卵かけご飯を食べていると急にものすごい大雨が降ってきて窓を閉めた。すぐに止んで『日記〈私家版〉』の注文ぶんを発送しに出かけるとアパートの廊下の窓が開いていて床に水たまりができていた。帰ってきた彼女と近所の駅で待ち合わせてそのまま近くのココスで遅い昼ごはんを食べて、家に帰って遅い昼寝をした。玄関のチャイムが鳴って起きたが誰もおらず、ふらふらと布団に戻ると彼女が不思議そうにしており、どうやらチャイムは鳴っておらず僕が寝ぼけていただけだったということらしかった。